巨石・奇岩を求めて大和路をウロウロしています。
また桜井に戻ってきました。雪が降ったり止んだりの天候の隙間をぬって、粟原(おおばら)の里に向いました。
今日、訪ねた国指定史跡・粟原寺跡は、粟原集落の端にある天満神社の境内とその隣接地に、1300年前に建てられた塔と金堂の跡が残っているのです。礎石の上に立って、1300年前の寺を想像してきたのです。
標識に導きられながら・・・。
国道166号の「粟原(おおばら)バス停」の南側の坂道を下り、粟原川を渡り更に急な坂道を登ります。私は車だが、リュックを背に降りてこられる方もおられます。
途中に立てられた標識通りに進むと、標高260mの樹木が茂った一画があり「粟原寺跡」の標識とともに十三重塔が目に入ります。
この粟原寺跡に隣接して天満神社の境内があり、この神社も寺跡なのです。なぜこんな山奥に菅原道真が祀られているのか、不思議です。今度、調べたいと思います。
粟原寺跡の石碑が・・・。
入り口の案内看板には、次のような説明がありました。
『粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢が、江戸中期、談山神社から発見され、現在は談山神社に国宝として所蔵されている。
その伏鉢に刻まれている「路盤名」によって建立の経緯が判明している。
すなわち、中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子(持統3年(689)死亡)のために建立を発願したが、持統7年(693年)に大嶋が死んだ後も、大嶋の遺志を継いだ比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持続天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715年)までの22年の間に伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させたのです。』
談山神社に国宝として所蔵されている粟原寺建立のいきさつを刻んだ粟原寺三重塔の伏鉢。
三重塔の礎石なのだろうか?
塔跡には心礎、四天柱、側柱の礎石が残っていると言われており、これらの礎石から、6.06m四方の建物(三重塔)があったことが窺われるというが・・・。
また、金堂跡といわれるものも、塔跡の西に3~4個の礎石を残すだけで規模等は明確でない・・・と言われるが、確かに礎石の形をしたものがあった。専門家が見れば分かるのだろう。
塔跡の東側にも多数の礎石が並べられていた。
また、塔跡の東側の一段低いところにも、金堂跡北西の竹薮などから出土したといわれる多数の礎石が並べられていた。出土瓦には、奈良時代前期のものがあったとか。
十三重塔がありました。鎌倉時代後期の作とか・・・。明治22年にこの地に移されてきたとか・・・。
この金堂跡の西隣りに十三重石塔が立っています。「鶴の塔」と伝承されている花崗岩で造られた塔で、鎌倉時代後期の作とされている。
もとは、宇陀市大宇陀区半坂に至る半坂道にあったものを、明治22年(1889年)にこの地に移されたものとか。これらのことは桜井市史にも記されている。
大昔、この谷にあった粟原寺が、土石流で流されてしまったのです。この谷の中央の緑の木々が茂る一角(電柱のあるところ)が、寺跡のところです。はるか下には国道166号が見えます。(粟原寺跡のかなり上部から撮影)
いつの時代か定かではない・・・大昔、土石流で粟原寺が流されたとき、この寺に伝来した仏像の多くが桜井市内の各地に辿り着いたとか。
大字桜井の来迎寺の本尊や、大字外山(とび)の報恩寺の本尊など。
また、今は長野市の清水寺(せいすいじ)にある観音菩薩立像・木造千手観音・地蔵菩薩座像も「粟原流れ」とされ、これも大字忍阪の石位寺に流れ着いたものといわれている。
いずれも、国の重要文化財の指定を受けているものばかりなのです。
私としては、なぜ石位寺に流れ着いたものが長野・清水寺まで行ってしまったのか・・・この調査もしなければなりません。
礎石だけが1300年前のことを知っているようで・・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます