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菩薩の32の特徴1:唯識のことば13

2017年02月07日 | 仏教・宗教

 唯識は、大乗の菩薩のための学です。

 「菩薩だけのために説き、凡夫に対しては説かない」とはっきり言われています。

 では、凡夫=平均的な人間と菩薩=覚りを求めている人間は、どこがちがうのでしょう。

 『摂大乗論』では、菩薩には三十二の特徴があるといわれています。

 一度では学びきれませんから、今回は最初の八項目をあげました。


「もし菩薩が三十二の特徴を持っているならば、菩薩と呼ぶことができる」。

  ①「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志を持っている」とは、一切智者の智慧に導き入れる意志、すなわち伝えていくことを行ずるというカルマである。

  ②「私は今、どのような境地でこのような智慧に対応するべきだろうか」。すなわち転倒のないカルマによってである。

  ③「高慢な心を捨てる」とは、すなわち他者に頼まれることを待たず、自ら実行するカルマである。

  ④「堅固な善意」とは、すなわち壊しえないカルマである。」

  ⑤「かりそめに憐れむのではない意志」とは、すなわち求めるところのないカルマである。

  ⑥「恩がえしを欲しがらない」。」

  ⑦「親しい者と親しくない者とに平等な意志」とは、すなわち恩のあるのと恩のないのとの衆生に対して愛着と憎悪の心を起こさないことである。

  ⑧「永遠に善き友となるという意志が無余涅槃に到る」とは、すなわち誠実にかたわらにあって行為し、次の生にまで到ることである。

                  (摂大乗論現代語訳一〇三~四頁)


 読んで味わうだけでも十分なことばですが、誤解しがちなポイントについて、少しだけ解説をしておきます。

 これらの特徴は、常識的に見ると、「たしかに立派だが、並の人間にはとてもできそうもない高すぎる理想」と思えるという点です。

 しかしまさにそこがポイントですが、菩薩とは、「自分だけで存在している自分などというものはない。自分は他者や他の物や宇宙全体とつながっていて、そのお陰で生きている。ただつながっているというより、むしろ一つなのだ」と、聞いて、考えて、納得したからこそ、修行を始めた人です。

 ですから、菩薩は、一切の衆生とは自分も含めたすべての生きとし生けるものだと、たとえ理屈だけでも知っているはずです(といっても、初心のうちはしょっちゅう忘れますが)。

 だとすると、「一切の衆生を利益し、安楽ならせたい」というのは、自分の幸福は脇において、自分と分離した他人のためにひたすら自己犠牲をするということではなく、もともと一体である自分と他者を一緒に幸福にしたいということです。

 本当の私は他者とつながっており、究極的には一つですから、私だけの幸福というのは、深い意味ではありえないし、無理な努力をして私を犠牲にして他者だけを幸福にしなければならないという話ではないのです。

 つまり「自利利他」であり、それは本当の自己のやむにやまれない、自発的な願いです。

 ここがわかれば、他も高邁だが無理な理想ではなく、深くて自然な願いだとわかると思うのですが、いかがでしょう。

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禅定と安らぎ:唯識のことば12

2017年02月06日 | 仏教・宗教

 唯識学は禅定の体験をもとに理論化されたものです。

 ですから、実際に自分でも体験しないと実感できませんし、実感できていないと十分日常生活の役に立つというわけにはいきません。

 しかし、せっかく人間は煩悩だらけの状態から爽やかな状態へと変化できるという唯識のメッセージに出会ったのですから、それを体験・実感していただけるといいと思うのです。

 そこで、実際の方法は『唯識で自分を変える』(すずき出版)などで自習か、講座に参加していただいて、自分のものにしていただきたいのですが、ここでは、『摂大乗論』の句を参考に、禅定をするとどういう心の状態になるのか、少しイメージできるように描いてみたいと思います。


 菩薩が禅定に入り
 心はただ影像のみであると洞察し
 外界という相を離れ去り
 まちがいなくただ自らの想念を見るのみであると洞察する
 菩薩は内面に止まり
 見られるものが存在しないことに悟入し
 次に見ることも空であることを洞察して
 後にその双方が妨げを超えたもの(無碍)であることを悟る

               (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 禅定を始めてある程度の時間が経ち、心が静かになり外の刺激が意識から遮断されると、内面に浮かぶ想念・イメージに注意が集中されていきます。

 それは、よく洞察すると、たしかに「外界に関する」想念なのですが、しかし「想念」であり、つまり心の内面で起こっているだけです。

 つまり「外界そのもの」ではありません。

 まちがいなくただ自分が自分の心のなかに描いた想念を見ているだけなのです。

 不思議というか面白いというか、心のなかの想念をただの想念としてじっと観察していると、しだいに静まり、消えていきます(禅定に習熟していないと、すぐに、いつでも必ずというわけにはいきませんが)。

 内面に集中し続けていると、見ていた対象は想念であって、実体ではないことに気づきます。

 つまり、本当には存在しないのです。

 対象を見ているつもりが実は想念を見ているだけで、それは実在ではないと深く気づくと、それを見る私という想念も消えていきます。

 見られる対象・客体と見る私・主体の分離=妨げがなくなって、しかしはっきりと目覚めた心だけが残ります。

 世界と私が一体である、さらには世界も私もない、という目覚めだけがありありと現出するのです。

 こうした「無分別智」を体験すると、実に爽やかで安らかな気持ちになれます。

 例えば苦しめるものと苦しめられるものの分離・対立もなければ、悩ますものと悩ませるもの分離・葛藤もないのですから、当然といえば当然でしょう。

 もちろん徹底した無分別智は高い境地に達した菩薩しか得られませんが、スタートしたばかりの菩薩でも禅定をある程度修得すると、すればしただけの安らぎは必ず得られるようになります。

