高柳重信は、1970年の論文「『書き』つつ『見る』行為」のなかで、第一句集『蕗子』(1950年刊)を批判的にふりかえっている。いっけん、そこで述べられているのは、個人的な方法論に過ぎないもののようにみえる。すなわち「あのようなやり方で書いた、しかしそこには限界があった、ゆえにそののち、あのようなやり方では書かなくなった」と、少なくとも記述のレヴェルにおいては、述べているようにみえる。しかし結論からいうなら、根拠のないことではないが、ここで高柳は個人的な方法論というよりもむしろ一般理論、俳句を可能にする理論を述べていると読んでよいし、またそう読まれるべきであると、私には思われる。
その『蕗子』に収められた作品について、いちばん、はっきりしているのは、それらが、まだ、本当に「書かれた」ものと言いがたい点であろう。それらは、要するに、書かれるに先立って、すでに、かなり明瞭なかたちで、ある種の既成の言葉になってしまっている。ある種の発想があり、それが、ある種の言葉と早々と癒着してしまった段階で、容易に俳句形式に出会っているのである。(略)あの発想と呼ばれるもの、あるいは、発想に先立つ感動などというものを頼りにして、それらは書きはじめられていたのであった。更に言い方を変えるならば、それは、作品を書きはじめるに先立って、すでに感じていた何か、あるいは、すでに見えていた何かについて、非常に大きな比重をかけ、むしろ、それを適当な言葉に翻訳するというかたちで、楽天的に制作を進めてゆくやり方であった。
やや極端に言えば、そこに生まれてくるのは、書かれるに先立って、もう大部分が決定済みの世界である。言葉に書かれることによって、ただ一度だけ、はじめて出現する世界ではなかった。したがって、それは、外観的な大きな差異があったとしても、作者と言葉との関係から眺めるならば、俳壇で普通に「写生」と呼ばれているものと、まず大差はなかった。(高柳[1970→1985: 181])
書かれたものとしての作品の過去に、知覚内容・作者の実感・感動・発想・想像されたもの・感情や気分、などなどがまずあって、しかるのち、言葉へと翻訳され、作品として書かれることになる――という、いわばひどく古典的な図式(モデル)にのっとって『蕗子』は書かれた、と高柳は述べていることになる。この言葉を字義通りに受け取ることに警戒してしまうのは、「重信の書いた文章だから」ということももちろんあるとはいえ、第一に、『蕗子』を改めて読み返してみても、そのような方法論で書かれたという感触が希薄だからである。少なくとも、『蕗子』に収められた47句すべてがそうだとは、考えにくい。第二に、高柳が(珍しく)素直に素朴にこう述べているのだと仮定しても、20年の期間をおいて自作をふりかえるときに、現在(1970年)の観点からレトロスペクティヴに過去を構成する力が働いていないとも考えにくい。言い換えれば、『蕗子』が書かれたまさにその瞬間の、そのときの体験が、ここでそのまま「再生」されているとは、考えにくい。そして第三に、彼自身、《『蕗子』以後》の彼の《批評と鑑賞の原点》として、いわば一般理論として、次のように述べているからである。
これは冗談ではなく、『蕗子』以後の僕は、まさに文字どおり、言葉を書くだけであり、そして、きわめて稀に、そこに書き並べられた言葉のなかに、何かを「見る」だけであった。したがって、現在の僕には、発想というほどのものもないし、その発想に先立っての何ものかに対する感動のようなものもない。僕にとって、感動とは、時に言葉のなかに何かを見た場合の感情である。(略)
あるいは、僕の場合は、俳句を「書く」というよりも「見る」というべきかもしれない。そして、この「見る」行為だけが、僕の制作の根幹であり、併せて、僕以外の人たちの作品に対する僕の批評と鑑賞の原点になっていると考えていいのかもしれない。(同前[183])
