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大乗の菩薩とは何か 5

2015年04月23日 | 仏教・宗教

 菩薩の誓願は、特定の人や特定の生き物に限定されるものではなく、一切衆生=すべての生きとし生けるものに関わるもので、無差別平等です。

 第十六願は六道=六つの生存形態、第十七願は四生=生命の四つの種類の差別をなくすことが語られています。

 第十七願と第十九願では、一切衆生に5つの神通力=常識を超えた潜在能力と、光明=光り輝く人生の希望を与えることが誓願されています。

 面白いのは第十八願で、喜びを食べることで不快な便通のないようにしようと言われているところです。

 確かに、ストレスのない、爽やかな生活をしていると、便秘からも下痢からも解放されるでしょう。

 こうした誓願は、古代インド的にやや誇張されていたり、神話的であったりしますが、意味を読み取っていくと、私たちも及ばずながら、そうありたい、そうしたい、と思うことばかりではないでしょうか。

 明後日、東京集中講座で、これらの誓願についてより詳しい講義をしていきます。まだ、少しだけ席の残りがありますので、読者の中で、これからでも思い立って参加されたい方は、お申し込みいただけます。



 〔第十六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に六つの生存形態の違いがあることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には六つの生存形態の名称、すなわちこれは地獄、これは畜生、これは餓鬼、是は神(阿修羅)、是は天、これは人ということがなく、一切の衆生がみな同一のカルマで四念処から八正道までのことを修行させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、速やかに一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に六道の別異有ることを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして六道の名、是れ地獄、是れ畜生、是れ餓鬼、是れ神、是れ天、是れ人なりといふこと無く、一切衆生皆同一業をもて、四念處乃至八聖道分を修せしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

 〔第十七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に四つの生まれの類別、すなわち卵から生まれるもの、母の胎から生まれるもの、湿気からうまれるもの、突然生まれるものがあるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には三つの生まれはなく等しく一つの突然生まれるものにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に四生、卵生・胎生・濕生・化生有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時我が國土の衆生をして三種の生無く等しく一化生ならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に五つの神通力がないことを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には一切みな五つの神通力を得させようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に五神通無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして一切皆五通を得しめんと。乃至疾に一切種智に近づく。

 〔第十九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に大小便の不快感があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の衆生にはみな喜びを食として便を排泄する不快感のないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に大小便の患有るを見て、當に是の願を作すべし。 我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして皆歡喜を以て食と爲し便利の患有ること無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に光明がないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の衆生にはみな光明があるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に光明有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生皆光明有らしめんと。乃至一切種智に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 4

2015年04月22日 | 仏教・宗教

 
 『摩訶般若波羅蜜経』の「菩薩の30の誓願」の第四回目です。

 これとほぼ同じ内容を、『大般若経』で読んだ時、非常に驚きと感銘を感じたのは、特に以下のあたりでした。

 第十二願で、大乗の菩薩は徹底的に身分の差別を否定するものだと語られています。

 これは、強固な身分社会であった古代インドで、激越と言ってもおかしくないくらいの徹底した主張です。

 それどころか第十三願では、いわば社会階層の上・中・下があることも断固なくすべきだと主張されています。

 第十四願では、身体の差異もなくすべきだと言われています。

 そして驚異的と言ってもいいくらいだと感じたのは、第十五願です。君主制・王政が否定されているのです。

 ただし、法によって衆生を導くリーダーは例外とされていますが。

 これらを要するに、大乗の菩薩の創り出すべき国土は、徹底的な平等社会でなければならないということです。

 それは、大乗仏教―『摩訶般若波羅蜜経』さらには『大般若経』を精神的遺産としてきた日本国の本来目指すべき国のかたちは、格差を容認するような社会ではありえない。徹底的な平等社会でなければならない、ということでもあります。

 非常に努力した人が報われて上流になり、それにつぐ努力をした人が中流になり、努力をしなかった・できなかった人は下層になっても、それは当然だ、と言うのは、本当の「保守」での言葉はない、と歴史的事実に基づいて、私は主張したいと思っています。

 聖徳太子『十七条憲法』からも、聖武天皇が国分寺すべてに『大般若経』を揃えさせたことからも、あるいは『華厳経』にもはっきりと現われている菩薩思想からも、日本の真の保守派が徹底的に保守すべきなのは、平等社会という理想であり、その理想の実現への努力だと言うほかないのではないでしょうか。



 〔第十二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、四種類の身分の衆生、すなわちクシャトリア・バラモン・ヴァイシャ・シュードラ〔という差別〕を見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には四つの身分という名称さえなくしてしまおうと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、四姓の衆生、刹帝利・婆羅門・毘舍・首陀見羅を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして四姓の名無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第十三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に下・中・上、下・中・上の家柄があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生にはこうした優劣をなくしてしまおうと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に下・中・上、下・中・上家有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして是の如きの優劣無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が種々に異なった身体であるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には種々に異なった身体であることがなく、一切の衆生がみな端正で清潔で美しいという〔状態を〕実現させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の種種別異色なるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして種種別異色なること無からしめ、一切衆生皆端正・淨潔・妙色成就せしんめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に君主があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生には君主という名称もなく、さらにはその形や像もないようにしよう、〔ただし〕仏法の王は除くと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に主有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして主の名も有ること無く、乃至其の形像も無からしめん、佛法王を除くと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。



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大乗の菩薩とは何か 3

2015年04月21日 | 仏教・宗教
 
 『摩訶般若波羅蜜経』の「菩薩の30の誓願」をご紹介していますが、今回は、第七願から第十一願までです。

 第七願では、覚れる人と覚れない人の違いを無くすこと、第八願では、地獄・餓鬼・畜生という悪い生存形態をまったく無くすこと、第十一願では、衆生の異常な執着を無くすことが菩薩の到達目標であることが語られていますが、これはいかにも菩薩らしい誓願です。

 しかし、常識的な菩薩のイメージと異なっていて、非常に興味深いのは、第九願と第十願です。

 第九願は、いわば社会全体をバリアフリーにしたいという誓願、第十願は、いわばレアメタル問題を解決したいという誓願と読むことができます。

 これも初めて読んだ時、とても面白いと思ったのですが、さらにある種驚きだったのは、第十二願などでした。

 これについては、また明日、ご紹介したいと思っています。


 〔第七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が三種類、すなわち一には必ず覚りを開くことになっている人々、二には必ず無明のままの人々、三にはどちらとも決まっていない人々という状態にとどまっているのと見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になりえた時には、私の国土の衆生には無明のままの人々などなくさらにそういう名称さえないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の三聚、一には必正聚、二には必邪聚、三には不定聚に住するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして邪聚無く乃至其の名をも無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

 〔第八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、地獄の中にいる衆生、畜生・餓鬼の中にいる衆生を見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の中では〔地獄・畜生・餓鬼はもちろん〕三つの悪い生存状態という名称さえないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、地獄中の衆生、畜生・餓鬼中の衆生を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛を得る時、我が國土中乃至三惡道の名も無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この大地の切り株、イバラ、山岳、溝、汚れた場所などを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の中にこうした惡い地域がなく、手のひらのように平にしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、般若波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の大地の株杌・荊棘・山陵・溝坑・穢惡の處を見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土に是の如きの惡地無く、平かなること掌の如ごとくならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この大地が土だけで金銀や貴重な宝石などがないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土には黄金の砂で地面を敷き詰めさせようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の大地の純土にして金銀・珍寶有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が國土をして黄金沙を以て地に布しかしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第十一願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が異常に執着するところがあるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生を異常な執着がないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の戀著する所有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時我が國土の衆生をして戀著する所無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して。能く六波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 2

2015年04月20日 | 仏教・宗教

 昨日に続き、第三願から第六願までを掲載します。

 第一願から第六願までは、六波羅蜜それぞれの実践が、単に個人の覚りのことだけでなく、一切衆生に関わることであるということを明らかにしています。

 というか、大乗の菩薩の目指す覚り・阿耨多羅三藐三菩提・この上なく比較するもののない覚りは、そもそも個人的なものではありえない、ということを明快に語っているのです。


 〔第三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が忍辱波羅蜜を実践する時、諸々の衆生が互いに憎みあい、怒鳴りあい、刀や棒や瓦や石でお互いに傷つけあい殺しあうのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で忍辱波羅蜜を実行し、私が仏になった時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにし、お互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉妹のようにし、よい友のようにみなに慈しみを実践させようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで忍辱波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

