児島三郎高徳は備前の国児島郡林村に生まれ、鎌倉時代末期から
南北朝時代にかけて活躍したとされる人物であるが、「太平記」以
外にはその名が認められないとの理由から、実在性を否定する学説
もあり、謎を秘めた人物である。
(五流尊瀧院)
一説には天皇のお俊胤であるとか、この地の豪族の三男として誕生し
たとか、またその出自は山伏とも言われ、倉敷市林に所在する修験道の
総本山・五流尊瀧院の門前には「生誕地」の碑が立てられている。
(船坂峠)
高徳と言えば、凡そ700年前元弘の乱に敗れ、鎌倉幕府によって隠岐
の島に流される後醍醐天皇を奪還せんとし、備前の船坂峠に一族郎党を
引き連れ200名あまりの兵を挙げた人物として知られている。
山陽本線の船坂トンネル上の旧道には、顕彰の石碑が建てられている。
高徳は「義を見てせざるは勇無き」と大軍を起こし、名を子孫に残そ
うとした。この地で天皇を奪還せんと一行を待つも、予期に反して道筋
を読み間違え、慌てて播磨と美作の国境の杉坂峠に駆け付けるが、その
時すでに遅く一行は美作街道から院庄に入り、作戦は失敗する。
諦めきれない高徳はせめて志だけでも天皇の耳に入れたいと、夜に
なって一人ご在所に忍び込み、庭の桜の木にあの有名な10字の詩を書
き残したのである。
「天勾践を空しくするなかれ、時に范蠡(ハンレイ)の無きにしも非ず」
その忠義心を讃えんと創建されたのがここ作楽神社で、境内には100本
余りのソメイヨシノが植えられ、今では桜の名所としても知られている。(続)
南北朝時代にかけて活躍したとされる人物であるが、「太平記」以
外にはその名が認められないとの理由から、実在性を否定する学説
もあり、謎を秘めた人物である。
(五流尊瀧院)
一説には天皇のお俊胤であるとか、この地の豪族の三男として誕生し
たとか、またその出自は山伏とも言われ、倉敷市林に所在する修験道の
総本山・五流尊瀧院の門前には「生誕地」の碑が立てられている。
(船坂峠)
高徳と言えば、凡そ700年前元弘の乱に敗れ、鎌倉幕府によって隠岐
の島に流される後醍醐天皇を奪還せんとし、備前の船坂峠に一族郎党を
引き連れ200名あまりの兵を挙げた人物として知られている。
山陽本線の船坂トンネル上の旧道には、顕彰の石碑が建てられている。
高徳は「義を見てせざるは勇無き」と大軍を起こし、名を子孫に残そ
うとした。この地で天皇を奪還せんと一行を待つも、予期に反して道筋
を読み間違え、慌てて播磨と美作の国境の杉坂峠に駆け付けるが、その
時すでに遅く一行は美作街道から院庄に入り、作戦は失敗する。
諦めきれない高徳はせめて志だけでも天皇の耳に入れたいと、夜に
なって一人ご在所に忍び込み、庭の桜の木にあの有名な10字の詩を書
き残したのである。
「天勾践を空しくするなかれ、時に范蠡(ハンレイ)の無きにしも非ず」
その忠義心を讃えんと創建されたのがここ作楽神社で、境内には100本
余りのソメイヨシノが植えられ、今では桜の名所としても知られている。(続)
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