神武東征が行われた時代だと考える弥生時代の遺跡分布図
太赤線矢印が日本書紀に由る神武東征経路 赤枠が阿多(吾田)
北部九州、近畿は遺跡が多すぎるため代表的な場所しか示してありません
太赤線矢印が日本書紀に由る神武東征経路 赤枠が阿多(吾田)
北部九州、近畿は遺跡が多すぎるため代表的な場所しか示してありません
日本とヤマトのルーツを語った『古事記』が、神武東征以前から奈良盆地に居住していた土着氏族の末裔・太安万侶によって編纂され、その基となる史料に、厩戸皇子と蘇我馬子が600年代に記録した天皇記・国記・本記が使われ、『日本書紀』はそれらをベースとして、700年代皇族中で勢力のあった文官・舎人親王が、国の公式歴史書として編纂したものだ、と自分なりに納得することができました。
しかし、歴史書(古事記は歴史書ではありません)とはいっても、中央政権の思惑がふんだんに盛り込まれていますから、そういった後付を見極め、そぎ落として読む必要があります。何度も騙されながら、カムヤマトイワレヒコ(=ホホデミ)の正体に迫ることができました。
最初に思い描いたのは、九州の南西の僻地・吾田(阿多)出身の部族リーダーであるホホデミが、海を渡って東方へ向かい、大阪湾から内陸地に侵入しようとしたものの在地勢力の抵抗にあい、紀伊半島をぐるっと回って熊野(速玉大社辺り)から川に沿って高見山に入り、宇陀を乗っ取って奈良盆地侵攻の拠点とし、次々と在地勢力を滅ぼしてヤマト政権を打ち立てた、というストーリーでした。
ホホデミの故郷が天孫降臨の地と一致し、今日でも皇族が詣でに出向いていることから、これは、古事記と日本書紀を作った中央政権の思惑通りの筋書だと思います。
読み込んでいくと、東征経路の宇陀へ至るまでの情報の少なさ;例えば、途中吉備国と争った形跡がないこと、和歌山から熊野へ至る道のりや熊野から宇陀までの道程の曖昧さ等から、ホホデミが一代で成し遂げたとは考え難く、「ホホデミ」とは部族リーダーに受け継がれた名前だったのではないか、と考えるようになりました。
しかし、そう考える思考回路が、すでに万世一系・皇国史観に侵されている、と気づきました。
仮にホホデミが瀬戸内海を渡って来ても、吉備国に捕えられ殺されてしまったでしょうし、生かされて将軍にとり立てられたにしても、それは吉備国軍としてであって、ホホデミのヒーロー物語にはなりません。皇族の祖先は、太古の昔に天孫降臨の地から海を渡ってやって来たヒーローでなければなりません。
天孫降臨からカムヤマトイワレビコの誕生までの物語は、日向神話を拝借したと考えられます。神話では、ウガヤフキアエズから生まれた子供は、ミケヌ(御毛沼)か祖父のヒコホホデミ(彦火火出見)という名前が付いていたのではないでしょうか。700年代のヤマト政権は、西のほとりから東へ旅立ったホホデミという英雄の伝説が伝わる日向(ひむか)の神話をうまく利用して、皇祖を神と結びつけたのです。
そこから、なぜ日向だったのか、という疑問が湧きました。
最初は単純に、中央から遠く離れた地のため、真相を暴かれるリスクが少ないと考えたから、だと思いました。でも、それではあまりに稚拙すぎます。そこで日本書紀が書かれた700年代の事情を知るため、『続日本紀』を読んでみると、当時ヤマト政権を悩ませていたのが、東北のエミシ(夷・毛人・蝦夷)と九州南部のハヤト(隼人)の反乱だと知りました。ハヤトは『日本書紀』にも登場し、早くからヤマト政権に服属して皇族の前で舞踊を披露したり、神代の条では、海幸山幸伝説の中で、皇祖神の兄弟で権力闘争に負けて後裔に至るまでお仕えすると約束させられた海幸彦の子孫だとされています。
ハヤトの始祖とされた海幸彦は、降臨した天孫・瓊瓊杵尊の長男で、末子がヒコホホデミで山幸彦にあたります。ニニギノミコトの息子たちの名前は、日本書紀の記述は情報が交錯していて明確でないため、古事記の記述「ホデリ(兄:海幸彦)」「ホオリ(弟:山幸彦)」と呼ぶことにします。弟のホオリのことを、古事記・日本書紀共に別名をヒコホホデミとしています。天孫の息子ヒコホホデミがここに登場したのなら、このホホデミを東征に向わせてもいいはずなのですが、クッション材のように海幸山幸物語を挟んでいます。記紀ともここは外せなかった重要な箇所だったのです。
海幸山幸のお話は、おとぎ話らしくない不条理なストーリー展開をみせます。元々悪かったのは、言い出しっぺで兄の大切な釣り針を失くした弟のホオリなのに、謝罪を受け入れなかった兄ホデリが悪者となり、やっつけられてしまいます。これは最初からホオリがホデリを服従させる結末ができていたのでしょう。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)の結果と同じトリックです。また、弟が兄より優るというのも、壬申の乱後の世相:大海人皇子(天武天皇)が兄・中大兄(天智天皇)に取って代わったことの正当性を、暗に示しているような感じもします。
皇祖とハヤトの始祖は、兄弟でもなければ同じ地域出身同士でもないのに、ハヤトを従属させるのに説得力を持たせようして、日向伝説のひとつを利用したのだと思います。ハヤト族はそれだけ手強かったと想像できます。
新興勢力のヤマト政権にとって、ハヤト族が信仰していた日向神話は、王権のルーツを神に結び付ける絶好の神話であり、隼人を従属させる好材料でもありました。太安万侶と舎人親王たち、非常に巧妙です。
日向神話のホホデミは、ヤマト政権の大王の祖先ではなかったと判明しました。おのずと東征もなかったことになります。
しかし、奈良盆地を侵略した人物はいたのです。その人物を探す方法として、カムヤマトイワレヒコと呼ばれた人物をとっかかりにしてみました。