復 次に須菩提、菩薩摩訶薩は羼提波羅蜜を行ずる時、諸の衆生互に相瞋恚し罵詈し、刀杖瓦石もて共に相殘害し奪命するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ羼提波羅蜜を行じ、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして是の如き事無からしめんと。相視ること父の如く母の如く兄の如く弟の如く姊妹の如く、善知識の如く、皆慈悲を行ぜしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く尸羅波羅蜜を具足し阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が精進波羅蜜を実践する時、衆生が怠惰で精進せず、三乗、すなわち声聞乗・独覚乗・仏乗を捨て去るのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で精進波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にこのようなことがなく、一切の衆生が熱心に修行し精進し、三乗の道でそれぞれ覚りの向こう岸へ渡ることができるようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで忍辱波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩は毘梨耶波羅蜜を行ずる時、衆生の懈怠して勤精進ならず、三乘・聲聞・辟支佛・佛乘を棄捨するを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ毘梨耶波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無く、一切衆生勤修し精進し、三乘道に於て各度脱することを得しめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く毘梨耶波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が禅定波羅蜜を実践する時、衆生が五つの障害に覆われ、淫欲、怒り、眠気、後悔、疑いのために、初禅から第四禅に入ることができず、虚空処、識処、無所有処、非有想非無想処に入ることができないのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で禅定波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで禅定波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩禪那波羅蜜を行ずる時、衆生の五蓋に覆われ、婬欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑の爲に、初禪乃至第四禪を失ひ、慈悲喜捨、虚空處、識處、無所有處、非有想非無想處を失へるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ禪那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く禪那波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 〔第六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践する時、衆生が愚かで社会常識的および超越的な正しい考えを見失い、あるいはカルマもなくカルマの因縁もないと説き、あるいは実体的霊魂の永続性を説き、あるいは死んだらすべては終わりだと説き、あるいは〔単なる〕空無を説くのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で般若波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで般若波羅蜜を完成し、速やか一切を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、衆生の愚癡にして世間・出世間の正見を失ひ、或は業無く業因縁無きを説き、或は神常を説き、或は斷滅を説き、或は無所有を説くを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ般若波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我が國土の衆生をして是の如きの事なからしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如き行を作して、能く般若波羅蜜を具足し、疾に一切種智に近づく。

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大乗の菩薩とは何か 1

2015年04月19日 | 仏教・宗教

 来週の土曜日25日は、東京・神田で「大乗の菩薩とは何か――『摩訶般若波羅蜜経』の要点を学ぶ」の第二回目の講義を行ないます。

 大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれていることを、『摩訶般若波羅蜜経』という原典で確かめる、というのが講座の目的です。

 それはまた、『摩訶般若波羅蜜経』とほぼおなじ内容を含むより大規模の叢書『大般若経』という日本精神史の遺産の内容を、理解して受け継ぐための作業でもあります。

 そのことを明らかにするために、かつて雑誌に連載した、「日本人の心と仏教」の一部を以下に採録しておきますので、日本人としての健全で正当な精神的アイデンティティを再確立したいという思いをお持ちの方には、ぜひお読みいただきたいと思います。

    *       *       *

 天智天皇をリーダーとした大化の改新、弟天武の妻持統天皇をリーダーとした「大宝令」によって「律令国家」が確立します。……律令国家確立の背後には、そうした国家リーダーたちの高い理想・志があり、そのモットーが「和」でした。そして、「和」という日本の理想は、大乗仏教を核とした「神仏儒習合」の思想から生まれたものでした。

 持統に続いて即位したその孫文武天皇も、若くして亡くなった文武の後を受けたその母元明天皇も、その娘でおそらく次の聖武天皇までの中継ぎとして即位した元正天皇も、その理想をしっかりと受け継いでいるようです。

 とはいえ、文武から元正まで、具体的な政策としては律令制の確立に重点が置かれ、仏教については目立つ事跡はありませんが、七一〇年、元明女帝の時、唐にならって文明国にふさわしい都を築くため平城京へと遷都がなされていることは、注目すべきことでしょう。

 本格的な都の成立は、中央集権体制としての律令国家の確立と対応しています。そして、中央集権が確立しなければ、日本全国への仏教のトップダウンもありえませんでした。

 日本人全体が仏教を共有するための大きな働きかけをしたのは、聖武天皇ですが、その仏教振興は、それを実行・実現する場所としての奈良・平城京なしには考えられません。

 聖武天皇が、全国に国分寺・国分尼寺を造営させ、奈良に総国分寺としての東大寺とその本尊である大仏を建立したことはよく知られています。

 七四一(天平十三)年、国分寺・国分尼寺建立の詔の中で、聖武は「このごろ、田畑の稔りが豊かでなく、疫病がしきりに起こる。それを見ると身の不徳を慚じる気持と恐れがかわるがわる起こって、独り心をいため自分を責めている。そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと思う。そのため…全国の神宮を修造させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦の仏像一体宛を造らせると共に、大般若経一揃い宛を写させた。そうしたためかこの春から秋の収穫まで、風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、不思議な賜り物があったのであろう。…」(宇治谷孟訳『続日本紀』)と述べています。

 しばしば「奈良仏教は鎮護国家の国家宗教であって、民衆の宗教、民衆の救いではなかった」というふうな評がなされてきましたが、こうした詔勅をすなおに読むと、そこには大きな誤解があったのではないかと思わされます。

 「鎮護国家」とは、単に迷信的な呪術によって自分たちの権力の維持を図るといったことではなく、人民すべてが幸せに暮らせる国になるよう祈り願うということだったのではないでしょうか。そういう意味で、この時代の仏教は、確かにまだ「民衆が信じる宗教」にはなっていなかったにしても、「民衆の幸せを祈る宗教」という面をまちがいなく持っていたことを正当に見直すべきだと思うのです。

 日本の総国分寺・東大寺の本尊は、これまたあまりによく知られた大仏すなわち毘慮舎那(または慮舎那)仏で、『華厳経』詳しくは『大方広仏華厳経』の教えの主体である仏です。

 「毘慮舎那」はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音を写したもので、「光明遍照=世界すべてを照らす光」という意味で、この仏さまは、蓮華蔵世界というところの千枚の花びらからなる蓮の花の上に坐っており(実際の大仏は十八枚)、その千枚の花びらそれぞれに一人ずつ釈迦如来がいて、人々を教え救う働きをしています。

 この像は、右の手のひらを開いて上げ(施無畏の印)、左手を伸ばす(与願の印)という手のかたちをしています。そのかたちには、人々に恐れや苦しみのない安らかなこころを与え、すべての願いを叶え、さらには覚りたいという願いを起こさせるという仏さまの心が象徴的に示されています。

 こういう意味をもつ毘慮舎那仏を総国分寺の本尊とし、その分身としての釈迦如来像を祀る国分寺・国分尼寺を日本全国に建てさせたことは、この仏の功徳の光が国中に照りわたって、日本が、人々の願いがかない、不安や苦しみなく生きていける、光溢れ調和に満ちた美しい国になることを、聖武天皇が本気で願っていたことを表わしています。

 いわゆる天平の時代は、「青丹よし寧楽の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」の歌に示されるような文化の花が開いた時代である一方、不思議なほど天災が頻発し、疫病の流行もあり、いくつもの政変もあって、決して民衆すべてが心安らかに暮らせるような時代ではありませんでした。

 この時代の基本史料『続日本紀』そのものを読んで気づくことは、律令制によって、一方では民衆からの収税が制度化されたと同時に、歴代天皇―政府は、天災・飢饉・疫病流行などの際には納税を免除あるいは延期したり、稲籾を貸し付けたり、しばしば物資を送り、医師を派遣するなど、民衆への援助も行なっているということです。

 こうした記事は、戦後の歴史教科書などではほとんど紹介されていないようです(私も学んだ憶えがありません)。しかし考えてみて、律令制という全国的な行政制度の確立なしに、部族的な地域社会の中だけでそうした「社会福祉」ができたでしょうか。飢饉や流行病や地震などで地域社会が壊滅状態になった時、より広範囲な行政制度や財政的基盤がなければ、援助は不可能でしょう。

 もちろん古代という時代の経済力の限界、身分制という限界はあったにちがいありませんが、「慈悲」や「仁」、「愛民」、仁政・徳治といった古代リーダーたちの理想は、けっしてひたすら主観的・観念的ではなく、かなりの実行を伴ったものだったようです。しかも、時代の制約を考えれば、それは精一杯の努力だったといってもいいのではないでしょうか。

 七四三(天平十五)年、大仏造営の詔には「朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、務めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりとなさけ深い恩恵を受けているけれども、天下のもの一切がすべて仏の法恩に浴しているとはいえない。そこで本当に三宝の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり、よろず代までの幸せを願う事業を行なって、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである」(前掲書)と語られています。ここには聖徳太子の「菩薩としての天子」という理想が脈々と引き継がれている、と私には読めます。

 こうした志への共感があったからこそ、それまでひたすら民衆の救済と布教に専心し、時には政府の仏教政策と対立した行基も、大仏建立に関し全面協力する気になったのでしょう。それもまたよく言われたような、権力への妥協・迎合ではなかったのだと思われます。

