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玄侑宗久『日本人の心のかたち』 東京新聞書評

2013年12月26日 | 仏教・宗教

 先日、東京新聞から依頼があって、玄侑宗久氏の『日本人の心のかたち』の書評を書き、12月15日(日)に掲載された。

 「日本人の心のかたち」というテーマは、私も非常に関心のあるところで、書いたとおり「面白く読ませられた」。




 新聞の書評欄は、なかば読書案内欄であって批評の場ではないし、まして自説の展開の場では全然ないので、日本人の心の基本を形作った――と私は考えている――「神仏儒習合」についてもっとしっかり言及してほしかったということは述べなかった。

 そのあたり、玄侑氏はどうお考えなのだろう。

 ところでまったく脇の話だが、かつて「在野の思想家」という称号をいただいた東京新聞から、今度は「仏教心理学者」という肩書きを付けてもらったのが、とてもおもしろかった。

 日本には総合的・統合的な探究をしていて、いわゆる専門家・スペシャリストでない人間に対する称号がない。というか、「ジェネラリスト」の訳語がない。

 確かに「日本仏教心理学会」の創立メンバーだし、主に大乗仏教の深層心理学・唯識の講義が多いのだから、まあこんなところだろうな、と思った。

 それに関し、また次くらいに日本仏教心理学会の報告を少し書こうと思っているので、乞ご期待。

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ダライラマ法王と科学者の対話:報告

2013年11月20日 | 仏教・宗教

 17日、ダライラマ法王と科学者の対話「宇宙・生命・教育」にパネリストとして参加してきました。

 「コスモス・セラピーは現代の方便たりうるか」というタイトルでコスモス・セラピーのエッセンス、仏教と現代科学のコスモロジーと臨床心理学の融合の可能性やその意味について、15分でしたが、それなりにうまくまとめて語ることができたと思います。

 法王は、ビッグバン宇宙論では始まりがあるのに対して仏教では始まりはないことになっているという点に、あえて言うとこだわっておられるようで、コスモス・セラピーOKとは言われませんでした。全面否定でもありませんでしたが。

 そこのところ、ゴータマ・ブッダ以来、仏教ではすべての教えは方便であるという私の理解からすると、始まりがあるというコスモロジーのほうが、すべてのもののつながり、そして一体性を現代人に伝えやすいのなら、始まりはないという従来の教義・建前をいったん脇に置いても、伝えやすい理論=仮説のほうを採用するというのが仏教本来の戦略であるべきではないか、と突っ込んで議論したいところでしたが、短い時間なのでそこまで行かなかったのが残念でした。

 それから、パネリスト全体に「科学と宗教」というポイントについて、呪術的宗教、神話的宗教、哲学的宗教、霊性的宗教という宗教のレベルについての共通認識がないまま話がすれちがっていると思えましたので、その点についてだけは、最後のほうで発言することができました。

 ダライラマ法王は、いまさら私が言うまでもありませんが、とても気さくな偉ぶらない慈愛に満ちたお人柄で、こうした方が現代のスピリチュアリティのリーダーとして存在しておられるのは人類にとってとても幸いなことだ、と感じました。

 ダライラマの公式サイトでシンポジウムの様子がニュースとして公開されています。関心のある方はご覧下さい。

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日本仏教心理学会第5回学術大会

2013年11月02日 | 仏教・宗教
 
 下記のとおり、筆者も運営委員の一人である日本仏教心理学会の大会が開催されます。

 去年は転居準備で心身ともに多忙のため出席できなかったので、自分が欠席する会にお誘いするのはどうかと思いお知らせしませんでしたが、今年は出席しますので、お知らせ・お誘いすることにしました。

 『ブッダのサイコセラピー 心理療法と”空”の出会い』(井上ウィマラ訳)の著者であるマーク・エプスタイン氏の講演が楽しみです。

 大会全体ではなく、この公開講演・公開シンポジウムのみの参加も可能ですから、興味のある方はお気軽にお出かけください。



 第5回(2013年)日本仏教心理学会 学術大会

 日時: 2013年12月15日(日)10:00~20:00
 会場: 武蔵野大学 有明キャンパス(※武蔵野キャンパスではありません。)

