『われも人の子の親にて候ふものを、なんぞや、親ある人の子を討ち候ひぬ。
敵味方とは、現世のかりそめごと、宿世に何の恩怨や候はん。親御のおん嘆き
も、さこそと思ふにつけ、われも親、人の身ならぬ心地に打ちのめされ侍るに
て候ふなり。』(「新平家物語・第4巻」吉川英治 講談社)
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源氏の武将・熊谷次郎直実は、一の谷の合戦の折り、須磨の磯松原でただ
一騎渚を駆ける平家の若武者に遭遇、名も知らぬまま刃を交え組み伏せた後、
首を刎ねた。その腰には一本の笛が挟まれていたという。
直実は戦場となった須磨寺(兵庫県)に首と笛を持ち帰った。
その後源義経による首実検で、首の主が平清盛の甥若干17歳の平敦盛と知る。
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平家物語の中でも涙を誘う哀話として知られる場面である。
直実は、我が子直家と同年代に哀れを思い、一筆したためその遺品と共に首を
敦盛の父・平経盛に送り届けたと言う。
今日兵庫県の須磨寺は、敦盛の菩提寺として広く知られるようになった。
境内には首塚が祀られ、敦盛の愛用した「小枝の笛」は、通称「青葉の笛」と
も呼ばれるようになり、宝物館で手厚い供養を受けている。
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戦の無情や世の無常を感じ心に傷を負った直実は、家督を嫡子・直家に譲り、
その後法然上人を訪ね門徒となり出家して法力房蓮生と名乗るようになる。
然しその出家は、今日我々が芝居や謡曲などで知る、戦を儚んだものではなく、
8年余り後の、所領を巡る争いが発端とも言われている。
その蓮生坊が上人誕生の旧邸を寺院に改め、開基したのが浄土宗の「栃社山・
誕生寺」である。(写真は、兵庫県・須磨寺)(続)
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