公教育と宗教の分離

2005年08月29日 | 歴史教育

 GHQの「情報操作」の第2は、きわめて体系的な「教育政策」です。

 最高司令官のマッカーサーは、1945年8月30日、厚木に到着すると、矢継ぎ早に占領政策を実施していきますが、その中の教育つまり精神性を変えるために行なった政策の中で重要なものを以下挙げます。

 45年には、10月22日、軍国主義的・超国家主義的教育の禁止の指令、30日、教育関係の軍国主義者・超国家主義者の追放指令、12月15日、国家と神道の分離の指令、31日、修身・日本歴史・地理の授業停止、教科書回収の指令などがあります。

 翌46年には、新年早々から天皇自身が天皇の神格化を否定した詔勅、いわゆる「天皇人間宣言」がなされます。

 そしてGHQの完全なコントロール下で憲法が制定され、11月3日、公布されます。

 ここで、現行の第9条を含むいわゆる「平和憲法」が護るべき価値のあるものかどうか、改正すべきかどうかという議論に立ち入るつもりはありません。

 話のポイントは、私たちの現行憲法がアメリカに決めさせられて決めたものだということは確実のようだ、というところにあります。

(といっても、しばしば質問されるので、あらかじめ答えておくと、私は、「現在の日本人の精神性は非常に低い水準にあるので、今改正しても、現行憲法以上にいいものが作れるとは思えないから、当分維持したほうがよい。しかし、かなり遠い将来、精神性の水準が高まって、よりよい憲法を作れるくらいになったら、その時には自主憲法を作り直すべきだ」という、時限的護憲-改憲論者です。)

 ここで指摘しておきたいのは、憲法全体がそうであるように、

 第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」も、

 第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。/国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」も、

日本人が自主的に決めたのではなく、決めさせられて決めたのだ、という点です。

 つまり、内容に価値があるかないかは別にして、この条文(憲法全体)の背後にはGHQ-アメリカの意図が潜んでいるということです。

 こういうと、進歩派の方はすぐに、「決めさせられたものだろうがどうだろうが、いいものはいいじゃないか」と反応されるでしょう。

 しかし、私は、「いいものだとしても、決めさせられたものですよね。そして、誰かが誰かに物事を強制的に決めさせる場合、何の意図もなく決めさせるということはありえないですよね」といいたいのです。

 バーンズ長官の声明からマッカーサーの一連の政策の流れまでを一貫したものとしてみていくと、その意図とは、表はもちろん「民主化」、裏は日本人の「精神的武装解除」だったと考えてまちがいないのではないでしょうか。

(このあたりまでの論旨は、主に江藤淳氏の『1946年憲法――その拘束 その他』、『忘れたことと忘れさせられたこと』〔文春文庫、現在品切れ〕の示唆によるものです。)

 さて、憲法の制定に引き続き47年3月31日、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、翌4月1日付けで施行されます。

 もちろん、依然としてGHQがうんといわなければ何も決められないという状況下で、アメリカの指導の下に決めたのです。

 さて、ここで決定的に重要なことは、「教育基本法」によって、公教育と、天皇制神道だけでなく日本の伝統的宗教全体(神仏儒習合のコスモロジー)が完全に分離されたことです。

 特にポイントは、第9条です。

 「第9条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

 ②国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」

 この条文のどこに問題があるのでしょう? 「何も問題はない。当然のことだ」と感じる方が多いのではないでしょうか。

 しかし、まさにその「当然のことだ」という感じられるところに問題があります。

 この第9条、特に②は、実際にはどう機能したでしょう? あるいは、GHQはどう機能させたかったのでしょう? 

 私は、仕事上も個人的にもたくさんの教師の方と知り合いですが、聞いてみると、公立の先生方はほとんど例外なく、「公立の学校では宗教を教えてはいけない」と捉えています。

 条文をよく読むと「特定の宗教のための宗教教育……を」となっているのであって、「宗教教育を」とはなっていませんが、公教育の現場では、「公立の学校では、宗教を教えていけない」のだというタブーとして機能してきた――今でも機能している――のです。

 「だから、何が問題だというんだ?」と思われるかもしれません。

 「公立の学校では、宗教を教えてはいけない」、だから「教えない」、子どもの側からいうと「教わらない」ということは、こういうことです。

 日本の子どもの非常に多数が、学校で宗教つまり日本の「神仏儒の精神性」に触れることを原則的に禁止され、できなくなってしまったのです。

 検閲-言論統制と教育基本法-公教育と宗教の分離によって、日本の子どもたちは、日本のコスモロジーを学ぶ機会を、家庭と地域を除いてすべて、みごとに剥奪されてしまいました。

 非常にたくさん聞き取りをしましたが、戦後、公教育を受けた人の中で、学校で「神さま、仏さまを敬おう。天地自然に感謝しよう。ご先祖さまを大切にしよう」といった話を聞かされた人は、ほとんどいません。

 逆にいうと、戦前の公立の学校では、「天皇陛下」の話だけではなく、「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さま」の話も、ちゃんとなされていたのです。

 ところが、戦後、マスコミと学校という社会的な権威のある情報源で否定されてしまうと、親たちの多くは自信をもって子どもに神仏儒習合の精神を語り伝えることができなくなってしまいました。

 「学校の先生は、そんなこといってないよ」と子どもにいわれてしまうと、黙ってしまう親が多かったのです。

 しかし親ではなく、その上、つまり祖父母の中には、「これはとても大事なことなんだ」と信じ続けていて、一所懸命、孫に「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さま」のことを伝えようとした方も相当数いたようです。

 とはいえ、社会の大勢は、恐ろしいほどの勢いで、マスコミ、学校、家庭のすべてにおいて、「神仏儒習合」のコスモロジーを見失う方向へ向っていったといってまちがいないでしょう。

 こうして、日本人の「精神的武装解除」=伝統的精神性の剥奪=大和魂の骨抜きはみごとに成功したのです。

 さて、ここでもう一度。私は、右翼ではありません。最後まで、話を聞いていただけるとうれしいです。<
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