水・土・日曜日、祝日に更新し、毎回4枚の写真と撮影秘話を中心に、楽しかった思い出をお伝えしています。
9月28日のブログに続いて、愛知県瀬戸市の「瀬戸蔵ミュージアム」へ行った時の写真をご紹介します。
平日の16時50分から17時40分までの鑑賞で、18時閉館の為に他の入館者はいませんでした。
いつも写真少年にとってのモデルさんがいないので、早めに帰宅して一杯、三杯を楽しめました。
※いつもは4 枚の写真構成ですが、紹介したい写真が多いので、このシリーズは8 枚構成となっています。

「瀬戸弁の番付表が貼ってありました。両横綱から『ぐろ』=端、すみ、『ほやほや』=肯定のあいずち。です」

「3 枚の写真は、昭和時代の陶磁器工場の一場面です。① 家内工業的な工場が多く、薄暗い照明でした」

「ミュージアムは屋内にありますが、屋外を想定しています。② 天候のいい日に天日干しされた陶磁器です」

「場面設定は磁器の製作です。③ 素焼きされた磁器に呉須(ごす・コバルト化合物など)で模様を付けます」

「日本唯一の陶製 レースドールを製造するテーケー名古屋人形製陶が、1991年に製造した『アン王女』です」

「本地陶業が20世紀後半に製造した『エルビス・プレスリー(写真左)』 と 『マリリン・モンロー(写真右)』です」

「19世紀後半に加藤杢左衛門が作製した『染付花唐草文燈籠』で、パリ万国博覧会で金賞を受賞しています」

「瀬戸焼は1300年の伝統と技術(インターネット調べ)を持つと言われ、年代毎に展示と説明がされています」
※ 午前0時・・分・・秒、「ピィピィプー」の時報を待つかのような更新は、名付けて「忍者ブログ」と呼んでいます。
9月28日のブログに続いて、愛知県瀬戸市の「瀬戸蔵ミュージアム」へ行った時の写真をご紹介します。
平日の16時50分から17時40分までの鑑賞で、18時閉館の為に他の入館者はいませんでした。
いつも写真少年にとってのモデルさんがいないので、早めに帰宅して一杯、三杯を楽しめました。
※いつもは4 枚の写真構成ですが、紹介したい写真が多いので、このシリーズは8 枚構成となっています。

「瀬戸弁の番付表が貼ってありました。両横綱から『ぐろ』=端、すみ、『ほやほや』=肯定のあいずち。です」

「3 枚の写真は、昭和時代の陶磁器工場の一場面です。① 家内工業的な工場が多く、薄暗い照明でした」

「ミュージアムは屋内にありますが、屋外を想定しています。② 天候のいい日に天日干しされた陶磁器です」

「場面設定は磁器の製作です。③ 素焼きされた磁器に呉須(ごす・コバルト化合物など)で模様を付けます」

「日本唯一の陶製 レースドールを製造するテーケー名古屋人形製陶が、1991年に製造した『アン王女』です」

「本地陶業が20世紀後半に製造した『エルビス・プレスリー(写真左)』 と 『マリリン・モンロー(写真右)』です」

「19世紀後半に加藤杢左衛門が作製した『染付花唐草文燈籠』で、パリ万国博覧会で金賞を受賞しています」

「瀬戸焼は1300年の伝統と技術(インターネット調べ)を持つと言われ、年代毎に展示と説明がされています」
※ 午前0時・・分・・秒、「ピィピィプー」の時報を待つかのような更新は、名付けて「忍者ブログ」と呼んでいます。
昭和時代の瀬戸物の工場は実際に見たことは有りませんが、こんな感じだったと想像出来ますね。
薄暗い白熱の裸電球か直付けの直管蛍光灯の元で皆さん頑張った事でしょうね。
工場の奥の方の柱に古い壁掛け時計や、色付け場の花柄の魔法びんがいい感じです。
瀬戸市では、食器を作る工場は大きくなく、家族や近所のおばちゃん達が働いていました。
その後は岐阜県多治見市や土岐市に大きな工場が建ち、瀬戸市の生産・売り上げが少なくなって行きました。
更にその後は、海外からの輸入が増えて、国内の生産・売り上げが少なくなって行きました。
良き時代の面影を感じることが出来るミュージアムです
わたくしは自動車会社に転ずる前、昭和24年ごろ、「永井商店」というお店の店員をしていました。
この会社は、カーバイトの販売のほか、電気設備の製品も扱っていて、その当時の屋内配線は今と違って、「ノップ」と呼ばれる陶器の絶縁体を使う方式でしたが、その「ノップ」が品不足のため瀬戸へよく買い出しに行きました。
オート三輪を運転して、陶器屋さんを廻り、俵に詰められた「ノップ」を分けていただく仕事でした。
そのころの瀬戸の様子が目に焼き付いています。
まだ、二十歳ちょっと前のわたくしでした。
因みにオート三輪は愛知機械工業製の「ジャイアント」でした。
とっさー
若き頃を思い出す切っ掛けになりましたね。
瀬戸市の町工場で家庭用の碍子を造り、大きな工場で送電用の碍子を作っていました。
今では、廃止や縮小された事業ばかりです