 戦後の進歩的知識人の批判精神は、日本のかつてのリーダーたちのマイナス面だけを見て、こうしたプラス面をほとんど見落としてきたのではないかと感じます。それには理由や必然性があったにしても、多くの弊害も残したといわざるをえません。

 そういう私も、日本仏教の再発見をきっかけにして、ようやくかつての日本のリーダーたちのプラス面、リーダーにおける「日本の心・日本の理想」を再発見しつつあるところです。
 
 飛鳥から白鳳・天平にかけての仏像や寺院などの仏教美術に、それ以後の時代とはある種「格が違う」といっていいほどの非常な高さを感じるのは、背後にそうした政治と仏教のリーダーたちが共有していた理想の高さがあるからなのではないか、とこのごろ感じています。

     *       *       *

 聖武天皇が、日本全国国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、特に『大般若経』一揃いを整備させたということは、そこに、日本のトップリーダーの「民さらには生きとし生けるものすべてが幸せな国にしたい」という願い・理想が表現されているということでしょう。

 確かに『大般若経』は、聖武天皇の時代からずっと、典型的には「大般若会(だいはんにゃえ)」というかたちで、呪術的な効果があるものとして儀式的に読誦されてきました。

 しかし、『大般若経』そのものには、呪術的な意味しかなかったのでしょうか。

 そもそも『大般若経』にはどういうことが書かれていたのでしょう。

 私たちは、これまでほとんどその思想的内容を知らないままできました。

 ところが私は、きっかけがあって、『大般若経』六百巻全体を読むことができ、その内容の深さに感心してしまいました。

 しかも、繰り返せば、「大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれている」ということに気づいて、驚いてしまいました。

 その気づきと驚きをみなさんとシェアしたいというのが、今回の講座の目標なのですが、ご参加いただけないブログ読者のために、せめて原文だけでもご紹介したいと思います。

 『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品第五十八」の後半に、大乗の菩薩の誓願すなわち実現目標が30項目あげられています。

 すでにかなり長くなっていますので、今日は、第一願と第二願だけ掲載します。

           *       *       *

 ブッダがスブーティに告げられた。

 (佛須菩提に告げたまう。)

 〔第一願〕

 菩薩摩訶薩がいて布施波羅蜜を実践する時、もし衆生が飢え凍えて衣服が破れているのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で布施波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時、私の国土の衆生にこのようなことがなく、衣服・飲食・生活に必要な物が、まさに四天王の天界、三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の(天界の)ようにしよう、と。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで布施波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 (菩薩摩訶薩有りて檀那波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓し、衣服弊壞せるを見て、菩薩摩訶薩は當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無く、衣服・飮食・資生の具、當に四天王天・三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如き行を作して能く檀那波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。)

 〔第二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が持戒波羅蜜を実践する時、衆生が殺害をなし、邪な考えを持ち、寿命が短く、病が多く、顔色がよくなく、威厳がなく、貧乏で財産がなく下賤な家に生まれて様子が醜いのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で持戒波羅蜜を実行し、私が仏になりえた時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで持戒波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜を行ずる時、衆生の殺生し乃至邪見、短命、多病、顏色好からざる、威徳有ること無き、貧にして財物に乏しき、下賤の家に生じて形殘醜陋なるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ尸羅波羅蜜を行じ、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして是の如き事無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く尸羅波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

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閉ざす宗教をやめて開く宗教=霊性へ

2015年02月24日 | 仏教・宗教

 *以下は、2001年10月22日、桜美林大学での礼拝説教に若干の訂正を加え、「アメリカの同時多発テロとそれ以後の状況へのコメント」という副題を付けて『サングラハ』誌に掲載したものです。

 原理主義的宗教の問題をどう考えればいいのか、10年以上たった今でも基本は同じだと思っていますので、ブログの読者のみなさんにも改めてお読みいただいて参考にしていただきたいと思い、さらにごくわずかの訂正・増補を加えて転載することにしました。



 共通にある聖戦思想

 最近起こったアメリカでの多発テロに関わって、キリスト教とイスラム教の問題について、いろいろな方からコメントを求められます。とても複雑な問題なので、わずかな時間で語り尽くすのは難しいと思いますが、ここでポイントだけお話ししておきたいと思います。

 よくあるのは、「アメリカはキリスト教国なのに、どうして報復するんですか」という質問です。これは、「キリスト教の根本精神は愛であるはずなのに」という疑問です。それに対して私は、まず「キリスト教国だから報復するんです」と、意表をつくような答えからすることにしています。

 ご存知かどうかわかりませんが、イスラム教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教にも、その一部として、はっきりと聖戦思想が含まれているのです。

 例えば典型的には、『旧約聖書』の六番目に『ヨシュア記』というのがあります。ヨシュアは、有名なモーセの後継者で、実際にイスラエルの人たちがカナンの地(今のパレスチナ)に入っていくときに、宗教的・軍事的指導者だった人です。彼はまさに軍事的指導者でもあったわけで、その侵入する際の戦いを指導し、それに勝ち抜いていくわけです。そして古代のパレスチナ人たちを殲滅しながら今の地に入っていくのですが、その際、侵入していくことが宗教の名、神の名において合理化されているのです。

 『ヨシュア記』の前にある『申命記』に「主はモーセに言われた。これがあなたの子孫にあたえると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である」(三四・四)とあります。つまり、神さまがこの土地をくれると我々に約束したのだから、そこに入って行くんだ。それを邪魔する人間たちを殺すのは、神の名においてOKなんだ、という論理がはっきりと現われているのです。

 『ヨシュア記』には、例えばエリコという町を滅ぼしたときのことが、以下のように書かれています。私たちのイメージからすると、聖書にこういうことが書いてあるというのは驚くべきことですが。

 「角笛が鳴り渡ると、民は鬨(とき)の声をあげた。……。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに到るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(六・二〇-二一)。

 神の名において、こういうことが行われる、という思想が、『旧約聖書』――それはまずユダヤ教の聖典でもあるわけですが――の中に、一ヵ所や二ヵ所ではなく、あちこちに書いてあるのです。

 私はキリスト教絶対主義的な立場にいたときには、「聖書にどうしてこんなこと――戦争=殺人を認めるようなことが書いてあるんだろう?」と、疑問で疑問でなりませんでした。キリスト教絶対主義の立場を離れて、諸宗教をできるだけ公平に見るという立場に変わっていったとき、これはもともとユダヤ教にある思想で、キリスト教もそれを引き継いでしまっていることに気づいたわけです。

 それからイスラムはご存じのように、通称マホメット――より正確な発音はムハンマッドのようですが――が創始者ですが、もともと彼は商人の出身で、やがてある部族の代表になり、そういう意味でいうと政治的・経済的・軍事的指導者だったわけです。もともとの出身地のメッカから追い出され、もう一度メッカの町に戻っていくときには、まさに戦争を行なって、戦争に勝利して、メッカに凱旋しています。そのことからもわかるように、イスラムにももちろん聖戦思想があります。

 しかし元に戻ると、聖戦思想のオリジナルは、まずユダヤ教にあります。それからキリスト教も引き継いでいる。それからイスラムも引き継いでいるのです。この三つの宗教が、例えばパレスチナという場所でお互いに、神の名において自分たちは正しいのだ、と自己絶対化をしながらトラブルを起こすと、収拾のつけようがありません。

 そういう聖戦思想の論理でタリバンの人たちは、ユダヤ教国イスラエルを支援するキリスト教国アメリカに対しても、はっきり「イスラム教とキリスト教の戦い」というふうに自己主張をしています。

 アメリカのブッシュ大統領も最初、「これは善と悪との戦いである」という反応をしました。あれは明らかにプロテスタント原理主義的な発言である、と私は考えています。聞いたところでは、ブッシュさん自体、非常にファンダメンタルな、つまり原理主義的なキリスト教のクリスチャンであるようです。そのあとで、「十字軍」という失言もしました。これではまずい、というブレーンたちのアドバイスがたぶんあったのだと思うのですが、最近は建て前上は「これはイスラムに対する戦いでもなければ、アラブに対する戦いでもない」と、やっと少し頭の冷えた発言をするようになったので、私もいくらかホッとしています。しかし、本音は依然として善と悪との戦い、つまり、キリスト教的善とイスラム的悪との戦い、と思っているのではないかと思われてなりません。

 キリスト教の建前としてのイエスの言葉

 こういうことに関して、そういう聖戦を自己肯定するような論理がもともと宗教の本質なのだろうか、キリスト教の本質なのだろうか、というところを、原点だけ、どこまでも原則論ですが、考えてみたいと思います。

