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2016-02-16 | ancient history
 ヤマト政権最初の大王には、カムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)という諡号が付けられています。神日本は名前を飾る役目をしているので、イワレヒコが名前です。ヒコ(彦)は、“長髄邑の長髄彦”“磯城邑の磯城彦”という使われ方から、属していたムラ(邑)のリーダー格、それも武力的リーダーを指す敬称だったと思われます。神日本磐余彦天皇は、磐余邑のリーダーだと解ります。
 磐余邑は、どこにあったのでしょうか。
 『日本書紀』には、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに、天皇がむかし厳瓮(いつへ)の供物を召し上がられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十梟帥(ヤソタケル)がそこに屯聚(いわ)みした(兵を集めた)。…中略…それで名づけて磐余邑という」と記されています。
 現代の地図に、磐余または片居・片立・西片という地名は見当たりませんが、桜井市の谷周辺だと言われています。桜井駅から市役所へ向かう途中、交差点だったか橋だったかの標札に、「磐余」の文字を見た覚えがあります。
 桜井市のホームページでは、「第17代履中天皇が磐余の市磯池で舟遊びをしていた際、桜の花が散りかかったので「どこの桜か」と尋ねたことに由来して、宮を磐余稚桜宮と名付けた」という日本書紀の伝承をあげ、桜井の名称は、桜の木を清水の湧き出る泉のほとりに植えたところからきているそうです。また、若桜宮は、14代仲哀天皇の皇后・気長足姫(おきながたらしひめ=神功皇后)が、仲哀没後、磐余の都に造った宮だと書紀に書いてあります。
 現在、桜井市谷に若桜神社が、桜井市池之内に磐余稚桜神社があり、その2つを含む一帯が、磐余と呼ばれていた地域だと思います。

磐余邑を含む桜井市の位置

 ムラの名のいわれの真偽はどうであれ、畿外からの侵略者は、宇陀から忍坂を下って桜井市の明日香村に近い一帯を征服して、その地をイワレと名づけて君臨したのでしょう。
 『日本書紀』を読むと、その後すぐ畿内を統治できたようではなかったみたいです。
 「残りのわざわいはなお根強」く、「世の中はまだ開けていない」し、「人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習わしがかわらずにある」けれども、「国中を1つにして都を開き、天の下をおおいて1つの家とすることは、また良いことではないか」と考え、国の真中だと畝傍山の東南の橿原に都を造り即位した、となっていて、橿原に都を完成させ即位するまでに何年かかったかは、明記されていません。そして、即位後のイワレヒコが行ったことに関する記述はごく僅かです。
 思うに、イワレヒコはやはりイワレの地で活躍した人物で、ヤマト政権の初代大王どころか、奈良盆地の片隅の一地域の領主に納まったに過ぎなかったのではないでしょうか。そう考えると、代々続く中央政権の初代が活躍したムラの名を残そうとしなかったのも頷けます。調べてみると、安土桃山時代には、既に桜井村になっていました。皇国史観を根付かせた明治政府は、磐余は復活させずに、畝傍山の東南に橿原神宮を建て、北側に神武天皇陵を整備しました。
 確かにこの周辺は橿原遺跡があり、太平洋戦争前には橿原神宮周辺の整備が進められ、広大な範囲に及ぶ発掘調査が行われたそうです。当時としては関連諸学との学際的調査を意識した先駆的な計画だったそうです。残念ながら、後世の土地改変や耕作によって、居住地域の遺構の多くは削られて余り確認できなかったようです。しかし、周辺からは大量の遺物が出土しました。それらから判断して、橿原遺跡は縄文時代晩期の遺跡と結論づけられています。
 縄文時代晩期を西暦で言うのは、専門家の解釈によって違うため正確には解りませんが、紀元前になることは間違いなさそうです。もし橿原の地がイワレヒコの造った都だとしたら、イワレヒコは縄文人だったということになります。
 『日本書紀』に描かれた神武東征のお話と、イメージがだいぶずれてしまう気がしますが…。
コメント
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