方法論として読むならば、かなり誇張されたものとして、おそらくじっさいにはそのようには実践していないだろう、と伝達するやり方で(つまりパフォーマティヴに)述べることによって、ひとつの理論がここでは述べられている。この理論は、使えなくなった古い理論を放棄し、それに置き換えられる、新しい理論として読むことができる。古い理論によるならば、言葉以前の何か――過去・作者の知覚内容・作者の内面に想定されるものごと、など――が、言葉によって描写ないし表現され、作品と成る。作品は読者によって読まれ、もしもうまくいくならば、「以前の何か」は読者へと「移送」される。こうした理論が「使えない」ものであるのは、コミュニケーション理論の文脈においては明らかだ。「移送モデル」とよぶことにするが、仮に言語を用いたコミュニケーションに限定するとしても(俳句においてはまさに言語が用いられているように私にはみえる)、当の目指された「移送」がどの程度果たされたのか、判別する術がないからである(テレパシーのような、別の複雑な理論をもちこむのでないかぎり。しかし、もしもテレパシーが利用可能であるならば、おそらく言語を用いたコミュニケーションへと人が動機づけられることはないであろう)。むろん、かなり長期にわたって、この「移送モデル」は疑われていなかったのであるが、その理由は、コミュニケーションを観察するものが、コミュニケーションの外形や自分の実感に欺かれていたからである。また、高柳のいっていることを、芭蕉の、かの過剰に神聖化された「言ひおほせて何かある」と同一視することも、変奏として読むことも避けるべきだろう。言語を用いて「言ひおほす」ことは不可能だからである(そもそも芭蕉の言は、去来の「いと桜の十分に咲たる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」に対するツッコミに過ぎない)。
芸術理論の文脈においては、「使えない」と判断するには、もうワンクッション必要かもしれない。この古い理論によれば、作者は「以前の何か」についての似姿・複製・複写をつくろうとしているのであり、いわばミメーシスを旨としている。アーサー・C・ダントーに倣って、「模倣理論」(Imitation Theory)とよぶことにしよう。このとき、オリジナルなものとして存在したものは、作者の知覚内容(想像を含む)であり、作者の知覚したなんらかの情感であり――あえて粗雑な言葉を用いるなら――「実感」であることになる。技巧は、ミメーシスに奉仕する奴隷となる。かくして、作品は、たんなる再生装置に成り下がり、副次的なもの・二次的なもの・複写物でしかないものとなる。こうした古い理論が、現在では不適切であるとわれわれにとって思われるのは、第一に、コミュニケーション理論における「移送モデル」が不適切であるのと同様、読者は作者の知覚内容にアクセスすることができないからである。「この作品には実感が籠もっている」と粗雑な言い回しを用いるとき、そこで意味されているのは「この作品は、『実感が籠もっている』という印象をともなって、読者である私によって知覚されている」という程度のことであると思われる。第二に、「作品は副次的なものであって、再生装置に過ぎない」という説明は、作品がオリジナルな現実として――少なくともなにがしかの知覚の原因として――読者であるわれわれによって体験されている、という、ありふれた感覚に合致しないからである。そして、作品が作品として(詩が詩として、芸術が芸術として)受容され、世界内に新たに登場した新たな現実として迎え入れられた時代のことを、われわれは「近代」(modernity)とよんできたはずである。
こうしたパラダイムの移行、芸術を可能とする理論の移行を、アーサー・C・ダントーは「模倣理論」(Imitation Theory(IT))から「現実理論」(Reality Theory(RT))への移行として記述している。
この理論(RT)は、新旧いずれの絵画であろうと、絵画についてのまったくあたらしい見方を提供した。じっさい、ヴァン・ゴッホやセザンヌの粗雑な素描や、ルオーやデュフィに見られるかたちと輪郭のずれ、またゴーギャンやフォーヴィズムの画家たちに見られる色面の恣意的な取り扱いはおおむね、それらが非‐模倣であり、なによりもひとを欺かないことを意図しているのだという事実に人びとの注意を喚起する多様なやり方なのだと解釈されるだろう。(略)それはむしろ、一方でリアルな対象と、他方でリアルな対象のリアルな複製とのあいだに新規に開けられた一領域を占めるのである。それを名指すことばが必要なら、それは非‐複製というべきであり、世界に献呈されるあらたな寄贈物である。たとえばヴァン・ゴッホの《馬鈴薯を食べる人びと》は、そのかたちをある仕方で、しかも見あやまることのないやり方でゆがめることの結果として、実在する馬鈴薯を食べる人びとの非‐複製であることがあきらかであり、またこれが馬鈴薯を食べる人びとの複製ではないそのがきりで、ヴァン・ゴッホの絵は非‐模倣として、その絵の主題と推定される実物と同様に、リアルな対象と呼ばれる権利をもつ。(Danto[1964=2015: 13-4]、傍点は太字で表記した)
