前期授業が始まって2ヶ月弱、今学期の受講者数は3大学合計で700名弱で決まり、コスモロジーの授業を続けています。
熱心な学生たちがたくさんいて、喜んでいます。
しかし、日本人の精神的荒廃(崩壊)の3段階」について話し終え、レポート課題を出したら、かなりの数の学生たちから、「〈3段階〉がよくわからない」という質問がありました。
テキストの『コスモロジーの創造』(法蔵館)には書いてあるので、ブログにも書いたような気がしていましたが、過去の記事を調べてみると、書いていませんでした。
この質問には「ちゃんと話したよね。あとはテキストを読んでください」と答えてもいいわけですが、もう少し親切心を出して、ここでも改めて書いておくことにしました(ただし、レポート作成中の学生諸君、あくまで参考です。このままコピペは、ぜんぜん評価できませんからね)。
まず前近代、つまり明治維新以前、江戸時代の日本です。
この時代、「神仏儒習合」のコスモロジーが生きていた、つまり「神・仏・天地自然・祖霊」が日本人の心のなかに生きていた時代には、精神的な荒廃――ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義――はほとんどなかったのではないか、と筆者は考えています。
ほとんどの日本人が、神・仏・天地自然・祖霊を信じていたということは、当然、「すべては物だから意味はない」のではなく、神仏という霊的な存在があり、個々人にも霊魂があり、したがって世界には深い意味があるということですし、「絶対的な倫理の根拠はない」のではなく、神仏・天地の法・道・掟が確固としてあると信じられていたのです。
崩壊の第1段階は、すでに述べたとおり明治維新の神仏分離、天皇制神道の国教化、社会の実際上の主流の洋学化です。
近代化と並行して「神仏儒習合」のコスモロジーの崩壊が始まります。
しかし戦前、社会全体、特に庶民の心のなかには「神仏儒習合」のコスモロジーは残りつづけていましたから、荒廃-ニヒリズムは一部の知識人たちの問題で、社会全体を蝕むには到りませんでした。
決定的なのは、第2段階、第二次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争の敗戦後、アメリカの占領政策――日本人の精神的武装解除――として行なわれた国家と宗教の分離、特に公教育と宗教の分離です。
ここで、日本の子どもたちは学校で神・仏・天地自然・祖霊の大切さをまったく教わることがない・できないという教育制度が作られました。
日本の精神的伝統であった「神仏儒習合」のコスモロジーの全国民的剥奪です。
ここで、人生の意味と倫理の根拠になる絶対的なものが、日本の公式文化のなかから姿を消した・消されたのです。
しかし、そこでただちに日本人の精神的荒廃が全面的になったわけではありません。
そこに到るまでにはもう一つ段階があったと筆者は考えています。
神仏は死んでも、それに代わるものとしての「人類とその進歩」という「理想」つまりヒューマニズムを信じられれば、まだニヒリズムには到りません。
理想を追求することが人生の価値・意味であり、ヒューマニズムは倫理の絶対的な根拠示しうるように思えたからです。
戦後、1970年頃までは、多くの人、特にまじめな学生は、科学や民主主義による「人類の進歩」や「人権の解放」を信じていました。
ところが、第3段階、70年前後、学生闘争の終結以降、「理想」はほとんど死に絶えたといってもいい状態にあるのではないかと思われます。
そうなった最大(唯一ではないにしても)の原因は、学生闘争の決着の付け方にある、というのが筆者の推測です。
筆者も60年代、学生であり、友人のかなり多くが学生運動家とまでいかなくてもそのシンパ(共鳴者)という状態でしたが、ここでは長くなるので割愛する理由があって、運動には参加しませんでした。
ですから、全面的に肯定してはいないのですが、学生運動の良質な部分に関しては「世の中をよくしたい」という情熱に突き動かされた「まじめな」運動であったと評価していい、と今でも思っています(若気の至りの、お祭り騒ぎにすぎなかった、あまり良質でない部分ももちろんありましたが)。
つまり、ヒューマニスティックな「理想」の追求が根本的な動機だったのです。
ところが、運動は、もっとも象徴的には東大安田講堂への機動隊の導入などの外部の力で鎮圧され、内部的にも中核―革マルの内ゲバや連合赤軍の浅間山荘事件などに見られる対立―荒廃現象が起こり、市民の共感・支持を失ってしまいました。
それは後の世代に、「世の中をよくしようという理想など抱いたって、権力に鎮圧されておしまいだし、そうでなくても内部対立でこわいことが起こるだけで、理想の実現なんかできないんだ」といった強烈な印象を与えたようです(これは、たくさんの後輩世代に聞き取り調査的に確かめました)。
そして以後の経済的繁栄とあいまって、「世の中をよくしようなんてめんどうな理想を持たなくても、みんなでもうけて、パイを分けあって、楽しく生きていけばいいんだ」といった、軽薄、ネアカ、ルンルン……の風潮が、社会の、特に若い世代の気分の主流になりました。
そうした状況で、誰かが真剣に考えようとすると、仲間から「ネクラ」と非難され、「マジになるなよ、ダサイぜ」と冷やかされました。
そういうふうにして起こったのは、若い世代の心のなかでの「理想の死」です。
情熱を注ぐべき「理想」がなければ、「シラケル」のは当然です。
表面は「ネアカ」、内心は「シラケ」というのが、若い世代の基本的な気分になったのではないでしょうか。
「シラケ」は、徹底されていないけれども、ニヒリズムの兆候だと見てまちがいないでしょう。
徹底すると死にたくなることがわかっているので、表面はネアカ・ルンルン…と快楽主義でやりすごそうとするのだと推測されます。
「神・仏・天・祖霊」に加えて、それに代わる「理想」まで死んでしまったとしたら、生きていることの意味や正しく生きることの根拠も見失われ、もうニヒリズムが氾濫・浸透することをとどめるものはなくなるのではないでしょうか。
それでも景気がよく日本人全体の金回りがよかった時代には、快楽主義でやり過ごせる人口も多かったのですが、90年代のバブル崩壊、そして今回の大不況で、快楽を追求する金もなくなってくると、心の荒廃はいっそう進み、それを行動化(アイティング・アウト)した犯罪・事件がどんどん増えてくるのではないか、と危惧しています。
このままで大丈夫なのか、どうにかしなければいけないのではないか、どうすればいいのか、本ブログではすでにさまざまなかたちで提案をしてきましたが、これからもご一緒に考えていきましょう。
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