常識について思うこと

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外れない補助輪と外す努力

2008年03月03日 | 人生

幼い頃、最初から補助輪を外した状態で、自転車を乗りこなせた人はいなかったはずです。まず自転車は、足でペダルを漕いで前に進むものであり、ハンドルで方向を決めることができ、止まるときにはブレーキをかけるということを体で覚える必要があります。これらの動作が着実にできるようになった後に、バランスを取りながら前に進むということができるようになるわけですが、それまでの期間は、どうしても補助輪が必要になります。どんなに初心者でも、補助輪があれば、ほとんどの場合、何とか自転車には乗れることでしょう。自転車を乗りこなせるようになるためのプロセスとして、補助輪は必須品だと言えると思います。

しかし、補助輪に頼ってばかりいては、いつまでたっても、自分の力で自転車を乗りこなすことができるようにはなりません。補助輪を付けていれば転ぶことはないし、技術が未熟でも乗れるため、便利で安心ですが、付けっぱなしでは、自転車本来の速度を出せないだけでなく、自転車ならではの多少のデコボコ道や細い道を走ったり、小回りを利かせて走ったりすることができないままになってしまいます。

ですから、ある程度、補助輪付きの自転車に慣れてくれば、多少転んだりすることがあっても、補助輪を外して自転車に乗る練習を重ねて、普通に乗りこなせるようにするわけです。

補助輪の考え方は、人間の生き方にも共通する部分があるように思います。人間は、大変弱い存在です。生まれてきてから死ぬまでの間、必死になって自分ひとりの力で生きていこうとしながらも、なかなかそうはいきません。試行錯誤を繰り返しながら、自分ひとりの力の限界を思い知らされ、結局、何かに頼った生き方をしてしまうものです。いわば、補助輪に助けられながら、前に進んでいると言えるでしょう。補助輪には、いろいろなものがあります。家族、友人、会社、組織、国家、宗教・・・。これらはすべて、人が生きていくにあたって、どうしても必要な補助輪の役割を果たすことがあります。

ただし、人生における補助輪は、なかなか外れることがないという点で、自転車のそれとは異なり、またそのおかげで厄介な問題を引き起こしているようにも思います。

自転車は、いつか自分ひとりで乗りこなせるようになります。完全に外すことができるわけです。しかし、人は絶対に一人で生きていくことができません。つまり、上記のような意味の補助輪を完全に外すということができないわけです。

このことは、やもすると補助輪に頼り切った生き方をさせてしまうことになります。「どうせ外れない補助輪」であれば、人々は最初からそれがあることを前提とした生き方をしてしまう恐れがあるわけです。このことは、様々な問題を他人のせいにしてしまう無責任社会を形成させる原因にもなってしまいます。

私は、人間が生きていくうえで補助輪は必要だし、補助輪に大いに頼っていいのだろうと思います。家族に頼り、友人に頼り、会社に頼り、組織に頼り、国家に頼り、宗教に頼った生き方自体、悪いことではないでしょう。しかし同時に、補助輪は、所詮補助輪であることを十分に認識しておくことも重要です。補助輪に寄りかかった走り方をするべきではありません。本当に転びそうになったときに、補助輪に支えられることは悪いことではありませんが、何よりも大切なことは、自らが補助輪なしでも前に進んでいこうと努力することです。

ただ実際、人間は常に何かしらの補助輪によって、支えられているものです。もし今、あなたが「まったく補助輪なしで生きている」と言い張ったとしても、それはあなたが気付いていないだけと考えるべきでしょう。よく考えれば、分かることだと思います。

どうせ外れない補助輪。だけど、外そうという努力を続けること。

このふたつの矛盾の合間を縫っていくことが、生きていくということのように思います。

さて、あなたにとっての補助輪とは何でしょうか?そしてまた、あなたはそれをどのように外そうとしているでしょうか?自分自身に問い続けていくことで、生きていくべき道筋は見えてくるかもしれません。

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