第七願は六波羅蜜についてのまとめともいうべき願で、「必得正定聚の願」という。「すべての人々を必ず覚れると定まった種類の人にしよう」というのである。
……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、諸々の有情に三種類の差別があり、一は覚れないと定まっている人々、二は覚れると定まっている人々、三にはどちらとも定まっていない人々があることを見たならば……「我が仏国土の中には覚れないと定まった人々およびどちらとも定まっていない人々の名前さえなく、すべての有情が必ず覚れると定まった人々であれるようにしよう」と。
スブーティよ、この菩薩大士は、このような六種類の波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りにかぎりなく接近するのである。
大乗以前の仏教では、人間には生まれつき覚れないと決まった人、どちらとも決まっていない人、必ず覚れると決まった人という、決定的な資質の差があると考えられていた。
それは、人間の有り様の表面を見ていると、確かにそうだと感じられる。どうしようもない(ように見える)人、ふらふらしていた方向の定まらない人が少なくない。そうした表面だけを見て、「それはそういうものなので、もう仕方のないことだ」と人間に関してあきらめてしまっている人も多いだろう。
それに対して、どこまでもあきらめてしまわないのが大乗・般若経典である。ここでは、「誰でも六波羅蜜を実践すれば必ず覚れるのだから、そうだとしたら誰もが六波羅蜜を実践できるように・したくなるようにしたい。その結果として、すべての人が必ず覚れるようにしたい」という願が語られている。
大乗仏教の菩薩は、まず自らが六波羅蜜を心を込めて実践しながら、自分だけの覚りにとどまず、特定の宗教的な資質に恵まれた自分たちだけの覚りにもとどまらず、自分も含めてすべての人、すべての生きとし生けるものの覚りを、どこまでも追求するのである。
それは、ただあきらめが悪いからでも、しつこい性格だからでも、粘り強いからでもなく、修行のスタートから、「自分と自分以外のもの(者も物も)が区別はあっても根源的にはつながって一つの存在だ」と捉えているからである。
「自分(たち)だけの覚り」がありうると思うのは、宗教的ではあっても一種の分別知であり、無分別智とはまるで違うものである。そもそもすべてのものとの一体性を目指すのでなければ、大乗の覚りに向かう修行とは言えないのである。
*今回から内容がわかるようにサブタイトルを付けることにしました。過去の記事にも徐々に付けていけるといいと思っています。