 原則論がどこまで貫かれるかは、一人ひとりのクリスチャンのいわば良心と国の状況しだいであって、もっとも本質的な原則論がいつも貫かれるとは限らず、それどころか実際のキリスト教の歴史を見ていくと、原則論が貫かれない場合のほうが多かったといってもいいようです。

 しかし、そこで皆さんにぜひ考えてほしいのは、現象としてのさまざまなトラブルを起こすものとしてしばしば自己絶対化するような宗教と、同じ名前がくっついていながらその宗教の中に含まれている普遍的な真理性をもった原則と、どちらがより宗教の本質か、ということです。

 それをどう捉えるかは皆さんにお任せしたいと思いますが、私は社会現象として実際には聖戦のところまで走ってしまうようなユダヤ教やキリスト教やイスラム教が、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の本質ではない、と捉えています。そしてそれぞれどの宗教の中にも、世界の普遍的な平和に向かう志向というか、その原理というか、それはあると私には読めます。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つにわたって述べていると時間がありませんので、キリスト教の原則論のところだけ、皆さんが十分ご存じのところですが、状況が状況ですので再確認しておきたいと思います。

 キリスト教の何よりもの建て前は――建て前というと、建て前と本音のどちらが本当かという話にもなるのですが、私は建て前というのは人生でとても大事なものだと思っています――やはり教祖(神学的に救い主と言わないで、宗教学的に教祖と言っておきます)イエスが言ったこと、行なったこと、これがキリスト教の最高の建て前です。

 聖書の中にいろいろなことが書いてあります。『ヨシュア記』のようなことも書いてあります。しかしキリスト教がキリスト教であるためには、イエスの言葉を原点にしなければなりません。これが絶対的な建て前であるはずです。そのイエスがなんといっているか。

 「あなたがたも聞いているとおり、目には目を、歯には歯を、と命じられている」。やられたらやりかえせ、が常識だというのです。「しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書五・三八-三九)。

 こんなことを国際政治のなかで実行できるかどうかという社会政策論の問題があります。しかし、キリスト教国がほんとうにキリスト教国であろうとするのならば、この建て前を守ってほしい。例えばブッシュさんも大統領就任のときに聖書を手において誓ったわけです。だからこそ、私はこの建て前を守ってほしいと思うわけです。皆さんはどうでしょうか。

 これは、本来できるとかできないの問題ではないはずだ、という気がします。できないのだったらキリスト教徒をやめたほうがいい。キリスト教徒であるのならば、教祖の言葉に忠実であるということを、リーダーであればあるだけやらなければいけない、やってほしい。私なんかがいってもなかなか大統領のところまでは届かないとは思いますが、もし私がキリスト教という立場にいて、それに忠実であるならば、いかなる状況にあってもこの原則論は貫きたいと考えます。

 これまたよく、「あなたが、もし大統領だったらどうしますか?」と問われますが、私は、法的な意味での処罰は徹底的にやることを宣言したうえで、しかし国民に向かっては「我々の多くはクリスチャンなのではないでしょうか。イエスはどう言っているでしょうか。いま報復すべきときでしょうか。報復は報復をもたらすだけです。だからいま我々はこの痛みに耐えましょう」と、メッセージを送りたいと思います。今からでも遅くない、ブッシュさんにもそうして欲しいのですが、残念ながら、そうはいかないでしょうね。

 イエスの言葉に戻りますと、「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し敵を憎めと命じられている。しかし私はあなたに言っておく」――イエスはそういっています――「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(五・四三-四四)と。

 これをやれれば、アメリカはほんとうに二一世紀の世界のリーダーになる資格があるのです。これをやってくれたら……です。それができないのなら、リーダー面するのはやめてほしい、と思います。

 日本は「和」の国

 それから少し脱線しますが、日本という国は平和憲法の国です。平和憲法の国に戦後になっただけではなく、じつは日本の初めての憲法はすでに聖徳太子の『十七条憲法』というかたちで制定されて千四百年近い歴史をもっています。その聖徳太子憲法の第一条には「和を以て貴しとなす」という言葉が記されています。千数百年来、日本国の理想は平和です。小泉さんには、その日本の首相の行動と発言としては、非常にお寒いもの、寂しいものを感じてしまいます。

 日本も「アメリカと友だちです」とか「自衛隊を派遣します」とかいっていますが、その前にきちんとブッシュさんに、「あなたはクリスチャンなんじゃないですか? あなたの国は、基本的にキリスト教徒が圧倒的に多い、ある種のキリスト教国なんじゃないですか? だったら、その建て前をきちんと重んじたほうがいいんじゃないでしょうか。我が国は和の国ですから、私はその建前を重んじます」と、忠告するのがほんとうの友だちだと思います。いちばん大事なときに付和雷同するのは友だちではありません。やってはいけないことをやっている友だちを止めるのが友だちではないでしょうか。

 もっとも、いまの日本の友だち感覚は、友だちがどんな倫理的に悪いことをやっていても、その人その人だから、といって止めないのが友だちのようです。悪いことをやっていたら止めるのが友だちだ、と私は思うのですが、どうでしょう。日本がアメリカの友だちならば、やっぱり止めるべきです。しかもアメリカはキリスト教国です。

 日本もアメリカも、みずからの原点のところからもう一度考え直してほしい。建て前はとても大事だ、というのはそういう意味です。

 自己絶対化を超える原理

 元に戻って、敵を許すなどということがほんとうに成り立つための根拠というもの、つまり争いをやめる根拠はなんでしょうか。ユダヤ教が自分の宗教を絶対と信じ、キリスト教が自分の宗教を絶対と信じ、イスラムも自己絶対化する……と、これでは平和がやってくるわけはないのです。しかし、そういう宗教の自己絶対化を超えてゆくものが、宗教自体のなかに含まれています。キリスト教の場合は、イエスのなかにその原点がはっきりと出てきています。それを示す言葉が次のところです。

 つまり、報復をしない、敵を愛することが可能になる思想的・宗教的原点は、「あなたがたの天の父の子となるためである」(五・四五)というところにあるのです。

 私ははっきりと言ってしまって、白い鬚の光輝く超能力のおじいさんがどこか高いところにいて六日間で天地を創造したなどということは、これっぽっちも信じてはいません。しかしながら、我々が生きているこの宇宙を生成させた――科学の用語では創発、イマージといいます――大きな何かの力というものはある、と認めざるをえない。それは、たんに宗教的にではなく、科学的にも哲学的にも、きわめて合理的に認めざるをえない、と考えています(これに納得していただくには、私の本をしっかり読んでいただけると幸いです)。

 そういう普遍的な、いわば宇宙の原理を「神」と呼ぶのだと認識し直すと、それに対する直観と認識は、ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にも、もちろん仏教にもあるのです。
 イエスは、それを「天の父」という言い方をしています。自らを超えた、すべてを覆う全体者……哲学的には「全体」という言い方をしてもいいと思います。科学的には、物理的な次元だけではなくてそれを含みながら超えている、「コスモス・宇宙」といってもいいと思います。その全体者やコスモスのなかに包まれた部分、あるいは宇宙の一部としての我々は、それにふさわしく生きなければならない。つまり、ここに普遍的原理がはっきりと示されています。

 そういう宇宙的な原理というか神は――ここはとても大事です――「悪人にも善人にも太陽を昇らせる」のです。この場合の「悪人」「善人」とは、たんに法律的・倫理的な善人・悪人だけでなく、宗教的に信じる人と信じない人という区別がされているときの「悪人」と「善人」です。もっとはっきりしているのは、正しい者、正しくない者というのはユダヤ教の律法を守る人、守らない人という意味です。

 ところが、神というのは、そういうふうな宗教的な意味まで含んだ善人にも悪人にも、正しい人にも正しくない人にも、同じように太陽を昇らせて雨を降らせる。つまり、事実として、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも太陽は昇るのです。同じように雨が降るのです。

 私たちは、毎日毎日生きている。この生きていることはエネルギー活動であり、私たちが生きているということは一〇〇パーセント太陽エネルギーで生きているということです。ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も。

 それから私たちの身体は約七〇パーセントが水でできているそうですが、この七〇パーセントの水はまさに雨の恵みです。この雨の恵みは、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも注いでいるのです。

 そういうふうに私たちは、みんな等しく宇宙のいわば一部であり、そういう意味での神の子であり、そういう意味で太陽の恵みを誰一人例外なく受けています。水の恵みを誰一人例外なく受けている。そこに普遍的原理があると思います。そこに、あらゆる宗教とイデオロギーを超えて人類が結びつきうる、あるいは結びつかなければならない原点があると思います。そういうふうな、すべての人が連帯しなければならない原理を、イエスははっきりとつかんでいます。だから、目先は敵に見える人も同じ宇宙の子、神の子だから愛さなければいけない、というのです。