 大会テーマ「仏教と心理学の融合とその潮流 - 東西の出会い」

 スケジュール:
 10:00 挨拶
 10;10 公開講演(マーク・エプスタイン博士)
 11;40 公開シンポジウム
13:00 昼食
 14:00 個人発表
 16:40 交流タイム
 17:50 総会
 18:30 懇親会
 20:00 終了


公開講演+公開シンポジウムのみ参加 入場料: \1,000 ・非学会員歓迎 ・当日払い可






ブッダのサイコセラピー―心理療法と“空”の出会い
クリエーター情報なし
春秋社


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ダライラマ法王と科学者との対話:お知らせ

2013年10月05日 | 仏教・宗教

 筆者は、11月17日(日)、ダライ・ラマ法王と科学者との対話「宇宙・生命・教育」というシンポジウムにパネラーとして参加することになりました。

 シンポジウムでは、ダライ・ラマ法王や他の参加される科学者のみなさんの目から見て、コスモス・セラピーは現代人のための方便として妥当性や有効性があるように見えるでしょうか、という問いかけをさせていただきます。

 発表時間はわずか15分ですが、エッセンスのエッセンスを語りたいと思っています。

 どんな応答があるか、とても楽しみにしているところです。

 参加費は決して安くありませんが、ダライ・ラマ法王にじかにお目にかかれることを含めて、それだけの価値のあるものになるのではないかと思います。

 興味のある方は、がんばってご参加ください。

 なお、ダライ・ラマの講演やシンポジウムはすぐに定員に達するとのことですので、ご希望の方は急いでお申し込みになることをお勧めします。







●チケットは、チケットぴあ、ローソンチケット、イープラスなどで販売されています。




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思想・宗教の見分け方のヒント

2013年01月29日 | 仏教・宗教

 若い人からしばしば聞かれる典型的な質問の1つに、「思想・宗教、思想家・宗教家、その集団が本物か偽物か、どう見分けてきたのですか?」というものがあります。

 最近もまた複数の若い人から聞かれたので、ここでブログ読者にもシェアすることにして、いくつかのポイントをお答えしておきたいと思います(本格的に論じるにはたぶん本一冊分のボリュームが必要だと思われますが)。

 まず、おおまかに言うと、自分の直感と理性の両方をフルに使って判断するよう努力してきた、ということです。

 「なぜかはよくわからないが、何となく怪しい」という直感は大事にする必要があると思っています。

 しかし、それだけでは主観に振り回されてしまう危険がありますから、「なぜ、どこが怪しいと思うのか」としっかり理性を働かせて洞察することも必要です。

 私の経験では、「怪しい」と感じられるものには、いくつかの特徴があります。

 ①まず、その教え、思想家ないし教祖、その集団が自分(たち)を自己絶対化していることです。

 これは宗教、非宗教を問わず、いわゆる原理主義の特徴です。実例としては、原理主義的キリスト教、原理主義的イスラム、原理主義的マルキシズムから、原理主義的新宗教、原理主義的新々宗教まで多様にあげられます。

 独断的な思いこみ・信念・信仰と違って、理性はものごとに対してきわめて柔軟な態度を取ります。冷静・客観的な観察を元にして仮説を立て、さらなる観察や実験や理論的推測によってその確かさを検証し、問題があれば修正をする、という態度です。

 それに対して自己絶対化した独断的な教えは硬直していて、初めから決めつけられた結論があり、理性的な疑いや検証や修正を許容しません。

 しかし、この世界そして宇宙にはあまりにも膨大な情報があるのですから、不完全で限定された人間の知恵がそのすべてを知った上で最終的・絶対的な結論に到達できるとは思えません。

 不完全な人間には、不完全な情報の範囲で不完全な理性をできるだけ働かせながら、「当面の確からしい――将来修正の可能性もある――結論」に到ることができるだけではないか、と私は考えています。

 そういう意味で、リーダー、メンバー、グループに柔軟さが感じられず、自己絶対化、独断、決めつけといった臭いがしたら、それは怪しいと思っていいでしょう。

 ②続いて、それを学んだり、そのグループに所属するために常識外れのおカネを請求されるかどうか、ということです。

 いろいろな趣味や教養のために一定の常識的な範囲の謝礼が必要なことは当然ですが、常識外れの献金や会費を請求するようでしたら、建前がどんなに立派でも本音は営利目的ではないか、そういうグループは怪しいのではないかと疑っていいでしょう。