 そういう意味で、ストレスだらけの人生を乗り切るには、禅定はお勧めの方法です。

 関係者のみなさん、今年も実践していただけるよう、ご精進をお祈りしています。



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波羅蜜はなぜ6つなのか:唯識のことば11

2017年02月04日 | 仏教・宗教

 唯識は、悩みだらけのふつうの人間・凡夫のままでいることにとことんうんざりして、なんとかして究極の爽やかさ・無住処涅槃を得たいと求めはじめた人・菩薩のための道案内の理論です。

 ですから、理論そのものが最終目的ではありません。

 理論がわかったら――あるいはまだよくわからなくても――「では、どうすればいいのか」を具体的に示して、それを実行してもらうことが次の目標です。

 「では、どうすればいいのか」という問いへの答えは明快で、「六項目を実践して下さい」と。

 そしてアサンガは、例によって用意周到に、「どうして六つだけなのか」というありそうな質問にも、予め答えます。


 なぜ波羅蜜はただ六つだけであるのか。それは、六種の迷い・障害の対治を確立することが目的だからである。…

 修行しようという心を起こさない原因を対治するために、布施と持戒の二つの波羅蜜を設定する。修行しようという心を起こさない原因とは、財産や家に執着することである。

 もしすでに修行しようという心が起こっているならば、退行する心の原因を対治するために、忍辱と精進の二つの波羅蜜を設定する。

 退行する心の原因とは、すなわち生死輪廻する衆生が逆らい迫害するという苦しみと、長い間、善なる法を支持する修行を加えることによる疲労である。

 もしすでに修行しようという心とまた退行することのない心が起こっているならば、それが壊れ失われる心の原因を対治するために、禅定と智慧の二つの波羅蜜を設定する。

                    (『摂大乗論現代語訳』一二六~七頁)


 まず、ふつうの人が過剰に執着しがちな豊かな財産や幸せな家庭とその獲得・維持がすべてだと思い込んだ硬直した生き方に対しては、手放すこと・布施と別の生き方・持戒を示します。

 爽やかに生きたいのなら、〔願っても〕執着しない心と別の生き方が必要なのです。

 それを納得して、せっかく修行を始めても、次にぶつかるのは「退行する心」の問題です。

 私は修行という立派なことをしているのに、人が理解してくれない、ほめてくれない、どころか、バカにする、足を引っぱる、迫害する……と、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」という気になりがちです。

 しかも、修行は楽でもなければ、短くもない。やってもやっても終わらない。「ああ、疲れた。もういやだ。もうダメだ」という気分になりがちです。

 でも、そこがポイントだ、とアサンガはいいます。

 その時こそ、忍辱と精進が修行できる。人に評価されず、誤解され、迫害される時こそ、忍辱のチャンスだ。疲れ切って、燃え尽き、くじけそうな時こそ、精進のチャンスだというのです。

 ものは見方でいろいろに見える=唯識です。見方を変えれば、危機(ピンチ)が好機(チャンス)に見えてきます。

 リストラされた時、倒産しそうな時、家庭がもめている時、なにもかもうまくいかないように思える時は、見方を変えれば自己成長のチャンスですが、なかなかそうは思えません。

 そういう時こそ、禅定と智慧を実践しましょう。実践した分だけは確実に心が楽になり、爽やかになります。

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心をさわやかにする6つの方法:唯識のことば10

2017年02月02日 | 仏教・宗教

 多くの人がさわやかに生きたいと望んでいると思うのですが、私も含めてなかなかさわやかには生きられません。

 それはなぜか。

 唯識の答えは「たいていの人にマナ識――無意識的な自己実体視・自己中心視の心――があるから」ということです。

 しかもその「たいていの・ふつうの人=凡夫」とは、ひとのことである前にまず自分のことです。

 私にマナ識があるかぎり、いつもさわやかに生きることはできないのです。

 もちろん、ひとや外のことが私のマナ識の思いどおりになった時だけはいい気分-いい気になれますが、いつも思いどおりになるとはかぎらない……どころか、思いどおりにならないことのほうが多いのがこの世です。

 私たちはすでにそういう明快な答えを学んで知っているし、納得したはずなのですが、何か嫌なこと、つらいこと、苦しいことに遭うたびに、ひとや外の原因が主な原因、それどころか原因のすべてだと思ってしまいがちです。

 しかし「すべては心しだい=唯識」でした。

 確かにひとや外のことはきっかけにはなります。

 でも、最終的にさわやかになれるかどうか、結局は自分の心の姿勢しだい……と言われてもなかなかいったん付いた心の姿勢の歪み・くせは直らない。

 怒りぐせ、恨みぐせ、妬みぐせ、落ち込みぐせ……。

 そういう心のくせを直すトレーニングが六種類ある、というのが六波羅蜜で、「菩薩は、この正しい法のなかにある」はずでしたね。

 私もしょっちゅう忘れてしまうので、復習です。


 悟入の原因・結果の勝れた相はどのようなものだと知るべきであろうか。

 六波羅蜜による。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という波羅蜜である。……

 菩薩は、この正しい法のなかにある。

 富や楽しみに執着しない心と、戒律について犯すことのない心と、苦にあっても負けることのない心と、善を実践することについて怠けることのない心と、さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる。

