見方を変えて希望を見る:唯識のことば3

2017年01月14日 | 仏教・宗教

 年の始めにふさわしく、何か希望のある話をしたいと思いながら、『摂大乗論』の言葉をあれこれ選んでいて、ふと、以下の二句について、講義や本では何度も取り上げましたが、この欄ではまだ本格的に取り上げていないことに気づきました。


 この〔心の〕領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔六つの〕種類(六道)〔の差異〕があり、また涅槃を得るということもある。
 もろもろの存在は、蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識〔情報の集積体〕であるがゆえに、〈アーラヤ〉と名づける。私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く。


 唯識・仏教が私たちに告げてくれるメッセージの中でも、人間の希望の根拠をもっとも端的に語っているのが前の句です。

 「この心の領域」とはアーラヤ識のことで、人間の心のもっとも深い層としてアーラヤ識があることは、確かに今のところ大多数の人間つまり凡夫が輪廻の世界・六道に迷っている依りどころ・理由であると同時に、人間が涅槃・悟りを得る潜在可能性を持っている、覚者・ブッダになれることの依りどころ・根拠でもある、というのです。

 人間の現状を見ると、確かに誰もが深い深い煩悩を抱えているようです。

 しかし、ということは、人間すべてに煩悩の発生源であるマナ識とアーラヤ識がある証拠です。

 そして思いがけないことに、誰もがアーラヤ識を持っていることは、誰もが煩悩を克服できる可能性も確実に与えられているという証拠なのです。

 つまり、唯識的に見ると、人類にはアーラヤ識があり、だから今のところ、いろいろろくでもないことをしているが、まただからこそ、それを超える可能性も確実にある、ということです。

 唯識は私たちに、人間の悲惨な状況をたじろぐことなく見つめながら、しかもそれで絶望してしまうのではなく、かえってそこから希望の根拠を見出すという、ある種の「思想的な離れ業」とでもいうべき洞察を示しています。

 私たちは、いろいろなご縁のお陰で、もう唯識に触れているのですから、人類の中でも、言葉のもっともいい意味で「勝れた人・エリート」になる候補生です。

 読者のみなさんは、後の句で「私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く」といわれている説法の対象・聴衆つまり勝れた人・菩薩に、実際、いつの間にかすでに少しなりつつあるのですから。

 凡夫として生まれてアーラヤ識を与えられ、唯識・仏教に出会って菩薩になりつつある人間・私がいる。それは、いわば既成事実、揺るぐことのない事実・現実です。

 そこに、そしてたぶんそういうところにだけ、この厳しい時代に生きている私たちの、そしてあえて大きくいえば人類の希望があるのだと思います。

 そういっている筆者も、世界や日本の様々なネガティヴな現象ばかり見ていると、失望どころかまったく絶望しそうになります。

 しかし年の始めに当たり、私たちは、現象に左右される常識的・凡夫的な見方をやめ、唯識的・菩薩的に世界やものの本質を見ることにしましょう。

 そして希望を忘れることなく、またもし与えられるならば、この一年のいのちを意味深く生きるよう精進しましょう。


唯識の心理学
クリエーター情報なし
青土社


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