 ただ、最初はタダまたは格安で、だんだん高くなるというシステムになっている場合がしばしばあるので、要注意です。

 ③さらに、しつこくて強引な勧誘で入会させようとしたり、退会しようとすると強制的に引きとめるようなグループは怪しいと思っていいでしょう。

 どこまで個々人の信教の自由、思想の自由、判断・決断の自由を重んじるかということは、本物か偽物かの重要な違いだと思われます。

 さらに加えて言えば、リーダー、メンバー、グループが、疑問や反論に対して柔軟であり、妥当な料金しか請求せず、入退会がゆるやかであれば、それは本物か偽物か以前に、あまり危険はない、と言ってまちがいないでしょう。

 ともかく、どんなに魅力的に見えたり力があるように見えても、危険な思想や集団は選ばないことを、私は若い人に勧めています。

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コスモロジー授業へのQ&A 2012-1

2012年08月29日 | 仏教・宗教

 あまりに多人数の授業で質問がしにくいらしく、いつでも質問を受けると言っているのですが、授業中も授業後も、質問にくる学生はあまりいません。

 レポートの感想文の中に質問を書いてくる学生はある程度いるのですが、膨大な数なので、読みはじめてすぐに気づいたもの以外、読んでいるうちに学期が終わってしまって、直接答える機会がありません。

 そこで、いくつかの重要な質問には、ブログで答えることにしています。

 たぶん同じような疑問を感じる方も少なくないと思うので、参考になると思いますし、何よりも質問してくれた当の学生が読んでいるといいと思うからです。



 H大学社会学部1年男子

 前期の授業を振り返ってみると4月・5月は少し先生の話をう呑みにしていた私がいたと思います。

 それが悪いことか良いことかというのではなく、自分の頭で考えていなかったことが少し恥ずかしいです。

 ですが、ここまでの先生の話は、特に宇宙と私が一体という話に入ってから、自分の頭で考えても納得のいくものだったと思います。

 ただ最近のニュースや事件から、私はいくつかの疑問が出たので、質問させていただきます。

 まず第一に、自発的でなく世界に絶望した人は、このコスモロジーの話を聞いて救われるでしょうか?

 うつ病や生きることのたいへんさから死にたいと病む人にはある程度ためになる話だったと思うのですが、例えばいじめにあって生きることが苦しくなった人に、宇宙は自分自分と一体だ、この命には137億年の重みがあると言って、その人の心は、精神はいやされるのでしょうか?

 先生の話はちんと根拠があって筋も通っていると思います。

 ですが、その壮大さゆえになかなか頭で理解はできても心のどこかでは信じきれず、現実にそうは思えなくなってしまうということがあります。

 つぎに、宗教が心の支えとなるコスモロジーたりうるのであれば、どうして日本人よりはるかに信仰心のあるヨーロッパや中東で争いが絶えず、治安も悪くなるのでしょうか。

 しかもキリスト教の歴史を考えると(私の知る限りでは)、ないほうがマシなのではないかと思うのです。

 前期、大変自分の考え方を見つめなおす機会をいただきありがとうございました。



 私は、授業のプロセスで繰り返し、「僕の話を鵜呑みにしてはダメだよ。自分で調べて、自分で考えて、合意するかどうかを決めるように。もちろん僕は合意してほしいんだけど、強制するつもりはありません。思想の自由を重んじているのでね。でも、とてもいいと自分では思っているので、強くお勧めしたいだけです」とコメントします。

 しかし、自分で考えることをあまり訓練されてきておらず、かつ素直な学生は、けっこう鵜呑みをしてしまうこともあるようです。

 上の学生は、自分で考えた上で納得し、さらに質問も出してくれていて、こういう学び方をしてくれるととてもいいなと思います。

 さて、その第一の質問の答えですが、これは他の学生たちの感想がそうとうに答えになっていると思います。

 確かに始めの頃は「話のスケールが大きすぎて、ついていけない」と感じたにもかかわらず、徐々に理解と実感が進むというケースも、どこかのポイントでスッと頭に入るようになるというケースも、最後までついてこれないままというケースもあります。

