新・むかごの日記

高槻市に在住の、人間と自然が大好きな昭和1桁生まれの爺さんです。
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コウヤボウキ:高野箒(高野山より古い箒の材料)

2013-02-16 10:11:54 | 植物観察1日1題
山道をあるいているとコウヤボウキ:高野箒(キク科コウヤボウキ属)の果実がまだ風に飛ばされずに残っていました。
コウヤボウキ:高野箒)は、山中の雑木林などの半日陰に普通にはえる草本状の落葉小低木で、やや木質の草本とする扱いもされています。
晩秋、短い1年枝の先に1個ずつつく頭花は、うすい紅色またはほとんど白色で、総苞の長さ13~14mmで短筒形、中には10数個の小筒状花があります。(‘05年11月12日記事)
コウヤボウキの名の由来に、弘法大師が、果物と竹(筍)は美味しすぎるので、修行の妨げになると高野山で植えることを禁じたので竹箒の代わりにコウヤボウキで箒を作ったとか、高野に参詣する人を食う大蛇がいたので大師が怒り竹箒の中に閉じ込めてしまった、それ以来高野では竹箒を使わずコウヤボウキで代用したなどの話がありますが、あまりにも嘘っぽく信じられません。
古い言葉にある玉箒(たまはばき)は、一般にコウヤボウキを指すものとされています。
いつぞや正倉院御物展で、蚕室を履くのに使われたという、コウヤボウキを束ねて箒にし、ガラスや真珠などをつけた「子日目利箒」(ねのひのめどきほうき)という銘の玉箒を見たことがあります。
万葉の昔、正月の初子(はつね)の日に、この玉箒で蚕室を掃く儀式がありました。
「初春の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)
   手に取るからに揺らく玉の緒 」   巻20-4493 大伴家持
は、天平宝字2年(758)初子の日に孝謙天皇から廷臣に「玉箒」を下賜され、詔旨に応えた大伴家持が詠んだとされています。
高野山の麓に近い私の郷里では実際にコウヤボウキで箒を作っていましたが、万葉の昔から箒に使われてきたコウヤボウキの名が、弘法大師伝説に由来するというのには少々無理がありそうです。