すべて形あるものは変化する:諸行無常

2005年12月22日 | 心の教育
 三法印の第一は、「諸行無常」です。

 諸行の「行」とは、「形成された存在」という意味です。

 仏教では、存在を「有為・形成された存在」と「無為・形成されない存在」に分類します。

 そして、「形成された存在」は、変化していくものであって、そういう意味で永遠性はない、「常」ではないことを、非常にはっきりと捉えているのです。

 これは、世界の姿をよく見ればある意味ではだれでもわかることですが、しかしふつうの人間は、普段あまりよく世界の本当の姿を見ていないものです。

 あるいは、見たくないので見ようとしない、といってもいいかもしれません。

 自分にとって大切なもの、自分が愛着しているものなどは、変わってほしくないので、普段は何となく変わらないかのように思っています。

 あるいは、欲張って、いいものにはもっといいように変わって欲しいと思ったりもします。

 もちろん嫌なものには、いい方に変わるとか、なくなるというふうに変わってほしいと思うわけですが。

 しかし私たちが大切にしていようがいまいが、愛着していようがいまいが、嫌っていようがいまいが、すべてのものは変化していきます。

 ただし、ここで「すべてのもの」というのは、「形成されたもの」のことです。

 すべての形成されたものは、否応なしに変化していく、それがありのままに観察された世界の姿だ、ということです。

 ここでのポイントは、自分の欲求や愛着や感情とかかわりなく、「ありのままに観察された世界の姿」というところにあります。

 ゴータマ・ブッダの教えの基本には、いつも冷静なありのままの世界の姿への洞察という姿勢があります。

 しかし日本では、代表的には『平家物語』の冒頭の有名な言葉、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に表れているように、「諸行無常」という言葉をとても悲しい感情的な意味あいにとっています。

 そもそも仏教全体が、とても悲しい情緒的な宗教であるというふうに取られています。

 それには、日本文化としてのそれなりの意味も、それなりの味わいもありますが、ゴータマ・ブッダの教えのもともとの意味からいえば、違っているといわざるをえません。

 私たちが、「仏教」を学ぶという場合、先にお話ししたような6つの側面があることを意識しておく必要がありますが、特にゴータマ・ブッダの仏教と日本仏教のニュアンスの違いをはっきり押さえておく必要があると思います。

 ゴータマ・ブッダの教えとしての「諸行無常」は、きわめて理性的・哲学的な世界の姿の認識だったといってまちがいないでしょう。

 さて、ここでみなさんに考えていただきたいことがあります。

 みなさんの見るかぎりの形あるもの・形づくられたもので、変化しないもの、永遠に存在できるものがあるでしょうか?

 なさそうですよね?

 だとすると、「諸行無常」ということは、特定宗教としての仏教の教義として、信じるか信じないかという話ではなく、だれでも世界のありのままの姿をよく見、よく考えたら、そう言わざるをえないこと――哲学用語でいえば普遍的に妥当な「命題」――ということになりますね。


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コメント (2)
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