知覚を欺くことを旨とするのではない、新しい現実が、日々生起している。古典的な(数百年前の)作品でさえ、新しい現実として日々生起しつづけている。そうした新しい領域が、一定の期間の幅をそなえつつも(芸術の諸ジャンルごとに、時期は異なっている)、歴史上、生成した。現時点においてもまだその生成は完了していない。ダントーは「近代」の語を避けつつも、この転換について述べている。たとえばクレメント・グリーンバーグによる教科書的な記述と、完全にとはいわないまでも、ほとんど一致している。
芸術のための芸術が進展した。芸術は(略)ついにはそれ自体が目的として認識されるようになったのである。モダンであることは、根本的に、より良い芸術のための手段を意味していた。そしてそのより良い芸術とは――芸術のための生活ではなく――まず第一に、芸術のための芸術ということ、それに尽きる(一八五七年にフローベールからボードレールに宛てて。「あなたの著作について、何よりも私の好むところは、初めに芸術があるということです」)。(Greenberg[1983=2005: 55])
近代についての定義は日々更新されているとはいえ、現時点で広く共有されている考えは、(1)自律性(2)再帰性、このふたつによって特徴づけられる、というものだ(「近代的自我」だとか「産業主義」だとかいった、前世紀中葉ごろなされていた定義は、前世紀後半に棄却されている)。グリーンバーグのいう《芸術のための芸術》、ダントーのいう《新規に開けられた一領域》は、このうち、「自律性」を表現している。そして、グリーンバーグのような「ものの見方」自体が、ダントーのいう《芸術理論》(Danto[前掲: 11])に該当し、こうした理論自体は、「再帰性」によって生成されるということになる。ここで再帰性とは、前々回の私の記事の言葉でいえば「セカンド・オーダーの観察」のことであるし、少し定義の厳密さを緩めていえば「社会の自己記述」のことである(近代社会は、社会の自己観察によって得られた知識を前提にして、次のムーヴを実行する。近代社会に住む行為者たちは、それぞれに得ている知識の内容も量も異なるとはいえ、やはり社会の自己観察を前提に、次の行為を選択する――再帰性を定義するなら、このようになる)。「間テクスト性」「作者の死」「散種」などの20世紀的なアイディアの諸々は、このタイプの芸術理論がなかったならば想像することさえできないであろう。芸術の自律性(芸術のための芸術)という、モダニティの記述について、現在であれば、「アート作品は投機の対象になっている」だとか「景観をよくすることを目的とした作品も数多い」だとかいった反論がありうるかもしれない。しかしその場合でも、そうした認識自体が、アートワークをそれ以外のものから区別することによって可能になっているのであり、これを可能にしているのは、理論である。
こんにちではひとは、自分が芸術の領域に立ち入っていることに、当人にそうだといってくれる芸術理論がなければ、気づかないかもしれない。こうした事態の理由の一端は、それが芸術の領域とされるのは芸術理論のおかげだという事実にある。それゆえ、われわれが芸術をそれ以外のものから区別する助けとなるということに加えて、そもそも芸術を可能にすることも、理論がもつ効用の一つである。(Danto[前掲: 11])
ありうる誤解を回避するために述べておくなら、ダントーのいう現実理論は、たんに、模倣理論によっては説明ができない諸々の作品が出現してきたことに対応している、というだけではなく、かつて模倣理論が充分に説明できていた事象についても、やはり充分に説明できるのである。《あたらしい理論は、古い理論の効力のうち受け継げるものは受け継ぎつつ、これまでうまく扱えなかった事実をもとりこめるように練りあげられることになる。(略)あたらしい理論を受けいれるための基準の一つは、それがこれまでの古い理論が説明してきたものはなんであれすべて説明できること》(Danto[同前: 12-3])にある。したがって、模倣理論がかつて説明していた諸作品が棄却され、現実理論が説明している諸作品が意義あるものとして新たに採用される、というのではない。棄却されるのは模倣理論のみである。たとえば、次のような諸作品は、模倣理論を用いては、うまく読むことができないのではないかと思われる。
雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う 安井浩司
おはつにエヴァがる乙りきに瀆すべし 加藤郁乎
ひらめける手の忘却をかものはし 九堂夜想
翡翠の記録しんじつ詩のながさ 田島健一
さらにそのうえで、おそらくは模倣理論によってかつては説明されたであろう、次のような諸作品も、現実理論によって充分に説明可能なのである(下村の「北斎忌」は、模倣理論のリミットであるようにも思われ、むしろ現実理論による受容を待つ作品であるように感じられるが)。
しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く 高浜虚子
河べりに自転車の空北斎忌 下村槐太
雲をみてをり春の雲ばかりかな 今井杏太郎
冷ゆる手のすこし種井をさそふかな 田中裕明
そのリストはお前の「フェイバリット俳句.txt」ファイルからコピペしてきただけのものだろう、といわれそうであるが、そしてじっさいその通りであるのだが、現実に私が、ここで便宜的にふたつのグループに分けた諸作品の、いずれをも、同様に好み(「似たような感じ」はそれぞれのあいだにほとんどないにもかかわらず)、評価している、という点が重要ではないか。そしてそのとき私の採用している観点は、模倣理論ではありえず、つねに現実理論なのである。
そして、この文章の冒頭でしつこく「方法論」と「理論」を区別したのも、この点にかかわってくる。すなわち、現実理論にのっとるならば、多くのケースで、方法論は、作家にとってどれほど切実で切迫したものであったとしても、読者にとって、そしてなにより作品にとって、まったく外在的なものであると思われる。もちろん、つねにそうであるといえるかどうかには、議論の余地がある。マネの絵画作品を見ることは、マネによる、メディウムの処理の新しい方法を見ることである、といえるのかもしれない。しかし、『笛を吹く少年』を見る体験は、マネの方法論の生産物を見る体験なのだろうか、それとも方法論そのものを見る体験なのだろうか。他方、ウォーホルの「ブリロ・ボックス」にとって、それが木製であることは、ほとんど外在的であるように思われる。「多行表記」という方法を用いなければ、《俳句形式の本質が多行発想にある》(高柳[1969→2009: 276])というテーゼを知覚可能なかたちで示すことはできなかったかもしれない。しかし、多行形式の作品を読むことと、目に見えて現われている多行表記を見ることとを同一視することは、カテゴリー錯誤であるかもしれない。
そうした困難があるとはいえ、ここで私が問題にしているのは、作品「以前」があるのか否か、というだけの問題であり、それゆえ、やはりここでは、方法論が外在的であるというケースについて話題にしているのである。つまり、「発想」なるものは、作品にとってあってもなくてもどちらでもよいものであるはずだ(そもそも「発想」なるものが「ある」というときの、存在論的な地位はいかなるものなのか、私には分からない)。あるいは、方法が「写生」であったとしても、そのこと自体は、作品にとっては関心の外に位置することである。いかに「外」を観察したとしても、知覚が生じるのはつねに「内」においてであり、意識の与える「外である」という印象が、知覚にともなうことになる、というだけだからだ。
意識は、直接性という印象のもとで知覚を処理する。しかし脳が営む作動は実際には高度に選択的であり、その働きは量的でありまた回帰的である。それゆえに常に間接的なのである。したがって《直接性》は何ら根源的なものではない。(略)神経システムがなしうるのは自己観察だけであって、自己の作動が回帰する領域において環境との接触を行いうるわけではない。自明のことながら神経システムは、自分自身の境界の外側で作動することはできないのである。(略)意識は神経システムの作動上の閉鎖性を内と外の区別によって、つまり自己言及と他者言及の区別によって補正する。ただしその区別は作動としてはやはり内的なものである(Luhmann[1995=2004: 6-7])