                       (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 ①「富や楽しみに執着しない心」、求めてはいけないのではなく、ポイントは執着しないことにあります。

 ②「戒律について犯すことのない心」、さわやかになるためのルールを守ろう、と。

 ③「苦にあっても負けることのない心」、苦に負けることは、自分のためにも誰のためにもなりません。気を取り直して生きましょう。

 ④「善を実践することについて怠けることのない心」、休むことは必要、怠けることはいけません、と。

 ⑤そして何よりも、「さまざまに心が乱れるような原因のなかでそこにとどまらないゆえに、つねに修行して一心に」、禅定の安らぎを楽しみましょう、と。

 ⑥そうすると、「理のままに諸法を観察する唯識観に悟入することができる」、私の思いや都合で見たのではない、ありのままの世界が見えてきて、そうしたらさわやかになれるのでした。


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真理を維持できる人:唯識のことば9

2017年02月01日 | 仏教・宗教

 どのような存在を「習気」(じっけ、残存影響力)と名づけるのか。この「習気」という名前は、どのような意味を表わそうとしているのか。

 この存在は、それ(識)と対応して、共に発生し、共に消滅し、後に変化してそれが発生する原因となる。……

 もし、多く〔真理を〕聞く人であれば、多く聞いた習気がある。

 聞いたことをくり返し思うということが、心と共に生滅する。

 それが、くり返し発生すると、心の明らかな了解の発生する原因となる。

 これによって熏習(くんじゅう)は、堅固さと定着性を得ることができる。

 それ故に、こうした人を、真理を維持することができる〔人〕と説く。 

                         (『摂大乗論現代語訳』より)


 唯識やコスモロジーを学ぶ人――筆者も含め――がほとんど例外なく体験するのは、最初学んだ時は新鮮な感激と納得があったのに、しばらくすると飽きてきて他のことに気が散ったり(散乱)、せっかく学んだことを忘れてしまって(失念)、また腹が立ったり(忿)、落ち込んだり(惛沈)、忙しくてそれどころではないという気分になって禅定をさぼったり(懈怠)……元の煩悩だらけの状態に後戻りすること(退行)です。

 ここで大切なのは、例えば腹を立ててしまった自分に腹を立てるとか、落ち込んだことに落ち込むという、煩悩の二重塗りをして、「おれってダメだな」と自己嫌悪に陥ったりしないことです。自己嫌悪と反省(慚・愧)は似て非なるものですから。

 内的反省(慚)とは、筆者の理解では、「自分にはアーラヤ識という覚りの根拠が確実にあるにもかかわらず、今回はそれを生かせなかったな。それは自分にとってとても損なことだった。次回はきっと生かそう。生かせるに決まっている」という気づきと決心です。

 対他的反省(愧)とは、「せっかくいいつながりのチャンスが与えられているのに、あの人との関係ではそれが生かせなかった、どころか壊してしまった。あの人にも私にも損をさせてしまった。残念だった。これからは、つながりのチャンスを逃さないようにしよう」という気づきと決心です。

 煩悩が起こってしまった後で、こうした反省ができるには、唯識の学びがしっかりと心の奥底に熏習されていて、必要な時に自然に思い出されるようになっていなければなりません。

 そうなるためのキーワードが「多聞(たもん)」と「習気(じっけ)」と「熏習(くんじゅう)」です。

 繰り返し聞き、繰り返し読み、繰り返しそのことを考える、つまり意識します。

 それから別のことに意識が移ると、それは意識からは消えますが、無くなるのではく、その「習気」は心のもっとも深いところ・アーラヤ識に熏習されていきます。

 そうすると人生で重要なことについてのしっかりとした理解が確立・定着していきます。

 必要な時にいつでも学びを思い出せる、というか学びが心に浮かんでくるようになった人が、「真理を維持することができる人」と呼ばれます。

 そういう真理を維持できる人になりましょう。それは、他人のためである前に、まず自分が気持ちよく生きるため、自分の心をさわやか(軽安)にするためです。



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目覚めのための推論的理解:唯識のことば8

2017年01月31日 | 仏教・宗教

 かなり昔の『サングラハ』誌に連載し、その後、外付けのメモリーに眠っていた「唯識のことば」を少し書き直し、アトランダムだった内容も少し順序立てて、再活性化する試みを続けています。

 アクセス解析によれば、たくさんの方に読んでいただけているようで、とても喜んでいます。有難うございます。引き続きご愛読をお願いいたします。

 今回は、連載では第一回目だった、新年にちなんだ「夢」の話です。


 ……人が目を覚まして、夢の対象をはっきり認識するならば、それはただ識(心の働き)があるだけである。……

 たとえば人がまさに夢の中にあって、まだ目覚めていないならば、この〔それが夢だという〕自覚は生まれないが、もし人がすでに目覚めているならば、まさにこの自覚があるように、もし人がまだ真如の悟りを得ていないならば、この自覚はないが、もし人がすでに真如の覚りを得ているならば、かならずこの自覚がある。

 もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば、唯識ということについて、どのようにすれば推論的な理解(比智)を起こすことができるだろうか。

 聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解することができるだろう。

                        (『摂大乗論現代語訳』七七頁)


 唯識では、自我も外界も「夢・幻」のようなもので、「実在していない」といいます。

 しかし、ふつうの実感としては外界も自分もありありと存在しているわけで、納得しにくいのですが、それには表現の問題もあって、ただ「何も無い」といっているわけではなく、「他の者・物と関係なく、それ自体で、いつまでもある」という意味で「実体的に存在する」と思うのは妄想だというのです。