 しかし、苦しい状況にある時に、心の支えになったり癒しになったりするというケースがあることも確かです。

 ですから、効果があるかどうかは当人の準備状態(レディネス)によってケースバイケースというほかありません。

 けれども私の経験では、その時はピンと来なくても、後になってふと思い出して役に立つこともあるようですから、どんな状況にある人にもともかく聞いておいてもらっていいのではないかと思っています。

 第2の質問は、これまでもほぼ同じような質問が度々あり、「宗教同士なのになぜ戦争をするのか?」という記事で答えましたので、そちらを参照してください。

 またより詳しくは、拙著『コスモロジーの創造』(法蔵館)の「〈宗教〉に未来はない」(15-37頁)を参照してください。




コスモロジーの創造―禅・唯識・トランス・パーソナル
クリエーター情報なし
法蔵館

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新刊紹介:『ゴータマ・ブッダのメッセージ』

2011年09月29日 | 仏教・宗教

 友人の青森公立大学教授の羽矢辰夫氏が新著を出されました。

 彼のブッダ論はいつも、まったくそのとおり、全面賛成で、私のブッダ理解を確認し深化させてくれます。

 平易で論旨明快できわめてすっきりした文章が、理解を促進してくれます。

 特に今回は、「ばらばらコスモロジーからつながりコスモロジーへ」という章もあって、我が意を得たりの感じです。

 仏教、ゴータマ・ブッダについてしっかりと理解したい方に、強くお勧めしたいと思います。

 
 目次

 第1章 『スッタニパータ』
 第2章 欲 望
 第3章 わたし、わたしのもの
 第4章 行 為
 第5章 ゴータマ・ブッダの生涯
 第6章 戒律・瞑想・智慧
 第7章 ばらばらコスモロジーからつながりコスモロジーへ



ゴータマ・ブッダのメッセージ―『スッタニパータ』私抄
クリエーター情報なし
大蔵出版


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今夜から「維摩経」の学び再開

2011年09月20日 | 仏教・宗教

 サングラハ教育・心理研究所の講座の夏休みも終わりで、今夜から再開です。

 『維摩経』の講義シリーズの続きなのですが、再開に際して、聖徳太子のものと伝えられる『維摩経義疏』の序文の冒頭のことばを思い出して、読み返しました(以下は私訳)。


 維摩詰は、すでに覚りに達した偉大な聖者で、その本質について言えば、すでに真如と一つなのだが、現象面の現われについて言えば、いろいろな姿を示し、人々の姿と等しくなっている。徳は多くの聖者の上にあり、道はふつうの人間(凡夫)が考えるような境地を超えている。現象の働きに関しては、「無為」を事とし、形に関しては、「無相」を相としているのだから、どうして、彼の名や相を示すことができるだろう。国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている。


 「国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている」という箇所、聖徳太子自身の気持ちを重ねていると感じられます。

 太子も、国家の事業・政治は実に厄介だと感じておられたのでしょう。

 しかし、菩薩は慈悲の心が自然に湧いてくるので、人々のことを放っておけません。何とか幸せにしてやりたいと思うので、あえて苦労を引き受けざるをえないのです。

 菩薩は、慈悲ゆえにあえて政治に関わらざるをえない(ほんとうにめんどうなのだが)、というのが太子の心境だったのではないか、と私は読んでいます。

 仏教には、社会・日常の苦労を離れてすがすがしい気持ちになるという方向と、あえて社会・日常の苦労を引き受けるという方向があると思われます。

 講義では、二つの方向をバランスよく学んでいきたいと思っています。



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書評:往生の極意

2011年09月09日 | 仏教・宗教



 依頼があって、宗教学・宗教哲学といった分野での大先輩である山折哲雄先生の新著の書評を書きました。

 書評にも書いたとおり、とても面白い本でした。

 そして、若干の異論もある本でしたが、昔のように目くじら立てて議論しようという気にならなかったのは、歳のせいでしょう。

 異論に関心のある方は、「覚りとは何か」以下のブログ記事を参照してみてください。

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