したがって、「直接性という印象をともなう内的想像」もあれば、「直接性という印象をともなわない外的観察」もありうる。そしてやはり、そうした事実はことごとく、作品にとって外在的なことがらである。
方法論について、高柳自身は、金子兜太への注文、という体裁で(これは『俳句研究』における高柳と金子兜太の往復書簡に対する、松井満天星による批判への応答として書かれているのだが)、次のように述べている。
だから、あの往復書簡の中で僕が言っていることは、「造形とは何か」などと、現代詩の入門書でも見れば、何処にでも書いてあるような、啓蒙的な一般論はそろそろやめにして、もっと金子兜太その人に即した独自な俳句詩論を展開すべき時が来ているのではないか――、ということであった。(略)
自分自身の俳句を書く上に、いちばん大切なことは、何でもよいから、なるべく早く、自分の独断を生み出し、これを育成し、構築することである。(略)俳句というものは、要するにそうした独断論の様式化したものである。(高柳[1958→1985: 219-220])
この文章が書かれる、つい1年半前には、《しきりに「造形」ということを説き、併せて諷詠俳句を否定したのは、きわめて注目すべきことだと思っている》(高柳[1956→1985: 147])と高く評価していたことと合わせて考えると、なんとも趣深いことではある。しかし高柳は正しく、《俳句を書く上》では(すなわち方法論としては)《独断論》でよい、と見抜いている。作品にとっては外在的なのだから、独断でよいのは、当然である。しかしながら、金子の造形論がほんとうに《啓蒙的な一般論》であったのだろうか、という点には、疑問がある(たしかに教科書のたぐいを読むなら、「前衛俳句は兜太の造形論を理論として云々」といったことが書かれてはいるのだが)。というのも、金子はまさに「造形俳句六章」を『俳句』誌に連載した1961年に、別の記事において、次のように述べているからだ。この文章で金子は、彼の作品《粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に》について、その「作り方」を述べている。
この句では、自然や社会の事物を描写し、その描写のなかに自分の感情や考えている内容を投影するという、これまでの俳句の作り方をしていない。ここでは、描写というものに関心はない。関心はもっぱら、自分のなかにある感情や思考の世界を、どのように俳句として組み立てるか、という点にある。描写ではなく、表現といいたい。自分のなかの主題を構成して、一つの詩の像(イメージ)にまとめることだ。(金子[1961a: 7]、傍点は太字で表記した)
この文が造形論のぜんたいをうまく要約しているとは思わない。また、「粉屋」句が彼の造形論の実践の典型といえるか否かの判断も差し控えたい(私がもっとも愛誦する兜太作品ではあるのだが)。しかしこの文が、少なくとも造形論のひとつの局面を、簡潔にまとめているのも事実である(なお、『朝日新聞』5月30日号のこの文章に対し、山口誓子が同じく『朝日新聞』6月12日号において批判を展開している。詳しくは高柳[1961→1985]を参照)。たとえば「造形俳句六章」の第6章にはこうある。《その〔戦前の俳句の〕大勢を大きく区分すると、次の三通りになります。諷詠的傾向、象徴的傾向、主体的傾向――。このうち、諷詠的傾向は描写的傾向と呼んでもよいでしょうし、後の二者は、まとめて表現的傾向と名付けてもよいでしょう》(金子[1961b→2002: 277]、傍点は太字で表記した)。描写から表現へ、と整理するならば、たしかに、ミメーシスを旨とする模倣理論から抜け出るという、一般的傾向について述べているものとして読むことができるだろう。さらに、金子による戦前俳句の三分類は、兜太が読者として諸作品を読んだときの「感じ」によっているのであろうから、そこに「描写(だけ)でなく表現」がある、ということも、作品「以後」において知覚可能な、一般的傾向であることはたしかなのだろう。さらにいうならば、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アートにおいて作家たちが為していることは「表現」である、ということが気づかれ、作品を「表現されたもの」としてみる・読むことが、まさに一般理論として語られたことも、歴史的な事実である。その意味で、高柳が金子の造形論を《啓蒙的な一般論》とみなすことは、やはり正当なことである。