 〔自我や外界が現われては消えていく「現象」として存在するといえば存在していること、現象していることを否定しているわけではありません。〕

 しかし自我もその他のものも実在する(はずだ)という妄想の夢を見て、執着し、思いどおりにならないと苦しみうなされているのが私たちふつうの人(凡夫)です。

 そして、夢を見ている人はそれが夢だとは思っていないように、「実在すると思っているだけだ」といわれても、なかなかそうは思えません。

 しかし、悪い夢を見てうなされているとき、起こしてもらうと、初めぼやけた頭で「うん? 夢かな?」と思い、はっきり覚めると「なんだ夢か」とほっとすることがあるように、人生で悩み苦しんでいるとき、唯識のことばをよく聞くと、「そうか、自分の心の持ち方で自分を苦しめてるのか」と少し気が楽になりますし、はっきり覚めれば、究極のやすらぎ=涅槃に入れることになっています。

 唯識を学び少し目の覚めかかった、しかしまだそうとう寝ぼけて悩んでいる私たちとしてはどうすればいいのでしょう。

 「もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば……どのようにすれば」いいのか。

 答えは明快、「聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解すること(比智)ができる」と。

 唯識がしっかり理解できる・自分のものになると、智慧そのものではありませんが、「比智」が得られます。

 そして、推論的な理解・比智でも、かなり心を楽にする効果があることは確かです。

 初夢以来、とてもいい夢を見ている方は、もちろんどうぞそのまま夢を見続けていただいてかまいません。

 しかし、悪夢に悩まされがちな私たちは、しっかり目を覚ましてほっとするために、今年もまず比智から始まって実智に到る覚醒の歩みを続けることにしましょう。



 *比智から実智に向けた学びの講座 1) 2) を続けています。ご縁を感じていただける方はどうぞご参加ください(高松講座関係者のみなさん、3月の会場が変更になっています。ご注意ください。)。


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真理のことばを繰り返し聞く:唯識のことば7

2017年01月30日 | 仏教・宗教

 どのような人が知られるべきものの相に悟入できるのか。

 大乗〔の教え〕を多く聞く熏習を持続し……それゆえに功徳と智慧という二つの糧が得られる。

 諸菩薩はどのような状態で唯識の瞑想に悟入するのか。

 対象的な認識により、教えとその意味内容に似て現象する相を意言分別(心の中の言葉による分別)することによる、大乗の真理の相(法相)が生まれる状態においてである。……

 どのようにして悟入することができるのか。……

 教えと意味内容を対象として、シャマタ(言葉やイメージを消す瞑想)とヴィパシュヤナー(言葉やイメージを使う瞑想)を絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠ることがないからである。
                       (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 かつていろいろな仏教書を読んでいてどうしても解けなかった疑問が、唯識に出会った時、まさに氷解という感じに解けたという体験については、何度も書いたとおりです。

 上の個所も、そういう思いで読んだところで、どのようなプロセスで覚っていくことができるのか、きわめて明快に語っています。

 なるほど、こういう手順をきちんと踏んでいけば、覚れる=心の奥底まで爽やかになれるだろうな、と納得したものです。

 まずアーラヤ識には、生まれつき真理の種子が備わっているわけではなく、真理のことばを聞かなければ、覚ることはできないのですが、幸い私たちはすでに聞いています。

 では、一度聞けばすぐ覚れるのかというと、そうはいきません。「多く聞く熏習を維持」することが必要なのです。

 これは臨床的に実に的確で、特に洪水のように膨大な情報を次々と処理し使い捨てていくことに慣れている現代人には非常に重要な指摘です。

 私たちは、唯識のことばも情報の一種として「なるほど」と頭でわかって処理終了にしがちですが、それは熏習されたことではないのです。

 (残念ながら人間の心の深層は、パソコンのメモリーのようにキーボードをちょんと押すだけ記憶されるようにはできていません。)

 まして、頭・意識でわかったことは、深い無意識・アーラヤ識が変容したことでもありません。

 繰り返し繰り返し聞くことによって、ようやくアーラヤ識に染みていくのですが、さらにそれを維持しなければならないというのです。

 アーラヤ識は、迷いの種子でいっぱいで、一度や二度、覚りの種子を蒔いたくらいでは、負けてしまって芽が生えない、変容しないわけで、まず芽が生えるまで、何度でも蒔き続けなければなりません。
 
 そして次に、繰り返し聞いてしっかり覚えたことを自分の心の中のことばで明快に考え、正確な真理のイメージを描けるところまでいかなければなりません。

 聞きっぱなしではなく、納得し自分のことばになるまで思索するわけです。

 そしてそこでも終わりではなく、さらに言葉やイメージを使う瞑想法と使わない瞑想法(あるいは集中的瞑想と拡散的気づきの瞑想)の双方を「絶え間なく、敬意をこめて修行し、怠」らなければ、やがて必ず覚れるというのです。

 この修行のプロセスは、「聞・思・修(もん・し・しゅう)」とまとめられますが、「この手順を手抜きしないで続ければ覚れる」という指示を真っ直ぐ受け止めて、学びを進めていきたいものです。

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深い問いと深い答え:唯識のことば6

2017年01月28日 | 仏教・宗教

 私たちは、ごくふつうの世間並みのものの考え方でやっていけるうちは、修行とか覚りとか、世間・常識を超えた心など自分には関係のない話だと思っています。

 何かが起こり、それではもうどうにもならない行きづまり状態に陥った時初めて、なんとか、悩みを根っこから解決できる常識を超えた英知を得たいと思いはじめるものです。

 ところが、そういう思いが切実になるとほとんど同時に、自分が今まで世間の常識を超えた英知など、ほんのわずかでさえ、学んだこともなければ習ったこともない、だからもちろん身についても心の底に染みてもいないことに、愕然と気づかざるを得ません。