 攻撃をしかけてくるのは、ほんとうはお互いに神の子だとわかってないからです。誤解に基づいてやっているわけです。それに対して、その誤解をきちんと解くべく、誤解させた自分の側の原因もなくすべく、努力をする必要があるのであって、仕返しをすることは、その人と自分との人間としての普遍的な連帯を破壊するだけです。

 もう一度いいますと、人間がすべて一つに連帯しなければならない、いわば宇宙的根拠ははっきりとあります。みんなが同じ太陽エネルギーをもらって、みんなが同じ水を身体の七〇パーセント持っていて(じつは身体のなかの元素はみんな同じです)、それどころか生物学的にいうと、私たち人類はたぶん同じ一人のミトコンドリア・イヴという女性から生まれたのではないかという学説もあったり、いま地上に存在するたぶん二五〇〇万種くらいの生物はすべて四十億年くらい前に発生したたった一つの命から枝分かれし、進化して、多様な生命になっているといわれます。これが、生物学のほぼ定説のようです。そういった科学的な見地からいっても、いわば人類はもともと一つなのです。もともと一つなんだ、ということをしっかり認識し直したら、これは連帯せざるをえないのです。しなきゃいけないのです。

 閉じる宗教から開く宗教へ

 しかし、古代的・神話的な、自己閉鎖性をもった宗教のなかでは、その気づきと、自己絶対化の傾向が両方併存しています。これを私は宗教学的には、「閉じる宗教」と「開く宗教」〔あるいは「霊性」〕と呼んでいます。ほとんどの宗教のなかに、同じ「宗教」という名前がついたもののなかに、自己絶対化し閉ざしていく宗教と、それから人類の普遍的なつながりあいに向かって開いていく宗教の要素が併存・混在しています。

 二一世紀初頭にいる私たちは、閉じる宗教はもうやめにしましょう。しかしながら、開く宗教は、まさにそれがないと、そこへの気づきがないと、人類が平和にやっていく原理が見つかりませんから、あらゆる宗教のなかに「開く宗教・霊性」を発見しながら、「あなたのところにもあるんだね、私のところにもあります。あ、あなたのところにもあるんだね」という確認をしながら……それぞれの個性を捨てる必要はありませんが、しかしそれぞれの個性のなかから普遍性に向かって開いていくところをしっかりとつかむ、というふうに私たちはありたいと思います。

 そういう意味で私は、イエスの原点に全面的に合意するという意味ではキリスト教をやめていないのですが、閉ざす宗教、ましてや聖戦思想に走るような宗教としてのキリスト教からは全面的に離脱しています。

 イエスの原点に忠実な存在という意味なら、キリスト教徒という立場は私は捨てていません。みなさんも特定洗礼を受けているかどうかは別に、たぶん心の底にまったく同じ願いを共通に持っているだろうと信じますので、そういう私の願いとみんなの願いを象徴的に、宇宙に向かって、あるいは自然に向かって、神に向かってでも仏に向かってでも、言葉はどうでもいいのです、自らを超えた大いなる者、何者かに向かって、我々の願いを捧げるという意味での祈りを、一言だけご一緒したいと思います。

 祈り

 「天と地との、すべてのものの、創造主である父なる神よ、いま世界のなかであなたの子どもたちがまったく無駄な争いをしています。どんなに無駄な争いであるかを、一人ひとりにあなたが教えてくださいますように。そして、あなたの愛と平和への教えさとしを私たちがみずからのものとし、また多くの人のものとすべく、日々を精進することができますように。一日も早く世界全体に豊かさと平和とがやってきますように。あなたがお力をお与えください。そして、私たちが努力を続けられるよう励ましてください……」

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原理主義に未来はない

2015年02月05日 | 仏教・宗教

 長い間宗教や霊性について社会的発言をしてきた者として、読者の心のなかに「イスラム原理主義者によるテロ事件が頻発し、多くの犠牲者が出ている状況に対して、岡野はどう思っているのか、発言をしないのか」という問いが潜在しているのではないか、と感じており、何かお答えしなければならないのではないか、と思っていました。

 その前にまず、犠牲者の関係者の皆様に心からお悔やみを申し上げ、亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います。

 ここのところずっと、何を言うべきかと考えていたのですが、ふと、もう20年も前、1995年に書いた「〈宗教〉に未来はない」という文章(『コスモロジーの創造』2000年、法蔵館、所収)を思い出して読み返し、ほぼこれに尽きると思ったので、以下、抜粋して再掲することにしました。

 ただ、そこで使った〈宗教〉という言葉はより正確に〈原理主義的宗教〉〈原理主義〉と言い換えて読んでいただきたいと思います(ところどころ〔 〕で補います)。


 〔原理主義的〕〈宗教〉に未来はない

 「宗教に未来はない」、しかし「近代主義にも未来はない」、未来は「宗教から霊性へ」という方向にあると、公的な場でものを書き始めて以来、基本的にはずっとおなじことばかり繰り返してきた(たとえば、『トランスパーソナル心理学』1990年、青土社、吉福伸逸氏との対談『テーマは〈意識の変容〉』1992年、春秋社、など)。……


  なぜ「〈宗教〉に未来はない」か


 〈宗教〉の定義

 まず明確にしておくと、未来がないという〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での「信仰」と「服従」を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。……これには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。

 自己絶対視と敵意

 何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。

 自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。

 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。

 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。

 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。

 それが「宗教」だけではなくすべてのイデオロギーに秘められた心情の問題である……「絶対に正しい我々が、絶対にまちがったあいつらを改宗させるか、さもなければ全滅させることによって、正しい、すばらしいユートピアがやってくる」(かつて埴谷雄高がいった言葉を借りれば「あいつは敵だあいつを殺せ」)というタイプの思考システムと、それが生み出す心情は、程度の差はあれ必ずといっていいほど、憎悪―闘争―虐殺をもたらすがゆえに、もはや、人類の未来にとって、それこそ絶対に無効―有害である。

 その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判の言葉は、古典的でいまさらのようだが、依然として日本の市民……の大多数の常識にはなっていない、どころかほとんど知られてもいないらしいから、改めて引用しておきたい。


 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける。信ずる人は浄福であり、信じない人は不幸であり見捨てられており罰せられている。したがって、宗教は理性に訴えないで心情に訴え、また幸福に訴え、恐怖と希望との激情に訴える。宗教は理論的立場に立っていない。(邦訳下、7頁)

 ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(同、122頁)

 ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、126~127頁)


 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〔原理主義的〕〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。

 もちろん、悲しいことながら、ここ当分人類は争い続けるだろうし、争い続けながらも生き延びている間は、建て前として平和を叫びながら実際には平和をもたらせない〈宗教〉も生き延びるだろうし、そういう意味でなら、まだしばらく宗教に未来はある(それどころか、現象的には、一時、宗教紛争、宗教戦争の元になるような〔原理主義的〕宗教の勢力はかえって増大するかもしれない)。

 しかし、繰り返すが、人類規模の平和な未来の実現ということからいえば、もはや〔原理主義的〕宗教に有効・妥当性はない、と思う。


  なぜ「近代主義に未来はない」か


 近代主義とは何か

 ……人間主義+理性・科学主義+進歩主義=〈近代主義〉は、基本的に無神論的・反宗教的であり、宗教を批判し超えようとする試みであり、いわば「宗教の代案」であった。

 近代の進歩的な思想家たちは、宗教は、人間が自分自身の理性の力によって解決すべき・できる問題を、神話・観念・空想によって、心理的に慰めるだけで、かえって現実的な解決を妨げる、そういう意味では、人類の進歩にとって害のあるものだ、と批判した(典型的にはマルクスの「宗教は民衆のアヘンである」)。そして、近代の進歩的思想家たちの宗教批判には、たしかに当たっているところも少なくなかった。

 近代主義の立場からいえば、人間が、理性―科学―技術によって社会を進歩させれば、人生の問題はすべて解決できるようになるはずであり、そうなれば宗教は必要なくなる、はずだったのである。そして、それがある程度までは有効であるように見えてきたので、近代のいわゆる先進諸国の大勢を占める思想になってきたのだ。

 それについては、右であれ左であれ、欧米であれ日本であれ、進歩的な指導者や知識人たちは、いまだにそう考えているのではないだろうか。そして日本でも、明治以後のいわゆる近代化の流れの中で、近代主義は主流の思想となり、特に戦後は、ほとんど無意識的な常識にまでなっている。

 近代主義とニヒリズム―エゴイズム

 しかし私の考えでは、人類の現段階の問題としていえば、宗教だけでなく、近代主義にも未来はない。それはまず第一に、近代主義は原理的に人間の〈ニヒリズム〉―〈エゴイズム〉を克服する根拠を見失っているからである。……