しかしながら、金子の議論の内実が、徹底して作家の方法論として叙述されているということも、またたしかなことのように思われる。金子のいう「表現(expression)」とは、どこから「外へ(ex)」と「押し出す(press)」ことなのか。おそらく作家の「内」から、なのだろう。《自分のなかにある感情や思考の世界》が押し出され、《一つの詩の像(イメージ)》として結実するのであろう。したがって、「内」という過去、作品「以前」について語る金子は、一般論の体裁をとりつつ、じっさいのところ、方法論について語っていると考えても、間違いにはならないはずだ。つまり高柳の杞憂にもかかわらず、金子は十分に《独断論》を語っているといってよい。
本稿で高く評価したアーサー・C・ダントーの「アートワールド」論文(1964年)に比べて、彼の「アートの終焉」論文(1984年)は、はるかに広く、現在に至るまで、繰り返し読み続けられている。しかし、本稿の観点からすれば、いっけん、理論的には後退しているようにみえる。「終焉」論文のダントーによれば、「アートの終焉」にはふたつの理論が先立っている。ひとつは「アートワールド」論文同様、模倣理論なのだが、もうひとつは「表現理論(Expression Theory)」である。「いっけん」と留保をおいたのは、彼の行論において、「模倣」「表現」「歴史の終焉」のみっつの概念は、入り組んでいるためであるのだが(彼は「ひとつの」歴史哲学のなかでそれらを連関させている)、しかし事後的に(現在の観点からふりかえって)みるなら、やはり後退していると判断することができる。
少なくとも適切である理論の好例は、画家たちは再現(representing)しているというよりもむしろ表現(expressing)しているのである、というものだった。クローチェの『表現の科学および一般言語学としての美学』は1902年に出版された。「緑の筋のあるマティス夫人の肖像」(The Green Stripe)は、そこに描かれているマティスの妻について、彼がどのように感じているかをわれわれにみせようと試みているのであり、それは鑑賞者側での解釈という手間のかかる行為を要請しているのだとしたら、どうであろうか。
(略)対象(objects)はしだいに認識不可能なものになってゆき、ついには抽象表現主義において完全に消失した。そのために、当然、純粋な表現主義者による作品の解釈は、対象なき情感への言及を必要とするようになったのである。喜び、憂鬱、一般化された興奮〔引用者注:賭け事などの特定の対象へのものではない興奮〕、などなど、というわけだ。(略)
ひとたびアートが表現としてみなされると、アート作品は、もしそれを解釈しようとするなら、われわれを究極的には作者の精神状態へと送り込まなければならなくなる。(Danto[1984=2018: 199]、傍点は太字で表記した。訳文は適宜変更した)
現実理論という、より一般化の度合いを高めた理論に比べて、ばあいによっては、ここに示された表現理論のほうが、説得力が高いのかもしれない。少なくとも日常的には、馴染み深いものではある。クローチェの例のように、アートに対する「態度」として、歴史上じっさいに存在した、記述可能な理論でもある(ダントーが行論において採用した理由の一端も、そこにあるのだろう)。われわれは絵画であれ詩であれ、作品を前にしたときに「ここでは、このような表現がなされている」とカジュアルに述べる。おそらく「表現」という語の、もっとも堕落した意味においてであろうが。「表現」という語の、語用論上における難しさが典型的に現われるのは、たとえばいわゆる「弱いAI」によってつくられた作品を読むときかもしれない(人のように思考し、精神をもつAIを「強いAI」とよぶ。対して「弱いAI」は、外形的にのみ、人のように思考し、心をもっているかのように、タスクをこなす)。「この作者(AI)は、助詞『の』ではなく、『を』と表現している。そこにこの作品のよさがある」などと語りうるだろう。この語り手は、みずからの知覚内容を「表現」とよんでいるのであって、作者(弱いAI)の「内」や手法(方法論)についてそう述べているのではない。作者として人を想定するとき、まったく自分の自我と同じではないにしても、あるいはその内容は完全に異なっているために通約不可能なものであるにしても、少なくとも形式としては似たところがある、そうした「内」を、よかれあしかれ、他者において想像してしまう。