 この出世間の心は、いまだかつて修行されたことがない。したがって、けっして熏習されたこともない。もし、熏習がないとすると、この出世間の心はどういう原因から発生するのか。

 ……もっとも清浄な真理の世界から流れてくる〔真理を〕正しく聞くことによる熏習を種子とするので、出世間の心が発生することができる。(『摂大乗論現代語訳』六五頁』

 此の出世心は、昔より来、未だ曾て習を生ぜず。是の故に定んで熏習無し。若し熏習無ければ、此の出世心は何の因より生ずるや。……最も清浄なる法界より流るる所の正聞熏習を種子と為すが故に、出世心は生ずることを得。(国訳一切経『『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、七七頁』



 旧約聖書『詩篇』第一三〇篇に「ああ主よ、我深き淵より汝を呼べり」という句がありますが、このことばもそうした自分の無智・無明に気づいて、深い絶望の淵に沈んだことのある人でなければ語れないことばです。

 こんなに道に迷ってしまって、どうすればいいのだろう。自分の中には、手がかりになるものが何もない。

 アサンガも、若き日に、こうした絶望的な問いを発したことがあったのではないでしょうか。

 「もし熏習ということがないとすると、覚りの心はどういう原因から発生するのか」というのは、一見きわめて理論的に整理された疑問の出し方ですが、その奥にそういう切実な響き――いわば「実存的叫び」――が感じられ、修行中のアサンガにとってはきわめて深刻な問いだったと思われます。

 けれども、そうした切実な問いがあってこそ、答えに出会った時、いい知れない深い感銘をもって受けとめることができるのです。

 そういう意味で、人生のプロセスでは、苦しみは悪いものとばかりは決まっていないようです。

「 もっとも清浄な真理の世界から流れてくる〔真理を〕正しく聞くことによる熏習を種子とするので、出世間の心が発生することができる」という句からは、苦しい探求の末にようやく、真理の言葉を語ってくれる人に会い、その教えが心の奥底に染みてきて(熏習)、それが種子となって、やがて少しずつではあっても覚りの心が芽生えてくるという体験をした人の深い喜びの声が聞こえてくるような気がします。

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黄金を秘めた土としての人間:唯識のことば5

2017年01月17日 | 仏教・宗教

 毎日のニュースを見聞きしていると、テロ、国家・民族間の対立抗争、飢餓、経済の混迷、凶悪な犯罪、いっこうに改善されない環境の荒廃など、思わず心が暗くなってしまうようなことがほとんどで、時たま、心温まる話、希望を感じさせる話があるだけという状況のようです。

 私たちは、思わず(つまりマナ識の働きで)「どうしてこう(つまり私の希望どおりではない状況)なんだろう」と、ため息とともに深い疑惑の想いに陥りがちです。

 しかし、せっかく学んでいるのですから、唯識の智慧の目を借りて、せめて比知(ひち、推測的な知恵)であっても、「どうしてなのか」「どうすればいいのか」、しっかりと再認識しましょう。


 「存在には三種類ある。一は汚染された面、二は清浄な面、三は汚染されつつも清浄な面である」。……/

 黄金を秘めた土を譬えとしよう。……

 一には地面、二には黄金、三には土である。

 地面に関していえば、土は〔本当の〕存在ではないにもかかわらず現われており、黄金は真実の存在であるにもかかわらず現われていない。

 この土を火で焼いて精錬すると、土は現われなくなり、黄金のすがたが現われてくる。

 この地面に土が現われている時は、虚妄な相によって現われているのであり、黄金の現われる時は、真実の相によって現われるのである。……/

 このように、アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は、この識は虚妄な分別性によって現われていて、真実性は現われていないのである。

 もし無分別智の火に精錬された時は、この識は完成された真実性で現われ、虚妄な分別性で現われることはなくなるのである。

                       (『摂大乗論現代語訳』九五頁)



 この世のいろいろな出来事には、汚染された面、清浄な面、汚染されながらも清浄な面の三つの面があるといわれています。

 まさに、私たちの生きている世界の姿そのもので、しかも、現象の量としては汚染された面が圧倒的です。

 ですから、もし私たちの目がいま現われている面だけに向いていれば、絶望したくなるのも当然です。

 しかし、それは譬えれば「黄金を秘めた土」のようなものだと、アサンガは言います(黄金は仏性の比喩です)。

 人間の世界の現状という「地面」を見ると、それはひたすら乾ききった土、あるいはドロドロの泥沼のように見えます。

 それは本当の姿・「真実」ではないのですが、確かに実際に現われているという意味で「現実」です。

 アサンガは、決してそうした現実から目をそらさず、しかもその奥に潜む真実に目を向けます。

 「アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は……真実性は現われていないのである。もし無分別智の火に精錬された時は……完成された真実性で現われ」ると。

 仏性はまちがいなく存在しているが、放っておいても現われてはこない、開発する必要がある、ということで、つまり、個人レベルでも人類という大きなレベルでも、未来に希望があるかないかは、アーラヤ識が無分別智の火によって精錬されるかどうかにかかっているといっていいでしょう。

