般若経典のエッセンスを語る16

2020年10月13日 | 仏教・宗教

 智慧を自分のものとしながら、しかも一切衆生を捨てることがない。つまり、「自分だけが覚っていい気持ちになり、解脱してこの世から離れていってしまうのは小乗だ」という批判が大乗の基本であるから、慈悲ということがはっきり示されなければ、大乗にならないのである。

 「菩薩」とは、ボーディサットヴァ・菩提薩埵の省略形で、「ボーディ」は覚り、「サットヴァ」は存在・人で、「覚りを求める人」という意味である。

 それから「摩訶薩・大士」は、「自分だけの覚りではなく、すべての人の覚り・救いを求める心の大きな人」という意味である。

 経典の中には菩薩という言葉が単独で出てくるケースと菩薩・摩訶薩と二つ合せて出てくるケースがあり、研究者によるとそれにははっきりした意味上の違いがあるという。

 主としてまだ自分の覚りを求めている段階が「菩薩」で、自分の覚りと慈悲がまさに一つのものになって、慈悲の行為をしっかり実践するという境地にまで達すると、「菩薩・摩訶薩」になるのだという。

 大乗仏教は菩薩・摩訶薩になることを目指す仏教である。初期段階・入門段階としてはまず自分の安らぎや救いを求める菩薩でもいいのだが、中級・上級になったら菩薩・摩訶薩であらねばならない、ということである。

 といっても、この場合の「ねばならない」は、論理療法の言葉で言うと「無条件のねばならない」ではなくて、「条件付きのねばならない」である。

 「あなたが人間として、この世に生まれた成長可能性を百パーセント生き切りたいのなら」という条件付きで、「だとしたら菩薩・摩訶薩になるしかない」という「ねばならない」である。

 「いや、私は人間として生まれた成長可能性の五パーセントくらいでいい」とか、「まあ半分も実現すればたいしたものだから、それでいい」という方は、まあそれでいいのである。しかし、半分も実現したのなら、そろそろ菩薩の段階に入ってきているといっていい。

 発達心理学では、いわば人間の潜在能力の半分強を実現しつつあるのが自己実現段階である。

 そしてそこから先、まだ菩薩・摩訶薩という自己超越のレベルがあり、人間はそこまで成長できる存在だ、というのが大乗仏教の言うところである。

 これをあまりにも高い理想だと受け取って、今の若者ふうに言うと「引く」とか「逃げる」ということになっても、別にそれは許されないことではないのだが、しかしせっかく大乗仏教を学ぶのなら、そこまでを少なくとも目標としたいものである。

 たとえ到達できなくても、掲げられた理想には、そこに向かって努力をさせてくれるという、いわば引力がある。

 小さい理想・小さい夢だと、人間が小さくなってしまう。

 非常に大きな夢というか、ものすごく大きな理想を掲げてそこに邁進すると、少なくとも今よりももっと、さらにもっともっと……と大きくなれるので、理想は大きいほうがいい、と私は思っている。

 


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