が、「弱いAI」のばあいは、そうした「内」をいっさいもたない(それが「弱いAI」の定義である)。これらのことを総合的に考えるなら、「表現」という語は、「作品以前」と「作品以後」のふたつの領域に所属しつつ、それぞれにおいて異なる意味を担う語ということになる。あるいはより抽象度を高めるならば、模倣理論(ここで私はこの理論に、「作者の内なるイメージやフィーリングを作品に結像させること」を含めている)と現実理論が、互いに互いが環境であるような種類のカップリングを成すように、「表現」という語は機能している、ということができるだろう。そしてやはり、この段階は、歴史的なものである以上、過渡的なものである。クローチェはデュシャンもウォーホルもヴルムも想像することはできなかったに違いない。デュシャンやウォーホルやヴルムの諸作品には、彼らのフィーリングが表現されてはいない、などと述べることはできないにしても、フィーリングにのみ言及することもまた、不適切であると思われる(日本語で「フィーリング」というと軽薄にきこえるかもしれないが、直訳すれば「感情」であり、たとえばカウンセリングの場面では「気もち」と訳される)。ダントーによれば「ポスト印象派以降」ということになるのだが(グリーンバーグによれば決定的にはマネ以降、より広くみればフローベールやボードレール以降)、模倣理論が古び、新たな理論に取って代わられるようになった時代に、一時期、表現理論によってすべてが説明可能であるかのように思われたのは、たしかかもしれない。が、現在の観点からふりかえるならば、現実理論という、より包摂的な理論が獲得されるまでの、ブリッジであった、と結論づけることができるように思われる。
これは、本稿にとっては余談に属することがらかもしれない(が、今回で3回目になる私の行論にとっては、ここが本題ということになるかもしれない)。ダントーは模倣理論と表現理論の(失敗の)果てに、「アートの終焉」を位置づける。ダントーが描くストーリーは、ヘーゲルの『精神現象学』にもとづくものである。すなわち、ヘーゲルのいう「精神」(Geist)の歴史が、自己-知(self-knowledge)の到来をもって、つまり自己と自己についての知識が一致したときに終焉するのと同様、《アートの歴史段階は、アートとは何であり、何を意味しているのかが知られるときに、終わる》(同前[208-9]、訳文は適宜変更した)。
歴史の終焉は、ヘーゲルが絶対知(Absolute Knowledge)の到来として語るものと合致する。さらにいえば、同一である。知識とその対象のあいだに隔たりがないとき、あるいは知識がそれ自身の対象であるために、主観/主体(subject)が同時に客観/客体(object)であるとき、知識は絶対的である。(略)アート作品がそこに存するところの客体(object)は、理論的な意識によって明るく照らされているため、客体と主体の区分はほとんど乗り越えられている(同前[211-2]、訳文は適宜変更した)
ひらたくいえば、アートは、「アートとは何か」という問いと同一になる。そのとき、アートは哲学に吸収されてしまう。ダントーは「アートとは何か」という問いに、アート自身が答えることができるのか否か、語っていないようにみえるのだが、あるいはそれは哲学の役割であって、アートは「問いになった」時点でその歴史的役割を終えるのかもしれない(この仮定は、《知られるときに、終わる》という言葉に矛盾すると思われるのだが)。ここに至って、本稿で述べたモダニティのふたつの特徴――自律性と再帰性――は総合される。本稿までに3回にわたって述べてきた、私の論点と接続していうならば、アートが(私の論点でいえば俳句が)セカンド・オーダーの観察そのものになってしまうという事態を、ダントーは想定している。というよりもむしろ、すでに生じている事態であるとみている。これに私なりに反論するとするなら、論点はいくつかあるが、第一に、作品と化してしまったセカンド・オーダーの観察を、観察するとき、この観察もまた、はじめの観察を観察しているのだから、セカンド・オーダーの観察となるのであり、ダントーのいうような(そしてヘーゲルのいうような)絶対知はありえない。いかなる観察であれ盲点が備わっていることに例外はなく、観察を観察するとき、後者の観察はそれ独自の盲点をそなえている。