 そして、そういう心の進化は、突然全人類レベルで始まってくれるわけではなく、気づいた個人一人一人の心の精錬からだけ始まるのです。

 つまり、希望は自分の実践から開け始めるということです。


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見方を変えて希望を見る:唯識のことば3

2017年01月14日 | 仏教・宗教

 年の始めにふさわしく、何か希望のある話をしたいと思いながら、『摂大乗論』の言葉をあれこれ選んでいて、ふと、以下の二句について、講義や本では何度も取り上げましたが、この欄ではまだ本格的に取り上げていないことに気づきました。


 この〔心の〕領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔六つの〕種類(六道)〔の差異〕があり、また涅槃を得るということもある。
 もろもろの存在は、蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識〔情報の集積体〕であるがゆえに、〈アーラヤ〉と名づける。私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く。


 唯識・仏教が私たちに告げてくれるメッセージの中でも、人間の希望の根拠をもっとも端的に語っているのが前の句です。

 「この心の領域」とはアーラヤ識のことで、人間の心のもっとも深い層としてアーラヤ識があることは、確かに今のところ大多数の人間つまり凡夫が輪廻の世界・六道に迷っている依りどころ・理由であると同時に、人間が涅槃・悟りを得る潜在可能性を持っている、覚者・ブッダになれることの依りどころ・根拠でもある、というのです。

 人間の現状を見ると、確かに誰もが深い深い煩悩を抱えているようです。

 しかし、ということは、人間すべてに煩悩の発生源であるマナ識とアーラヤ識がある証拠です。

 そして思いがけないことに、誰もがアーラヤ識を持っていることは、誰もが煩悩を克服できる可能性も確実に与えられているという証拠なのです。

 つまり、唯識的に見ると、人類にはアーラヤ識があり、だから今のところ、いろいろろくでもないことをしているが、まただからこそ、それを超える可能性も確実にある、ということです。

 唯識は私たちに、人間の悲惨な状況をたじろぐことなく見つめながら、しかもそれで絶望してしまうのではなく、かえってそこから希望の根拠を見出すという、ある種の「思想的な離れ業」とでもいうべき洞察を示しています。

 私たちは、いろいろなご縁のお陰で、もう唯識に触れているのですから、人類の中でも、言葉のもっともいい意味で「勝れた人・エリート」になる候補生です。

 読者のみなさんは、後の句で「私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く」といわれている説法の対象・聴衆つまり勝れた人・菩薩に、実際、いつの間にかすでに少しなりつつあるのですから。

 凡夫として生まれてアーラヤ識を与えられ、唯識・仏教に出会って菩薩になりつつある人間・私がいる。それは、いわば既成事実、揺るぐことのない事実・現実です。

 そこに、そしてたぶんそういうところにだけ、この厳しい時代に生きている私たちの、そしてあえて大きくいえば人類の希望があるのだと思います。

 そういっている筆者も、世界や日本の様々なネガティヴな現象ばかり見ていると、失望どころかまったく絶望しそうになります。

 しかし年の始めに当たり、私たちは、現象に左右される常識的・凡夫的な見方をやめ、唯識的・菩薩的に世界やものの本質を見ることにしましょう。

 そして希望を忘れることなく、またもし与えられるならば、この一年のいのちを意味深く生きるよう精進しましょう。


唯識の心理学
クリエーター情報なし
青土社


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見方を変えれば見えるものが変わる:唯識のことば2

2017年01月13日 | 仏教・宗教

 「唯識」には、「ただ心だけ」つまり「ものごとがどう見えるかはその人の心のあり方しだい」という意味があります。

 それについて、わかりやすいのが「一水四見」(いっすいしけん)の譬えです。


 餓鬼と畜生と人間と 天人はそれぞれに 一つの対象について見方が異なっているので それぞれの対象を成り立たせるということがある (『摂大乗論』第八章より)


 同じ一つの水が、餓鬼には咽喉が渇いてたまらないのに飲めない、燃え上がっている臭い膿の流れに、魚という生物には住む世界に、人間には飲めるが下手をすると溺れて死んでしまういわゆる水に、天人には歩くことのできる透き通った水晶の床のように見える。

 けれども、見方によってそれぞれ別の対象が見える・成り立っているので、どれかが唯一絶対に正しい見方というわけではない、という譬えです。


 かつて、初対面の岩手県出身の若い人と話をしていて、私が「岩手ってとても雰囲気のあるところですよね」というと、彼は、謙遜というより、本気かなという調子で、「何もないところですけどね」と答えたことがありました。

 「何もないところ」というのはよくある言い方ですが、いうまでもなく、本当に「何もないところ」などこの地上にあるはずはないので、これは、彼にとって「価値があると思えるもの」または「関心のもてるもの」は「何もない」という意味でしょう。

 あるいは、都市的・近代的な価値のものさしで計ると、「価値があると思われている」便利な、にぎやかな、派手な、洒落た……場所はないという意味も含まれていたかもしれません。

 「でも緑は多いでしょう」と私、「ええ、それはそうですが」と彼。
 「自然は豊かですよね」、「そうですね」、
 「私は賢治ファンのせいで、そういう目で見るからかもしれませんが、岩手の自然には独特の深い味わいというか雰囲気というか、そういうのがあるように感じるんです」、
 「そうですか、そういうのは感じたことないですね」。

 「そこらへんの道端の草木まで、何か賢治の童話や詩に描かれているような匂いというか、さわやかな空気というかがあるように感じるんです」、
 「自分の故郷のことをそんなふうにほめてもらえると、うれしいです」、
 「いや、ほんとうにいいところですよ。思い入れ・投影にすぎないかもしれませんが、私はそう感じるんです」。

