しばらく記事を更新する時間の余裕がありませんでしたが、読者や教え子のみなさんがときどきのぞいてくださっているようなので、少し書かねばと思っていました。
ちょうど昨日、O大学のチャペル・アワーでの講話のために原稿を書きましたので、転載します。
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。
(マタイによる福音書7・7―12)
いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典です。
そのためにキリスト教徒でない人のなかにはしばしば、「聖書はキリスト教徒にとっては意味があるかもしれないが、キリスト教徒でない自分には意味がない」と思っている人が見受けられます。
しかしちゃんと読んでいただくと、キリスト教徒であるないに関わらず意味のある、人生の道しるべになる言葉がたくさん含まれている、と私は考えています。
今日の聖書の箇所にも、誰にでも意味のあることが語られていると思います。
今日の出席者のみなさんのほとんどはクリスチャンではないと思いますので、クリスチャンでない人、誰にでも当てはまる「人生の法則」について紹介をしたいと思います。
この人生の法則は、ただ法則であるだけではなく、「いい人生のための法則」であり、「黄金の法則」だと思うので、そういうタイトルをつけました。
生きているといろいろ欲しいもの・得たいものがあります。
いろいろある中には、できれば欲しいものから、できるだけ欲しいもの、なにがなんでも欲しいものまで、いろいろな願望の強さのグレードが違うものがあります。
そして、そういうあらゆるグレードの願望が何もしなくても自動的に満たされるといいのですが、なぜか人生というかこの世というか、そういうふうにできていないようです。
現代の都市に住んでいる人は、お店のドアなどが自動であるのに慣れているので、ドアは立っただけで開くような錯覚に陥りがちです。
しかしいうまでもなく、よその家のドアはその前に立っただけでは開かれません。
ちゃんとチャイムなどを鳴らして、インターフォンで用件を言わなければ開けてはもらえません。
しかも、こちらの用件が相手にとっても用件つまり用のあることでなければ、門前払いをくわされることだってあります。
探さなくても「いい人生」という表札がかかった家が向こうから私の目の前にやってきてくれ、その門の前に黙って立っているだけで、門が自動的に開いて、何が欲しいのか言わなくても察してくれて、欲しいものがぜんぶ与えられる、という具合にできているととても都合がいいのですが、とても残念なことに私たちの生きている世界はそういうふうにはできていないのです。
いい人生を送りたいと思うのなら、まずいい人生を意識的に・能動的に・自分のほうから求めていかなければなりません。
ただ受動的に待っていたり、さらには引いたり、引きこもっていたりしても、いい人生はやってはこないでしょう。
求めなければ、得られない。求めて、はじめて得られる、というか得られる可能性がでてくるのです。
いい人生の出前はありません。いい人生には自動ドアもなければ、入ったとたん「何がお入用ですか」と聞いてくれる親切な店員さんもいないのです。
しかも、いい人生というのは、どこにあるのか、どういうものなのか、予めわかっているものではないようです。
探さなければ、見つからない。探して、はじめて見つかるもののようです。
もしいろいろある願望がぜんぶ満たされるのならば、求めなくても探さなくても自動的にいい人生がやってきてくれるかもしれませんが、ぜんぶは満たされそうもないとしたら、少なくともどの願望が満たされたらいい人生と言えるのか、自分の願望のいわばランキングをする必要があります。
有限な人生で、これだけは実現したいという願望を自分で見つけ出すまで、自己探求をする必要があるのではないでしょうか。
そして自分が与えられた有限な人生のなかでこれだけは実現したいといういちばん強い、ほんものの願望を見つけたら、それが得られるところに積極的に行って、その真正面の門のところにいって、門をたたくことです。
しかも、遠慮がちに小さな音でたたくのではなく、大きな音で、門のなかにいる人にはっきり聞こえるようにたたくことです。はっきり聞こえたら開けてもらえる可能性が出てきます。
たたかなければ、たたいても音が小さくて相手に聞こえなければ、開けてはもらえないでしょう。
聖書は、門のなかにいるのは、「あなたがたの天の父」であるといっています。
「天」というのは古代の神話的な表現で、現代的に言い換えると「宇宙」ということになるでしょう。
「父」というのも父権主義的なイスラエルの文化の表現で、「いのちを生み出したもの」、私を含め「すべての生命を生み出したなにか大いなるもの」「サムシング・グレイト」と言い換えると、ユダヤ教やキリスト教文化のなかにいない日本人にも理解しやすくなるのではないでしょうか。
いい人生という家のなかにいるのは、私たちのいのちの根源である何か大きなもの・大きな力であり、そしてその大きなものは、私たちの人生にとってもっとも必要なもの、ほんとうに人生のためになるもの、よいもの、ほんとうに欲しいものは何かを知っていて、求めれば、かならず与えてくれるのだ、と聖書は言っています。
これは、宇宙は人生というものを受動的に待っていても私たちの願望すべてをかなえてくれるというふうに作ってはいないが、能動的に熱心に求めたらいちばん大切な願望をかなえることのできるチャンスは与えてくれている、というふうに読むと、だれにでも当てはまる、理解できる言葉になるのではないでしょうか。
おもしろいのは、聖書はここで終わっていないということです。
ここまで「自分が求めることと得ること」の話をしていたのに、突然のように「人にする」話になっています。
実はここに常識とはちょっと違った聖書の英知があると思います。
私たちは、自分が求めるだけで得られると思いがちですが、人間は社会的な動物であり、人といっしょに生きています。
自分が一方的に求めるだけだと、しばしば他の人が求めることと矛盾・対立します。その人だって、自分の願望を求めているのですから。
そうではなくて、人が求めているものを与えてあげると、願望が満たされた人は感謝して、返礼をしてくれます。
いつもかならずではないにしても、よほどひどい社会でないかぎり、かなりの割合で、あげるとお礼がもらえるのです。
ギブ・アンド・テイクという言葉がありますが、まず与える、そうするともらえる、という意味です。
こういうたとえ話があります。
人生は、すばらしいご馳走が用意されているパーティのようなものなのですが、手には長い長いナイフとフォークがしばりつけられていて、せっかくご馳走を切って刺して取っても、長すぎて自分の口には入らないというのです。
そして、自分が食べられないでいる間に、他の人がご馳走を取ろうとしているのを見て、ご馳走を取られてしまうと思って、ナイフとフォークを振り回して邪魔をしようとして、ケンカになってしまうのです。パーティは台無しです。
さて、パーティを台無しにしないためには、どうしたらいいのでしょう?
そうですね、自分のナイフとフォークでご馳走を切って刺して、まず人に食べさせてあげるのです。
そうしたら、相手も私にご馳走を食べさせてくれるでしょう。
そうすると、お互いにおいしいご馳走を十分食べることができ、お互いに楽しんで、いいパーティの時間を過ごすことができるでしょう。
ここから得られる英知の教訓は、まず、いい人生を過ごすには引っ込んだりしり込みしたり、ただ待っていたりしないで、積極的に・能動的に求め、探し、門をたたくことが必要だということです。
それから、次のこれが「いい人生のための黄金の法則」だと私は思うのですが、人の求めているものを与えてあげることで、そのお礼として私の求めているものが得られるということです。
この2つのポイントをしっかり実行すれば、法則的にいい人生になる、と聖書は言っている、と私は解釈しています。
あなたは、どう思いますか、考えてみてください。
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