環境問題と心の成長 10

2009年07月22日 | 持続可能な社会


 近代以前の見直し

 前回、予定を変更して、スウェーデン・フィンランドの視察の簡単な報告を書かせていただきましたが、今回から話を元にもどして、近代以前のプラス面とマイナス面についてまとめていきたいと思います。

 日本の「近代以前」とは、いうまでもなくまず「江戸時代」のことです。

 関ヶ原の戦いで徳川氏が実質的な政治権力を掌握した1600年から明治維新までで計算すると268年、家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年から計算すると265年という長い年月にわたって安定した――評価によっては停滞した――時代でした。

 かつて江戸時代・徳川時代は、それを倒した明治の体制にとっても、さらにその崩壊から生まれた戦後体制にとっても、基本的には批判・否定の対象であったため、質量とも圧倒的にマイナス面が注目・指摘されてきたようです。

 確かに連載の第4回目に述べたような欧米の近代化のプラス面と対照すると、江戸時代の日本は「太平の夢をむさぼっている」、近代化が遅れた・停滞した社会だったということになるでしょう。

 それは、学校教育での日本史とその教科書に大きく反映していて、戦後世代は江戸時代についてひたすら「後れていて・封建的で・因習的で・貧しくて・不自由で・古くて」……要するによくない時代だったという印象を与えられてきたのではないでしょうか。

 しかし、最近の日本史の学会では本格的な江戸時代の見直しが行なわれているようです。

 考えてみれば、それは当然のことで、何のプラス面もない社会を約300年にわたって続けさせたとすれば、その国民はよほど愚かな国民であり、しかもその愚かな国民がなぜか突然目覚めてアジア、アフリカ、ネイティヴ・アメリカの中で唯一欧米に植民地ないし半植民地化されることなく近代国家を形成することに成功したという、訳のわからない話になるからです。

 それはそうではなく、長く続くには続くだけの理由があったのであり、近代以前・江戸時代の日本には明らかに大きなプラス面もあったのではないでしょうか。


 江戸時代は「ずっとひたすら貧しく暗い時代」だったか?

 しかし直接プラス面を述べる前に、私たち戦後世代が教えられてきた江戸時代のマイナス面とその見直しについて見ておきたいと思います。

 まず江戸時代は絶えず天災・飢饉・飢餓に悩まされ、特に百姓は重税を搾り取られて、きわめて貧しく暗い時代だったという印象があるのではないでしょうか。

 しかし最近の研究(佐藤常雄+大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社現代新書、等)によれば、「百姓は生かさず殺さず…」という言葉で教えられた重税・搾取という印象は、初期にはある程度当てはまるとしても、中期以降次第に農業の生産力も上がってきて、税も一定額を納めれば、あとの余剰は百姓が自由に使うことができ、中農以上であれば比較的余裕のあるのどかで豊かな生活をすることができるようになっていたようですし、そうした社会全体の生産力の向上を反映して江戸や大阪などは世界でも有数の人口を抱える豊かな都市に成長していたようです。

例えば芭蕉や蕪村の俳句には、そうしたのどかで豊かな日本の風景が描かれていいます。

 もちろん天災・飢饉の時や低い階層に貧しさがなかったというわけではありません。

 しかし、少なくとも「江戸時代はずっとひたすら貧しく暗い時代だった」という「残酷物語」的な印象は、暗い面・厳しい時期に焦点を当てたすぎた印象のようです。

 それは、マルクス主義的な進歩主義史観の影響下にあった戦後日本史学界の主流の学者が書いた教科書によって描かれた、ある意味で「作られた」イメージでしょう。

 ところが、渡辺京二氏の画期的な名著『逝きし世の面影』(平凡社)によれば、江戸末期・明治初期の日本の農村は、明るく豊かで、「楽園(パラダイス)のようだった」という証言があるのです。

 これは、連載のテーマにとって非常に重要なので、かなり長くなりますが、何個所か引用・紹介させていただきます。

 例えばペリーは、第二回遠征の時に下田に立ち寄って、「人びとは幸福で満足そう」だと感じたようですし、ロシア艦隊の一員として1856年に来日した英国人ティリーは、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」と言っています。

 1860年、通商条約締結のため来日したプロシャの使節団の遠征報告書の中には、「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」と述べられており、また1871年に来朝したオーストリアの外交官ヒューブナーは、「封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」と書いているそうです。(第二章「陽気な人々」より)

 私も最初、そうした印象は初めて東洋を見た西洋人の「異国趣味(エキゾチシズム)」的な善意の誤解で「美化されているのではないか」という疑いの思いをもって読みはじめました。

 著者渡辺氏自身、次のように述べています。


  日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだろうか。
 当時の欧米人の著述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。
 そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるをえない。(第三章「簡素と豊かさ」より)


 しかし、丹念に集めたきわめて豊富で信頼できる資料を元に書かれた約600頁にもわたる本文全体を読み通した後では、それはむしろきわめて正確な観察―証言であることを納得させられ、とりわけ以下の個所などには深く感動させられてしまいました。


 プロシャ商人リュードルフはハリスより一年早く下田へ来航したのであるが、近郊の田園について次のように述べている。
 「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」。……

 ケンペルは二世紀も前に、「彼らの国は専制君主に統治され、諸外国とのすべての通商と交通を禁止されているが、現在のように幸福だったことは一度もなかった」と述べているが、結局彼は正しかったのではないか。……
 「……荒っぽくてきびしい司法行政を有するこれらの領域の専制的政治組織の原因と結果との関連性がどうあろうとも、他方では、この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界との交わりを一切断ち切ったまま、独力の国内産業によって、三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。
とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である」。(第三章「簡素と豊かさ」より)


 そして、本連載のテーマにとって特に重要なことは、右のような日本の豊かさは、農学的・生態学的視点からすると、そのまま自然を破壊することなく何百年も続けることのできるような循環型の生産システムによるものだった、と評価されているということです。

 つまり、多くのマイナス面にもかかわらず、日本の近代以前・江戸時代は、あるレベルで「エコロジカルに持続可能な社会」を確立していたと見ることもできるのです。

 そのあたり、次号以降さらに見ていきたいと思います。




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コメント (1)
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