 たとえ思い入れでも、岩手の自然に「ポラーノの広場」のような空気を感じるほうが得だと私は思っており、相手が自分の子どもくらいの若い人だったので、つい説教オヤジになって、「せっかくなんだから、感じないと損ですよ」とやってしまいました。

 幸い、彼は素直に「そうですよね」と答えてくれましたが。


 見方を変えれば、見えるもの・対象も変わる。

 見えるものが変われば、気持ちも変わる。

 だとしたら、これまでの自分の見方にこだわっていないで、よりいい気持ちになれるようにものの見方を変えてはどうですか、というのが唯識と論理療法とコスモス・セラピーからの共通の提案です。


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見方と気持ち:唯識のことば1

2017年01月12日 | 仏教・宗教

 去年は、おかげさまで過去の著作のうち2点、『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』『仏教とアドラー心理学――自我から覚りへ』(どちらも佼成出版社)が重版になりました。

 それにちなんで、かなり前に『サングラハ』に連載した「唯識のことば」がいわば休眠状態になっていてもったいない気がしていましたので、少しだけ書き直して、このブログで徐々にみなさんにシェアすることにしました。

 以下、第1回目です。


 どんなことを落ち込み(惛沈)というのか。外的対象(境)に関して心を耐えられなくさせることが本性であり、爽やかさ(軽安)と気づき(ヴィパッサナ)を妨げるのが働きである。ある説では、落ち込みは愚かさ(癡)から派生するものと分類される。(『成唯識論〔じょうゆいしきろん〕巻六より)


 唯識の古典『成唯識論』を読みはじめて四十年あまりになり、何十回となく読んでいると思うのですが、それでも、改めて読むとこんなことも書いてあったのかと思うことがしばしばです。

 亡くなった作家の埴谷雄高さんが「古典は成長する」ということをいっておられましたが、確かにそうだと思います。自分が成長すると、古典から読み取れる内容も成長するのです。

 かつて論理療法を学びはじめたとき、例えばA・エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)を読みながら、二十世紀の心理療法の洞察の基本がすでに千年以上前の唯識の中にはあったんだな、と感心したものです。

 私たちふつうの人間は、なぜ落ち込むのか(うつになるのか)というと、それは、自分の(心の)外で起こっている出来事(外的対象・境〔きょう〕、心の外という意味で自分の体も含まれます)がよくないからだとか、他の人のせいだと思います。

 よくないことやよくない人と出会うと、「こんなひどいこと・人、耐えられない」と思い、心のエネルギーがあれば腹を立てたり(忿・ふん)、そのエネルギーもないと落ち込んだりする(惛沈・こんじん)わけです。

 これはふつうの私たちにとっては、ごく日常的なことで、「自然なこと」あるいは「人間らしいこと」あるいは「仕方のないこと」と考えられています。

 けれども、唯識も論理療法もほんとうはそうではないといっています。

 落ち込みは、愚かさ(癡・ち)―思い込みにまでなった非論理的・非合理的な考え方から生まれるのだというのです。

 論理療法の基本・ABC理論では、ある出来事(Activating event)が必ず同じ結果 (Consequence) を生み出すわけではなく、それをどう捉えるか、その人の信念になっている取り方・ものの見方(Belief system)によって、まるでといっていいくらい違うといいます。

 よくないこと(A)→怒りや落ち込み(C)、ではなく、よくないこと→「こんなことが私に起こるなんて耐えられない」というふうな取り方・思い込み(B)→怒り、落ち込み、絶望など(C)、というつながりになっているというわけです。

 ところが、Bの「耐えられない」というのは非合理的な思い込みであって、ほとんどのよくない出来事は「確かにつらいけれど、絶対に耐えられないほどではない」とものの見方を合理的に変えることで、激しく不愉快な怒りや重苦しくつらい落ち込みが、比較的軽いいら立ちや失望感へと変えられる……というのです。

 「見方を変えれば、気持ちが変わる」というわけです。

 実際に論理療法の技法を使ってやってみると、(努力は必要ですが)確かに軽減されます(拙著『唯識と論理療法』佼成出版社、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』NHK生活人新書、参照)。

 それに加えて、さらに「すべては(よくないことも)実体ではなく、永遠に変わらないものではない」という智慧のことばを思い出し、超合理的ともいうべき無分別智にアクセスするための禅定をすると、心に気づきと爽やかさが戻ってきます。



唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践
岡野 守也
佼成出版社



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ
岡野 守也
佼成出版社



いやな気分の整理学―論理療法のすすめ (生活人新書)
岡野 守也
日本放送出版協会


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日本仏教心理学会第7回学術大会のお知らせ

2015年07月02日 | 仏教・宗教
 仏教と心理学の対話、交流、融合を目的として設立された日本仏教心理学会も、いつの間にか今年は第7回の学術大会を迎えるに到りました。

 昨年は研究所の講座と重なってしまい、残念ながら欠席しましたが、今年は私も参加する予定です。

 読者のみなさんで、関心のある方はぜひお出かけください。


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大乗の菩薩とは何か 7

2015年04月26日 | 仏教・宗教
 今回は、大乗の菩薩の三十の誓願の第二十六願から第三十願までです。

 第二十六願は、大乗の目指すのは小乗(声聞乗、独覚乗)とは別に大乗(あるいは仏乗)という派を立てることではなく、ただ一乗だということです。
 これは、より広く言えば、宗派間の分裂や対立を超えたいということであり、さらには宗教間の分裂や対立をも超えたいということです。
 これは、人類にとってきわめて困難ではあっても、必須の課題です。

