「逢坂山 弘法大師堂」を右に見て、逢坂を越える。
道路沿いには、側面に寛政六年の銘が刻まれた、230年ほど前の逢坂常
夜灯も立っている。見るべき物も多いが、交通量の多い幹線を容易に横
断できないのがもどかしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/8d/520ff273c5119a3518c2a2798984ebb1.jpg)
名神高速道路の高架橋の下を潜ると、東海道は大きく曲り西に進路を
向ける。併走する京阪線の半径45mの急カーブ、逢坂山トンネルが有る
のはこの辺りである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/05/0c3d1b35dbf62cf66e28f8d80d5c70ce.jpg)
逢坂越えの登りも最早ここまでで、この先左カーブする国道とは別れ、
東海道は右の旧道へと入り込むと、「逢坂山関址」と彫った大きな石碑
と常夜灯が立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ba/dd2c1b3339b9b27f1b39507bbdb3bc5d.jpg)
「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」
「これから旅立つ人も、帰る人も、知っている人も、知らない人も、
別れてはまた逢うという、これが世に聞こえた逢坂の関ですよ」
この蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられ広く親しま
れていて、この関址にも石碑が置かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/48/e4e211ccb506c42dc25b115a014892e3.jpg)
古歌に名高い逢坂の関跡である。
説明によると「逢坂山に設けられた関所・逢坂の関は平安時代、伊勢の
鈴鹿の関、美濃の不破の関とともに三関と称され弘仁元(810)年以降、
重要な役割を果たしてきた。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/3a/0ae3ff8a12737ce4121c7670b23afcf0.jpg)
しかしその位置については、いまだ明らかにはなっていないという。
場所的には、京の玄関口として設けられ関所で、通行が厳しく見張られ
ていたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0d/6a5e43c558509671273aa33dedbdbb36.jpg)
とは言え、物資が集まる交通の要衝、逢坂越え道の整備には力が入れ
られていた。当時の運搬手段は牛車が中心である。
これらが立ち往生しないように、道路に「車石」と呼ばれる石が敷き
詰められたのがこの道筋で、この辺りには今でもこうした石が彼方此方
に残されている。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/c5/608a98fcd1340cbecac4921275227ec4.jpg)
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道路沿いには、側面に寛政六年の銘が刻まれた、230年ほど前の逢坂常
夜灯も立っている。見るべき物も多いが、交通量の多い幹線を容易に横
断できないのがもどかしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/8d/520ff273c5119a3518c2a2798984ebb1.jpg)
名神高速道路の高架橋の下を潜ると、東海道は大きく曲り西に進路を
向ける。併走する京阪線の半径45mの急カーブ、逢坂山トンネルが有る
のはこの辺りである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/05/0c3d1b35dbf62cf66e28f8d80d5c70ce.jpg)
逢坂越えの登りも最早ここまでで、この先左カーブする国道とは別れ、
東海道は右の旧道へと入り込むと、「逢坂山関址」と彫った大きな石碑
と常夜灯が立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ba/dd2c1b3339b9b27f1b39507bbdb3bc5d.jpg)
「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」
「これから旅立つ人も、帰る人も、知っている人も、知らない人も、
別れてはまた逢うという、これが世に聞こえた逢坂の関ですよ」
この蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられ広く親しま
れていて、この関址にも石碑が置かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/48/e4e211ccb506c42dc25b115a014892e3.jpg)
古歌に名高い逢坂の関跡である。
説明によると「逢坂山に設けられた関所・逢坂の関は平安時代、伊勢の
鈴鹿の関、美濃の不破の関とともに三関と称され弘仁元(810)年以降、
重要な役割を果たしてきた。」
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しかしその位置については、いまだ明らかにはなっていないという。
場所的には、京の玄関口として設けられ関所で、通行が厳しく見張られ
ていたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0d/6a5e43c558509671273aa33dedbdbb36.jpg)
とは言え、物資が集まる交通の要衝、逢坂越え道の整備には力が入れ
られていた。当時の運搬手段は牛車が中心である。
これらが立ち往生しないように、道路に「車石」と呼ばれる石が敷き
詰められたのがこの道筋で、この辺りには今でもこうした石が彼方此方
に残されている。(続)
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