般若経典のエッセンスを語る14

2020年10月11日 | 仏教・宗教

 「南無一切三宝」の「三宝」は仏教におけるもっとも大切な三つのことという意味で、仏教の縁起-空ということを伝えるための人々の集まりを「サンガ」、音訳で「僧伽(そうぎゃ)」、略して「僧」という。それから、その人たちが伝えている真理の教え「法」という。それは結局真理としての「仏」を示す、あるいは「そもそもあなたが仏なのだ」ということを知らしめる。この仏・法・僧を「三宝」という。

 三宝という場合、「諸仏」という言葉があるように仏さまもたくさんいて、さまざまな経典があり、もちろん僧団はたくさんあるので、「一切三宝」とされているのだろう。

 「南無」とは、「ナーム」というサンスクリットの音訳で、「帰依する」という意味である。

 つまり、「一切の三宝・仏法僧に帰依する」「仏法僧を私の生き方の根拠、存在の拠り所にする」ということである。

 私たちは「南無=帰依する」というと「依りすがる」という意味に理解しがちであるし、依りすがってもいいのだが、ほんとうは「私の存在の根底であることを認める」というのが南無・ナームということの本質だ、と筆者は理解している。「仏法僧が私の存在の根拠だということを、私は認める」というのが「南無一切三宝」ということなのである。

 「無量広大」とあるように、般若の智慧そして三宝は、量り切れないほど広く大きい、宇宙大に大きいという。

 「発(ほつ)」は「覚りたいという気持ちを起こす」こと、発心(ほっしん)の「発」で、「阿耨多羅三藐三菩提」は、「この上なく等しいもののない正しい覚り」ということである。般若の智慧、空ということが書いてある経典を唱えながら、「私はこの上なく等しいもののない正しい覚りを得たいという気持ち・求道心を起こします」というのである。

 だから、この唱文を唱えるときには、ほんとうは求道心で覚りたいと思うのがふさわしいのであって、「ご利益を得たい」というだけでは不十分なのである。

 しかし繰り返すと、そういう信心でこの精神的遺産が千数百年保たれてきたのだから、それはとてもいいことだったともいえる。そして現代においては、その意味をちゃんと理解して役立てながら、これからも大切に保っていくことができるといいだろう。それができれば、日本にあるどんな世界遺産よりも、般若経典ー『大般若経』が日本の精神的世界遺産になるのではないだろうか。

 しかし、その全体はあまりにも長くて、学ぶことが難しいので、本書ではごくエッセンスに絞ることにするが、エッセンスのところはまちがいなくお伝えできると思っている。

 とはいえ、文献・テキストの読み取り方は、読む人があらかじめ持っている考え方の流れ――それを文脈・コンテクストという――によってまるでといっていいくらい変わるものである。

 般若経典もまたテキストである。こう読もうと思ったらこう読めてしまう。読もうと思う文脈しだいでそうも読めてしまうのがテキストというものの本質であり、したがって、唯一絶対に正しい解釈というものがあるとは考えないほうがいいようだ。

 もちろん比較的妥当な解釈とそうでないものという違いも厳然とあると思われるが、しかしその妥当性も、それぞれ読者がご自分のコンテクストで判断していただくしかない。以下は「私の文脈による解釈では」ということであることを、最初にお断りしておきたい。

 


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