 第二十七願で言われている「増上慢」とは、覚ってもいないのに覚っていると思い込んでいること、究極の真理をつかんでもいないのにつかんでいると言い張ることです。
 自分たちが最高、さらには唯一絶対と主張するのは、大乗の眼からみると「増上慢」であり、そうした増上慢が克服されないかぎり、宗派間、宗教間の対立・抗争はなくならないでしょう。
 菩薩は、そうした増上慢のない世界を創り出すことを悲願として精進し続けるのです。

 第二十八願は、自分の衆生を照らす光と照らし続けるいのちを無限にし、それを伝える人すなわち僧の数も無限にして、すべての衆生を洩れなく救いたいと願です。

 第二十九願は、自分が救いの働きをする領域・国土を限定することなく、宇宙大に拡大したいという願です。

 第三十願は、以上の願を実現するには長大・遠大・膨大な時間がかかり、実に多様な工夫が必要だが、それらすべてが空すなわち一体なる宇宙のことだと気づくと、それはまったく厭う必要も恐れる必要もないことだ、としっかり認識する必要がある、その心がまえ・覚悟を確立しようという願です。

 常識からすれば、こうした三十の誓願は誇大妄想的に大きく高い理想です。

 しかし、そこまで大きく高い理想を持ち、実現のために果てしなく働き続ける決心をし、そのことを書き残した『摩訶般若波羅蜜経』の著者である菩薩――覚りを求める人――がいたことは、歴史的事実でしょう。

 そうした人のメッセージに接して、「そんなこと、とても無理だ」と思うか、「及ばずながら、私もそうありたい」と思うか、それはそれぞれの自由だと思いますが、私個人としては、「まったく及ばずながら、それでも……」と思っています。



 〔第二十六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に三乗(声聞・独覚・仏)があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には二乗という名称もなく、純一に大乗のみであるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に三乘有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして二乘の名も無く、純一大乘ならしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に増上慢があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には増上慢という言葉さえないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に増上慢有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生を増上慢の名も無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

〔 第二十八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の光明・寿命に制限があり、僧の数に限りがあるならば、まさにこのような願を立てるべきである。私は六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の光明・寿命に制限がなく、僧の数に限りがないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が光明壽命量有り、僧數限有らば、當に是の願を作すべし。我れ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が光明壽命量無く、僧數限無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の国土に限りがあるなら、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、私が仏になった時には、私の一国土をガンガーの砂の数ほどある諸仏の国土のようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に、須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が國土量有らば、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が一國土をして恒河沙等の諸佛の國土の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如きの行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第三十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、まさにこのような思いを持つべきである。生死の道は長く、衆生の性質は多様であるけれども、その時にこそ次のような正しい思いを持つべきである。生死の果ては虚空のようであり、衆生の性質の果てもまた虚空のようであって、その中に実体としての生死往来もなく、また解脱する者もいないのだと。菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、當に是の念を作すべし。生死の道長く、衆生の性多しと雖も、爾の時應に是の如く正憶念すべし。生死の邊りは虚空の如く、衆生の性の邊りも亦虚空の如し、是の中實に生死往來無く、亦解脱者も無しと。菩薩摩訶薩は是の如き行を作し、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。


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大乗の菩薩とは何か 6

2015年04月24日 | 仏教・宗教

 菩薩が目指す国は、現代的に言えば完璧な「超福祉国家」です。

 それも外側の制度的な条件だけでなく、個人の人生の質(クォリティ・オヴ・ライフ)も自然との調和も考慮に入れた、すべての生きとし生けるものが幸せに暮らせる国なのです。

 第二十二願では超長寿社会に、二十三願では国民全体が外面的にも美しい国にしたい、第二十四願では、言うまでもなく国民全体が内面的にも美しい国にしたい、第二十五願では精神的な病も身体的な病もすべて癒される国にしたい、と語られています。
 

 ただ、第二十一願は、四季の巡りが美しい国日本に生まれた私たちにはピンと来ませんが、激しい暑さ、長い雨季というインドの風土では、常春の国が理想とされたのは理解できないことはありません。いずれにせよ、自然の営みと人間の営みが調和した世界にしたいということでしょう。

 現代日本人の常識からすれば、まったく不可能に思える、絵に描いた餅のような理想に見えるかもしれませんし、また常識=分別知からすれば当然そうなるでしょう。

 しかし、菩薩がそうした理想を描くことができるのは宇宙の一切の本来あるべき姿を知る智慧を身に付けつつあるからなのです。



 〔第二十一願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、日月・季節・年があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中にはが日月・季節・年がないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、日月・時節・歳數有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中に日月・時節・歳數の名有ること無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十二願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が短命であるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生を寿命が無限であるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の短命を見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして壽命無量劫ならしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十三願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に〔仏の特徴である〕よい相がないことを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生にはみな三十二の相が実現するようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に相好有ること無きを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして皆三十二相成就すること有らしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十四願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生が諸々の善の機能から離れているのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生に諸々の善の機能を完成させ、この善の機能によって諸々の仏を供養させようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生の諸善根を離るるを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして諸善根成就し、是の善根を以て能く諸佛を供養せしめんと。乃至一切種智に近づく。


 〔第二十五願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に三つの毒(貪・瞋・癡)・四つの病があるのを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には四種の病、すなわち冷たさによる病、熱による病、風による病、三種類の混ざった病および三毒による病がないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に三毒・四病有あるを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土の衆生をして四種病、冷熱風病、三種雜病及び三毒病無からしめんと。乃至一切種智に近づく。



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