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a mystery of sharaku's works 2

2014-03-12 | bookshelf
『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』
片桐一男著 吉川弘文館 2008年刊行

 「写楽オランダ人説」の小説を読んで、カピタン(貿易商館長のこと:ポルトガルとの交易時代の名残りの呼び方)一行が江戸滞在中に歌舞伎など見物できたのか、を調べるために読んでみました。
 学生時代、日本史はもちろん世界史も真面目にやっていればよかったと、後悔先に立たずです。まず、日本人がオランダと呼んでいる国、これはネザーランド(英語)のことで、写楽が登場した1793~5年はネーデルラント連邦共和国(1580~1795年)で、17世紀初頭植民地の東インドに株式会社東インド会社を設立し、1619年ジャワ島西部ジャカルタ(江戸時代人はジャガタラと言った)にバタヴィア城を建てて、アジア貿易の拠点にしていました。1789年フランス革命以降、ネーデルラント連邦共和国とフランスは断続的に戦争状態で、とうとうフランスに負けて1795年にネーデルラント連邦共和国が崩壊してしまいます。つまり、日本人がオランダと呼んでいた国家が消滅してしまったのです。
 崩壊後、1806年までフランスの衛星国、バタヴィア共和国となります。バタヴィアという名称は、古代ローマ時代、現オランダの南ホラント州に住んでいたバタウィー族に由来しているそうです。
 ですから、写楽が作品を発表した1794年5月に江戸長崎屋へやって来た阿蘭陀人たちは、用事を済ませ長崎出島へ戻り、さあ帰国しようとした時には母国がなかったのです。東インド会社の海外特派員たちは、植民地にある支部の本拠地、アジアならばジャワのバタヴィアで待機していたようです。しかし、当時ネーデルラントがバタヴィア共和国と呼ばれていたのなら、フランス政権下であってもそちらへ帰ることが可能だったのかもしれません。(後に、何年も帰国できず、幕府にオランダが無くなったことをひた隠して、アメリカ船を借りてオランダ国旗を揚げ、貿易を続けたカピタンがいた事を、学生時代歴史の授業で教えておいてほしかった。)
 『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』には、上記のことは書いてありませんが、著者は日本史学・文学博士で、江戸と和蘭(オランダ)との交流を研究されていて、カピタンの江戸参府に関してとても解りやすく書かれています。
 タイトルの「それでも江戸は鎖国だったのか」にあるように、江戸幕府、鎖国していた割には和蘭から様々な品物を「御礼」として貰っていました。といっても、そもそも当時「鎖国」という概念はありませんでした。朝鮮や中国との国交は続いていましたし、ポルトガルやオランダ以外にもオファーはありました。しかし、徳川幕府の保身から、自分たちに都合よい条件ばかり出し、宗教の布教活動を禁止したため、残ったのがオランダだけだった、とも考えられるでしょう。和蘭は全面的に日本に譲歩し、布教活動をしない条件で商いだけをしました。それがオランダ東インド会社だったのです。「鎖国」という言葉は1801年に志筑忠雄(1760-1806年。長崎の蘭学者)がケンペルの著した『日本誌』(和蘭語1733年版)の付録論文を訳出した際、タイトルが長かったので文中に適当な語句を探して「鎖国論」と命名し、それが由来だそうです。ですから、1794年前後の幕府は、自らの手を汚さないで南蛮渡来の珍しい品々を、カピタンに江戸参府させて得ていたわけです。幕府に都合のよい消極的海外貿易政策、とでもいえるでしょうか。
 
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