 しかし、近代主義は、スタートの時点での、ヒューマニズム=人間尊重という建て前にもかかわらず、論理的な必然として、ニヒリズムーエゴイズムに到り、モラルの低下-崩壊をもたらすものであった。

 すなわち、自分を超えたもの――神とその創造した自然――に服従する存在ではなく、神を否定し、自然を操作することのできる、能力ある主体という面に視線が集中していた間はよかった。しかし、やがて自然を物質として見る視線が人間自身に向けられた時、人間も客体・対象、生物、有機体の一種、物質の組み合わせにすぎないと見られることになった。人間の心もまた、脳という物質の働きに還元して捉えられる。

 だが、もし物質の働きにすぎないとしたら、いのちや心にどんな意味がありうるというのだろうか。物質科学主義の視線によっては、人間の生の意味を見出すことはできない。そういう意味で、近代主義は、論理的必然として、ニヒリズムに到るのである。

 しかし生きている個々人にとっては、自分が、結局は物質の組み合わせにすぎないとしても、今、心をもち生きていることは事実、というか実感である。ニヒリズムという帰結を漠然と予感しながらも、なお生きているという実感をもち続けている個人は、もはや客観的な物質的自然に生きる意味の根拠を求めることはできない。

 意味がないにしても、なお生きるのは、自分の中に生きたいという心情・欲望がなぜか与えられているからで、それ以外の理由はない、ということになる。

 ところが、個人・自分の主観―心情―欲望だけが最後の物差しだとすれば、「ひとに迷惑さえかけなければ」、さらには「迷惑をかけたとしても、自分が報復を受けることがなければ」「自分のやりたいことはなんでもやっていい」ということになりかねない。近代主義には、それ以上のモラルが生まれる根拠はほとんど見出しがたいのではないだろうか。あるいは、近代主義はモラルの根拠を見失ったといったほうがいいだろう。つまり、近代主義のもたらすニヒリズムは、さらにほとんど必然的にエゴイズムに到り着くほかない。

 ……ニヒリズムとエゴイズムの悪循環を克服する原理を見出しえていないところに、人間の心の面に関する近代主義の決定的限界がある。

 近代主義と環境破壊

 さらに第二に、先に述べた環境の崩壊も、近代主義がもたらしたものだ、ともいえる。……環境破壊は、個人レベルでのエゴイズム―ニヒリズムとおなじく、近代主義的な態度の必然的な帰結であるともいえる(近代に進歩の面がないというわけではないが)。……

 加えていえば、近代は、なぜ、声高く平和を語りながら、かつてない大規模な戦争を行ない、そしていまだに戦争を廃絶しえないのだろうか。

 近代主義は、個人レベルだけでなく集団レベルでも、エゴイズムを超える原理や制度を見出しえていないということが、一つの(唯一ではないが)大きな理由なのではないだろうか。集団レベルでのエゴイズムを超えうる原理と制度を見出さないかぎり、環境破壊も戦争も、根本的な解決はできない。そういう意味でも、近代主義には未来はないと思う。

 宗教でも反宗教でもなく〈霊性〉へ

 では、自己絶対視と敵意を生み出す宗教でもなく、エゴイズムとニヒリズムを克服しえない近代主義―反宗教とも異なる、人類の未来を拓きうるような立場はあるだろうか。

 ある、それは〈霊性〉の立場である。あるいは霊性と理性の融合された立場、そういう意味でいえば、宗教と近代主義双方の問題点を十分に批判し、しかし普遍妥当な面を正確に取り出して融合した立場である、というのが私の考えである。

 〈宗教〉には、たしかに先に述べたような問題点・限界がある。しかし本来宗教の核にあったのは、人間のいのちは、どこまでも人間のいのちでありながら、人間自身が生み出したものではなく、人間を超えた、より大きなものによって生まれたものだ、という感覚だったのではないだろうか。「生きることは生かされて生きることである」「私より大きな何ものかが私を生かしている」という直感、さらに、人間だけでなく、生きているものもそうでないものも、すべてのものがより大きな全体(神、仏、自然、宇宙)に包まれているという根源的な事実への目覚めが、宗教の核にあるものだと思う。

 しかし包んでいる何か全体なるものを「神」「仏」「ブラフマン」「アラー」「道」……と呼ぶか、あるいは「自然」または「宇宙」と呼ぶかは、本質的な問題ではない。また、教祖は、それを深く直感した人間なのであり、教義・教団・儀式・修行法といったものは、その直感を他者に伝え共有するための媒介・手段にすぎず、しかもそれらは時代的・文化的に限定されていて絶対ではなく、また絶対でなくてよいものなのではないだろうか。絶対なのはそれを直感し、表現した〈宗教〉ではなく、人間を超えた「より大きな何ものか」そのものである。

 言葉の悪い意味での〈宗教〉〔つまり原理主義〕と区別するために、そうした、より大きなものを直感し、すべてのものがみなそれに包まれていることに目覚めるような人間の心の奥底の領域を、私はあえて〈霊性〉と呼んでいる。これは、もちろん誤解さえなければ、たとえば「本当の宗教」とか「宗教の本質」とか呼んでもかまわない。

 いのちの原点において、私は、私でないものとふれあい、私でないものに支えられているという事実(かつて滝沢克己がいった言葉を借りれば「インマヌエルの原事実」「人間の原点」)は、近代主義が見落としたことであるが、しかし本来理性と矛盾・対立するものではない。誰でも目を開けさえすれば見える、すべての人に共通の事実なのである。

 そして、私のいのちが、どこまでも「私」のいのちでありながら、同時にいわば「私でないものから貸し与えられ、それに支えられている」いのちであるという事実にこそ、ニヒリズムを超える原点がある。つまり、人間のいのちは人間を超えた何かから与えられたものである以上、いのちの意味もある意味ではあらかじめ与えられているといっていいだろう。いのちには、かならず可能性・能力・潜在力が与えられている。個々の人間にとっては、その与えられた意味を発見できるかどうか、つまり与えられた可能性・潜在力を実現できるかどうかだけが問題であって、意味―可能性があるかどうかは問題にならないのだ。

 そしてその事実がすべての人にとって共通の事実であるというところに、エゴイズムを超える、根源的な倫理―モラルが成立する原点があると思う。生かされて生きている私が、おなじく生かされて生きている他者に対して、それにふさわしく接するかどうかが、倫理の根源的な基準になるだろう。人類規模の平和も、そこからのみ可能になるだろう。

 さらにいえば、同じ宇宙に包まれた宇宙の一員・一部として宇宙の他の一部にどう働きかけるかという視線で見た時、自然は単なる〈資源〉ではなく、自らとつながり、私を支えてくれるもの、ある意味で私の延長、と見えてくるだろう。そのことに気づいた時、私はもはや私を破壊することはできない。環境が私と本質的につながったものであることを深く自覚した上で営まれる経済は、近代の産業主義経済の妥当な面を受け継ぎながらも、決定的に変容したものになるだろう。

 おわりに

 そのような、〔原理主義的〕宗教の限界と近代主義の限界を超える〈霊性〉の自覚は、現在のところ残念ながら、日本の市民の大多数が共有するものにはなっていない。そういう意味で、既成・新・新新の宗教も近代主義―反宗教も含めて、私たちの文化―精神性はまだきわめて未熟だと思う。しかし、私たちがもはや〔原理主義的〕〈宗教〉をまったく必要としないほど〈霊性〉的に成熟した未来を思い描くことは、決して根拠のない願望ではない、とも思うのである。


コスモロジーの創造―禅・唯識・トランス・パーソナル
クリエーター情報なし
法蔵館



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徳島での講演会 お知らせ

2014年05月21日 | 仏教・宗教

 昨年秋から徳島の真言宗の方とご縁があり、今年は講演会に招いていただきました。

 「弘法大師御誕生青葉まつり大講演会」とのこと、大変光栄です。

 「いい人生のヒント――仏教の心理学・唯識に学ぶ」というタイトルです。

 これまで唯識の話を聞いていただく機会のあまりなかった徳島のみなさん、そして四国、西日本のみなさん、参加無料ですから、どうぞお気軽にお出かけください。





 ちらしの文字が小さいので、念のため。

 日時:平成26年6月14日(土)午後1時30分より

 会場:とくぎんトモニプラザ(徳島県青少年センター)3階大会議室(徳島市城之内)

 主催:徳島県真言宗不二会(TEL.088-668-0530 圓福寺内)

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いつでもいい季節

2014年03月30日 | 仏教・宗教

 我が家のお隣りさんの畑は今菜の花が満開です。

 その菜の花の向こうを琴電が通ります。

 じつにのどかな風景です。





 菜の花の手前にはまるで植えた花のようにホトケノザも花盛りです。




 庭の隅にはスズランスイセンも咲き始めました。




 これからいろいろな花が咲いてくるのが楽しみないい季節です。


 『無門関』の言葉を思い出しました。


 春に百花有り、秋に月有り、

 夏に涼風有り、冬に雪有り、

 若し閑事(かんじ)の心頭(しんとう)に挂(か)くる無くんば
 (もしよけいなことが心にかかっていなければ)
 
