今日も、マルクス・アウレーリウスの言葉を一つ。
「君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合わせていない」と君がいうわけに行かないものがほかに沢山ある。それを発揮せよ。なぜならそれはみな君次第なのだから、たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命にたいして呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神。今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとかいい逃れするわけには行かないのだ。それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか。それとも君は生まれつき能力がないために、ぶつぶついったり、けちけちしたり、おべっかをいったり自分の身体にあたりちらしたり、人に取り入ったり、ほらを吹いたり、そんなにも心をみださなければならないのか。否、神々に誓って否。とうの昔に君はこういう悪い癖から足を洗ってしまうことが出来たはずなのだ。そしてなにか責められるとすれば、ただのろまでわかりが鈍いということだけいわれるので済んだはずなのだ。しかもこの点についてもなお修養すべきであって、この魯鈍さを無視したり楽しんだりしてはならない。」
(『自省録』5・5)
アウレーリウスの言葉は、いつもみごとに事柄を言い当てていて、付け加えることは何もない、という感じですが、ほんの少しだけコメントを。
「私なんてどうせ才能ないから」という言い訳は、何の役にも誰の役にも立ちません。
人と比べて大きな才能があっても、それほどではなくても、私たちは、よく生きることは可能です。
自分がいい人生を送る邪魔になっている自分の心の悪い癖をやめるか続けるかは、誰にでもある「意思の自由」を行使してどちらを選択するかという問題であって、才能の問題ではない、というのです。
ほんとうにそのとおりです。自分の低い現状に甘んじないで、よりよい、より高い心のあり方で生きていくよう、何度でも心のあり方・生き方の選択のし直しをしたいと思います。
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