盲点ゆえに観察することが可能になるといってよい。したがって、ヘーゲル流の「歴史の終焉」(それは理念的に、天国、楽園、疎外も階級もない理想状態として想像されるだろう)は、「もしも世界を観察することを継続してゆけば……」という想像の彼方に幻視される消尽点に過ぎないのであって、そうした消尽点は、観察を継続することの動機づけにはなっても、観察の完了をもたらすことはない。そこで生じていることは、盲点の移動である。第二に、これは再帰性にかかわることであるが、いまや、「とは何か」という問い自体が、セカンド・オーダーの観察によって、疑問に付されている。「とは何か、という問いは、いかなる出自をもつのか」「とは何か、という問いには、暴力が根源的に含まれているのはいかにしてか」さらにいうなら「とは何か、という問いはいかなるタイプの『誤謬』であるのか」などの問いが、まさにセカンド・オーダーの観察によってますます可能になってきた。そして、そうした観察における成果物を、再帰的に取り込み、前提としていないのならば、いまやセカンド・オーダーの観察(≒理論≒批評)とはいえないのである。
前々回、前回と、私は「日本の俳句の終焉」について語ってきたが、いかなる意味においても、ダントーの(ヘーゲルの)いうようなタイプの「終焉」について語ってきたのではない。「日本の俳句」は終焉した。だがそれはたんに、セカンド・オーダーの観察(批評)がなされる場所=空間が消失したというだけの理由による。近代社会は、セカンド・オーダーのレヴェルに存在論的な基礎があるからだ。消失の結果、社会的分化の逆行、「脱分出」という事態が生じたのである。他方、アート全般に関しては、批評がますます盛んになっていることをみてとることができる。じつはもうひとつ、アートの終焉の可能性はある。それは、観察の属するレヴェルに関係なく、たんに観察者が消失する、という事態である。ひらたくいえば、参与メンバーがゼロになる、という事態である。日本の人口は下降トレンドに入って久しいが、推計によれば、今世紀中に地球人口は自然減少のトレンドに入る。したがって、想像可能な将来、いかなる領域であれ、必ず終焉は訪れる。もっとも、自然現象よりもよりラディカルに人類が滅んでゆくことを想像するほうが、容易ではあるのだが。
【文献表】
・Danto, Arthur C., 1964, "The Artworld", Journal of Philosophy, vol.61, no.19: 571-84(=2015、西村清和訳「アートワールド」『分析美学基本論文集』勁草書房)
・――――, 1984, "The End of Art", Berel Lang eds., The Death of Art, Haven Publications.(=2018、佐藤一進訳「アートの終焉」『アートとは何か――芸術の存在論と目的論』人文書院)
・Greenberg, Clement, 1983, "Beginnings of Modernism", Art Magazine, April.(=2005、藤枝晃雄訳「モダニズムの起源」『グリーンバーグ批評選集』勁草書房)
・金子兜太、1961a、「現代俳句の誘い」『朝日新聞』5月30日
・――――、1961b、「造形――主体の表現」『俳句』6月号(→2002、「造形俳句六章」『金子兜太集第四巻』筑摩書房)
・Luhmann, Niklas, 1995, Die Kunst der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag.(=2004、馬場靖雄訳『社会の芸術』法政大学出版局)
・高柳重信、1956、「暗喩について」『俳句研究』11月号(→1985、『高柳重信全集第三巻』立風書房)
・――――、1958、「俳壇八つ当り」『俳句』4月号(→1985、『高柳重信全集第三巻』立風書房)
・――――、1961、「前衛俳句をめぐる諸問題――山口誓子と金子兜太について」『現代俳句研究』10月号(→1985、『高柳重信全集第三巻』立風書房)
・――――、1969、「批評と助言」『俳句評論』7月号(→2009、『高柳重信読本』角川学芸出版)
・――――、1970、「『書き』つつ『見る』行為」『俳句』6月号(→1985、『高柳重信全集第三巻』立風書房)