 便ち是れ人間(じんかんの)の好時節(こうじせつ)
 (いつでも今こそが人生のいい季節である)
 
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講座「ブッダは何を伝えたかったか?」 参考文献4

2014年03月05日 | 仏教・宗教

 高松での「ブッダは何を伝えたかったか?」の講座は終了したのですが、さらに学んでいただくための参考文献として、もう一冊ぜひ挙げておきたいものがあります。

 それは、1968年に開始された「仏教の思想」というシリーズの第一巻、増谷文雄・梅原猛『智慧と慈悲〈ブッダ〉』(角川書店、現在は角川文庫になっている)です。

 そのはしがきで、梅原猛氏は次のように言っておられました。


 今、世界を救う思想ありや否や。ヨーロッパ思想の中で、そのまま戦争を避け、平和を守り、人類を物質的にも精神的にも、幸福に暮らさせる思想ありや否や。この問いをまじめに問うとき、悲観的な答えが返ってくる。ヨーロッパには、少なくとも現代そのような思想はない。しかしそのような思想がなかったら、世界は破滅し、人類は滅びるかもしれない。そういう思想の創造に、非ヨーロッパ世界の思想、特にその中でもヨーロッパ思想とともに、もっとも洗練された思想である仏教は、寄与することができはしないか。

 このような問いは、今わられ東洋人が人類のために問われねばならぬもっとも重い問いである。このような問いに、われらが全面的に答えるには、われらの力はあまりに弱い。他日この問いが深まり、その答えが生まれてくるための思想的準備に、この全集が役立てば望外の幸せだ。このヘラクレス的仕事を、われらは分業により成就しようとした。仏教学者と哲学者の分業である。仏教学者は、その精密正確なる知識を生かし、哲学者はその奔放大胆なる思弁を働かし、対話を通じて、仏教の思想を明らかにしようとしたのである。

 この第一巻は釈迦の思想である。……

 仏教の思想が、かつてのように全国民のものになるべきときが今ふたたび来ているのである。


 筆者がこのシリーズの存在を知ったのは、12巻のシリーズが完結してしばらくして、友人の本棚に揃っているのを見た時でした。

 ちょうど中心的な関心がキリスト教から仏教へと移っている時でしたから、私も欲しいと思いました。

 しかし、当時、貧乏学生だった私には自分で揃えるのはきついので、少し無理やりに1冊、2冊と借りて読み始めたものです。

その友人は、本棚を全集本できれいに揃えるのが好きな愛書家で、本棚に空きができるのを嫌がっていたのはよく知っていたのですが(いまさらながら申し訳ない)。

 当時、鈴木大拙先生や西谷啓治先生の著作の影響が強く、ややいわば〈禅原理主義〉的な傾向があった筆者には、「体験に基づいた覚りに関する叙述が不十分だ」などと生意気にも物足りないという感じがしました。今からすると、まったくの若気の至りです。

 読み返してみると、梅原猛氏の意気込みと読み込み、増谷文雄氏の単なる文献研究にとどまらない実存的解釈は、今でも読まれるに価するものです。

 第三部の「仏教の現代的意義」で梅原氏の言っておられた以下の言葉は、まだそのまま日本の思想・文化状況に当てはまるものだと思います。


 …今や仏教は重要な思想的意味をになっているのに、まだ仏教は、わが国の多くのひとびとに、あまりにも知られていない。仏教の思想の中には、多くの宝が隠されているのに、その宝について、わが国のひとびとは、まったく無知なのであります。もしも、この全集に執筆していられる多くの先生方が、未発掘の宝石を見いだす真理の坑夫であるならば、その宝石を、日本の多くのひとびとに伝える宝石の展覧人が必要なのではないでしょうか。


 高松の講座参加者のみなさんには、「羽矢先生のものに続いてもう一冊だけ読むとしたら、これです」とご推薦申し上げました。



知恵と慈悲「ブッダ」―仏教の思想〈1〉 (角川文庫ソフィア)
クリエーター情報なし
角川書店


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講座「ブッダは何を伝えたかったか?」 参考文献3

2014年02月27日 | 仏教・宗教
 3月2日の高松集中講座のテキストの準備に、一日近く費やしました。

 残りの時間で、参考文献として故玉城康四郎先生(1915-1999)のものを2冊紹介しておきます。

 玉城先生のお書きになったものには、学問的に正確な文献的研究と同時に深い冥想体験の裏づけが感じられ、多くの示唆を得てきました。

 決して理解しやすい、読みやすい文章ではありませんが、そこには確かなことが語られていると感じさせられます。

 その雰囲気のよく感じられる文章を引用しておきます。
 
 
 入息出念定とは何か。それは、呼吸を調えることに専念することではあるが、単にそれだけにとどまらない。肺に出入りする生理的な呼吸が調えられていくにつれて、精神も身体も呼吸に従うようになって、呼吸自体が生命的となり、さらに深まり統一されて、精神も身体も全人格体が一体となり、全人格そのものが息づいていく。そしてついには、呼吸も自己も忘却のうちに融けていくのである。生理的な呼吸から生気的な呼吸へ、生気的な呼吸から全人格的な呼吸へ、そして呼吸も自己も人格体も、すべてが冥想そのものとなっていくのである。/ゴータマは、これこそ解脱の道であると決定したのである。(『仏教の思想1 原始仏教』法蔵館、p.30)

 ゴータマはついに解脱に達したのである。解脱に達したということは、ゴータマからブッダに転換したということである。ゴータマに転換したということは、ダンマが人格体に顕わになり、浸透し、通徹したということである。(p.33)

 ……ここにいうダンマは、もっとも根源的なものであり、ダンマとしかいいようのないものである。経典はこれについて何らの説明もつけていない。つけようがないからである。つまり、自己自身に顕わになって初めて、なるほどとうなずかれうるものだからである。強いて説明をつけるとすれば、まったく形のないいのちの中のいのち、純乎として純なる純粋生命というほかはないだろう。なぜそういうかというならば、それが自己に顕わになるとき、自己そのものが形なき世界へと、そして純乎として純なる境位へと、果てしなく開かれていくからである。(p.32)

 無限の過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ輪廻転生して、いま、ここに現われている存在の統括体にこそ、形なき純粋生命が顕わになるとき、初めて人間自体の根本的転換、すなわち目覚めが実現する (p.43)
 


仏教の思想〈1〉原始仏教 (1985年)
クリエーター情報なし
法蔵館



新しい仏教の探求―ダンマに生きる
クリエーター情報なし
大蔵出版

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講座「ブッダは何を伝えたかったか?」 参考文献2

2014年02月26日 | 仏教・宗教
 日本における、それだけなく世界における、インド学仏教学的なブッダ研究の代表的な存在が故中村元先生(1912-1999)であったことは言うまでもありません。

 したがって、ブッダを論じる上では、中村先生のものは必ず参照すべきでしょう。

 きわめて多数ある著書の中でも、一般読書人が気軽に読めるものは『釈尊の生涯』(平凡社ライブラリー)です。

 本格的に読むとなったら、何と言っても著作集の中に入っている大著『ゴータマ・ブッダ』(春秋社)です。

 ただ、肝腎のブッダは何を覚ったかという点についての中村先生のお考えは、以下の引用のとおりで(一行空きは筆者)、どの本を読んでも、正直もう少しご自分の覚りについての解釈をちゃんと言葉で説明できるところまでは説明してほしいという思いが残ります。

 その点、羽矢氏のものと、中村先生に近い世代の仏教学者としては故玉城康四郎先生のものは(これも時間があったら次にご紹介しますが)、ご自分の理解でちゃんと説明しておられて、なるほどと思わされます。

 といってももちろん、文献学・歴史学的に正確に理解しようとするのなら、やはり中村先生の業績を踏まえるところから出発する必要があると思います。



 …悟りの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれがほんとうなのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマのえた悟りは、不安定、曖昧模糊たるものであろうか? 仏教の教えは確立していなかったのだろうか?

