般若経典のエッセンスを語る15

2020年10月12日 | 仏教・宗教

 智慧と慈悲

 

 私の読んできた般若経典、そして広く言えば仏教全体も、エッセンスを簡潔な言葉で要約するとすれば、「智慧と慈悲」だと筆者は理解している。

 先にも述べたように「智慧」という意味のパーリ語「パンニャー」を音訳したのが「般若」である。そして、その智慧・般若は「慈悲」と不可分のものである。

 これについて、経文の中からの典拠として『摩訶般若波羅蜜経』の句の現代語訳と書き下し原文と、ほぼ同じことを述べた『大般若経』の句を挙げておこう。

 

 スブーティよ、菩薩大士は二つの事柄を成就するのである。何を二というか。すべての存在は空だと洞察することと、すべての生きとし生けるものを見捨てないことである。菩薩大士がこの二つの事柄を成就するならば、悪魔も破壊しえない。

 

 須菩提、菩薩・摩訶薩は二法を成就す、魔、壊すこと能はず。何等か二なる。一切法空なるを観ずると、一切衆生を捨てざるとなり。須菩提、菩薩此二法を成就して、魔壊すこと能はざるなり。

             (摩訶般若波羅蜜経』度空品第六十五)

 

 善現、若し菩薩・摩訶薩二法を成就せば、一切の悪魔障礙して甚深般若波羅蜜多を行ずる能わず無上正等菩提を証せざらしむこと能わず。如何なるを二と為すや。一には諸法皆畢竟空と観、二には一切有情を棄捨せざるなり。

 

             (『大般若経』「第二分堅非堅品第六十四之二」

 

 須菩提=スブーティはブッダの十大弟子の一人で、空をもっともよく理解していた弟子とされている。

 その須菩提にブッダが語りかけたのである。

 菩薩・摩訶薩の「摩訶」は「摩訶般若」や「摩訶不思議」の摩訶とおなじ「大きい」という意味のサンスクリット語「マハー」の音訳で、菩薩の薩と摩訶薩の薩はどちらも同じく薩埵・「サットヴァ」の略で「人」という意味で、摩訶薩は意味上「大士」・大きな人と訳される。

 「菩薩・大士は二つのことを成し遂げる。悪魔もまた、それを破壊することは決してできないのだ」と。「では何を二つというのか」。

「すべての存在は空だと洞察すること」、これは「智慧」である。

 それから、先ほどの『転読大般若中唱文』にないのが以下のところで、「すべての生きとし生けるものを見捨てないことである」。これは「慈悲」ということである。

 『唱文』はとてもよくできているが、慈悲のことが書いていないのが非常に残念だと筆者は思う。

 だから、もしこれからそのほんとうに意味をしっかりと理解して、檀信徒の方々と理解を共有しながら、ほんとうの現代の日本仏教を作っていこうとするのなら、各寺院や僧の方、あるいは各宗門には、やはり慈悲に関する言葉を付け加えていただく必要があると思っていて、筆者は最近、『大般若経』と『摩訶般若波羅蜜経』から選んで、新たに『摩訶般若心髄経』という経文を編集した。

 その根拠として、例えば『摩訶般若波羅蜜経』には先に挙げたような言葉がある。「スブーティよ、菩薩はこの二つのことを成し遂げ、悪魔も破壊することはできない」。いかなる困難があっても、いかなる敵対者があっても、この二つは決して破壊されることはない、と。これが大乗仏教ないし仏教のもっとも原点にあることではないだろうか。

 智慧を自分のものとしながら、しかも一切衆生を捨てることがない。つまり、「自分だけが覚っていい気持ちになり、解脱してこの世から離れていってしまうのは小乗だ」という批判が大乗の基本であるから、慈悲ということがはっきり示されなければ、大乗にならないのである。

 


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