 まさにそのとおりである。釈尊の悟りの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。

 まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定式化して説くことをせず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だから彼の悟りの内容を推し量る人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。

 第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このように悟りの内容が種々異なって伝えられているにもかかわら、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。それは実践的存在としての人間の理法(ダルマ)を体得しようとする。前掲の長々しい四禅の説明も結局はここに帰着する。説明が現代人から見ていかに長たらしく冗長なものとして映ずるにしても、成心を離れて人間のすがたをあるがままに見ようとした最初期の仏教の立場は尊重されるべきである。

 第3人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限な発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。過去の人類の思想史において、宗教はしばしば進歩を阻害するものとなった。しかし右の立場は進歩を阻害することがない。仏教諸国において宗教と合理主義、あるいは宗教と科学との対立衝突がほとんど見られなかったのは、最初期の右の立場に由来するのであると考えられる。(『釈尊の生涯』p.126-7)




釈尊の生涯 (平凡社ライブラリー)
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平凡社



ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I 決定版 中村元選集 第11巻
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春秋社

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講座「ブッダは何を伝えたかったか?」 参考文献1

2014年02月25日 | 仏教・宗教

 3月2日(日)13時半~16時半、高松の集中講座で、「ブッダは何を伝えたかったか?」という話をします。

 〈唯識心理学〉は、大乗仏教の唯識思想の核と西欧の心理学と(そして現代科学のコスモロジー)の統合を目指す、サングラハ教育・心理研究所独自のプログラムです。

 大乗仏教の思想を核としているわけですから、本格的に学ぶためには、さらに基礎の基礎として、仏教の原点であるゴータマ・ブッダが何を覚りそれをどう語ったのかを知っておくといいということは、言うまでもありません。

 そういうわけで、東京ではすでにお話ししてきましたが、高松の講座はまだ始まって間もないので、唯識入門の前に、3月にブッダ入門のお話をすることにしました(5月には続いて空思想入門です)。

 筆者はブッダ研究の専門家ではありませんので、自分の解釈がインド学仏教学の専門的な目から見てまちがっていないかどうか、ゴータマ・ブッダ研究の専門家で友人の青森公立大学の羽矢辰夫氏に確認を取ってきました。

 その結果、羽矢氏の専門的な研究による解釈と私の解釈は非常によく一致していることを確認しています。

 したがって、ブッダの教えについて知識として専門家から正確に学ぶという意味では、以下の羽矢氏の著作をすべて読んでいただければ十分とも言えます。

 ただ、読んで学ぶのと聞いて学ぶのでは、心の深いところ・アーラヤ識に染み込む・熏習されるものが違うということがあります。

 心の深いところにまで染み込ませ、自分のものの見方を変えていくためには、読むだけでなく、聞いて読む、読んで聞くという作業・修行を並行していただくといいのです。

 また、もちろん筆者のブッダの話には〈唯識心理学〉を本格的に学んで自分のものにしていただくための前提・基礎という別の意味があるわけです。

 ブッダ理解の参考にさせていただいた文献は他にもたくさんありますが、研究の信頼度、理解の深さ、にもかかわらず明快で読みやすい文体という点で、まず第一には羽矢氏のものをお勧めします。

 以後、時間があったら、もう若干ご紹介したいと思っています。


ゴータマ・ブッダ
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春秋社



ゴータマ・ブッダの仏教
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春秋社



ゴータマ・ブッダのメッセージ―『スッタニパータ』私抄
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大蔵出版



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東京集中講座の帰り

2014年02月17日 | 仏教・宗教
土日の講座が終わりました。今回も充実していました。

記録的な大雪だったので、土曜日の唯識講座はごく少人数だろうと思っていましたが、嬉しい誤算で、ほとんど出席でした。

皆さんの熱意に脱帽でした。
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仏教心理学会で思ったこと

2013年12月29日 | 仏教・宗教

 遅くなったが、今月15日の日本仏教心理学会の大会に出席した感想の報告を少しだけしておきたい。

 今回は、アメリカ・ニューヨークでヴィパッサナー瞑想と心理療法(精神分析)を統合したかたちでセラピーを実践しているマーク・エプスタイン氏の大会講演が興味深かった。

 講演は、準備のために読んだ氏の『ブッダのサイコセラピー――心理療法と“空”の出会い』(学会副会長の井上ウィマラ氏の訳、春秋社)のダイジェスト的なもので、もちろん著者の顔を見ながら直に聞くということには読むのと違うインパクトがあるものだが、内容に関しては読んだ時とほぼおなじ感想を持った。

 その一つは、ある程度知ってはいたが、アメリカのセラピストたちはここまでみごとにヴィパッサナーさらにはテーラーヴァーダ仏教を吸収‐統合しているのだなあ、と改めて感心したということである。

 すでに何人もの論者が指摘しているところだが、インド仏教、中国仏教、韓国仏教、チベット仏教、東南アジア仏教、日本仏教…などに並んで、それらのエッセンスと心理学の成果を吸収した新しい「アメリカ仏教」がすでに確立しつつあり、このままの勢いだと、アメリカ仏教はそれ以前の仏教を追い越していく、つまり「含んで超えていく」ことになるかもしれない、と感じた(それは仏教の本場のつもりだった日本人として若干悔しいという気もしないではないが、それはそれである種歴史の必然かなとも思う)。

 二つ目は、それにしてもアメリカの、特に都市部の人々が置かれている疎外・孤独の状況はきわめて深刻だということである。
 もちろん伝統的な共同体はもはや存在せず、家庭も十分に機能しない中で、幼少期の子どもは特別虐待されたというほどのことはなくとも、エプスタイン氏があえて「トラウマ」と呼ぶほど後まで残りパーソナリティ形成に問題をもたらすような疎外・孤独体験をすることが少なくないらしい。

 これは、すでに日本でも都市部では進行している事態で、典型的には例えば東京ではもうニューヨーク並みの人間疎外が起こっていると思われるので、エプスタイン氏のようなアプローチは日本でもこれからますます必要になるだろうと思われる。
 日本の仏教者、セラピストがこれ以上遅れを取らないことを切に祈りたい。

 それにしても、学生時代・六〇年代終わりに、パッペンハイム『近代人の疎外』(当時は岩波新書、現在岩波同時代ライブラリー)を読んで、「西洋人はたいへんだなあ」と思っていたことを思い出すが、それは今日本のことにもなっている。つまり、それはやや一般化して言えば、近代化のマイナス面が極限に達しつつあるということだ。

 三つ目は、前から感じていることで、今後文献をより多くしっかり読んでから確かめていきたいことだが、テーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナー瞑想では、ブッダの教えの中でも「無常」を強すぎるのではないかと思うほど強調し、しかしそれをしっかりと見つめることによってある意味で超えることを目指しているようだが、すべてのもののつながり‐一体性、つまり「縁起」と「一如」についてはほとんど語らないようで、それはあるがままの世界の認識として、さらに現代人のための仏教の語り方として不十分なのではないか、ということである。

 というのは、自分とすべてのものそして宇宙とのつながり‐一体性への目覚めは孤独感や疎外感を根本的に払拭するものであり、無常への気づきよりもいっそう深い癒しをもたらすと思われるので、臨床的にも無常より縁起を強調するほうが適切なのではないか、と私は考えているからだ(コスモス・セラピーの記事等参照)。

 エプスタイン氏にそういう疑問をぶつけたら、「それは大乗仏教ですね」という返事が返ってきた。時間がなかったので、その言葉の深い意味を尋ねることができなかったが、「私にはテーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナー瞑想で十分です」という意味にも聞こえた。

 もしそうだとしたら、仏教の現代的有効性という点で、それでいいのだろうか、とつっこんで議論してみたかったが……。

 しかし、そういう疑問はあるにしても、ヴィパッサナー瞑想法の心理療法的な効果・有効性については、すでにかなり十分な科学的なエヴィデンス(証明・証拠)のある研究がなされているようだから、今後、もう少しちゃんと学んだほうがいいな、と思わされた。

 今回の学会は、私が長年テーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナーについて持っていたある種の偏見も伴っていると思われる印象的評価を少し検討しなおし、ちゃんと学んでからもう一度評価しなければならないな、と思うきっかけになったという意味で、私には大きな成果があった。

 以下はどうでもいい蛇足なのだが、孔子の有名な「我十有五にして学に志し……六十にして耳順(したが)う」という言葉にあるように、この頃、私もようやく他者の主張にじっくり耳を傾けられる歳になったのかな、と感じている。唯識的にいえば、マナ識がようやくやや浄化され柔軟になりつつあるということだろうか。

 孔子から五、六年遅れているのは、相手は世界史的賢者でありこちらは並みの修行者ということで、十分大目に見てもらっていい遅れなのではないだろうか。

 最近、割に素直に他者から教えてもらえるようになったのは、人間的成長ということもともかく、自分の学びにとってとても有利なことで、もっと早く素直になればよかったと思わないでもないが、素直になれなかった、だけでなくあえてならなかったのは、それなりの――さまざまな分野の「主流」や時々の「流行」へのプロテストという――理由のあった自分の歴史なので、それもそれでよかったと思っている。


ブッダのサイコセラピー―心理療法と“空”の出会い
クリエーター情報なし
春秋社



近代人の疎外 (同時代ライブラリー)
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岩波書店



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