私なりにまとめると、「伝統川柳」とは、主に都市風景の写実を中心とした句を指す言葉で、そこに「庶民」の感性や感情が表れている(と信じられている)ものである。それなりに分かりやすいと思うが、それが「伝統川柳」と呼ばれるようになった経緯を共有する必要があるとも感じる。というわけで、この文の前半ではそれを行う。
まず、「伝統川柳」は「古川柳」ではないし、「伝統的な川柳」のことでもない。また「古川柳っぽい今の川柳」でもない。「古川柳」という言葉で近代以降言い表されるのは、初期の『誹風柳多留』の句である。『誹風柳多留』は、江戸中期に活躍した前句付点者、柄井川柳が「川柳点万句合」で選んだ句から、一句独立して読めるものを選りすぐって(また一句独立して読めるように少し手を加えて)出版されたもので、初代川柳の死後も、かなり内実を変えながら幕末まで刊行が続けられた。明治以降になり、初代以降の「狂句」化した作品は面白くないという評価が下され、ただし、初期『誹風柳多留』には風情のある句が多く、また江戸期の風俗の知見をえる上で重要であるということで、再評価・再読が進んだ。まとめると、「古川柳」=初期『誹風柳多留』の句ということである。
また、「川柳」がジャンル名として定着するのは、「古川柳」の時代よりはるか後、前句付興行や『誹風柳多留』出版の基盤だった江戸文化が崩壊して以降である(「川柳」の語が使われなかったわけではないが、一般的なジャンル名として定着はしていなかった)。ジャンル名としての「川柳」は、明治末期から、正岡子規の俳句・短歌の革新に影響を受け、阪井久良伎・井上剣花坊らが「新川柳」という呼称で始めた動きが基となっている。久良伎・剣花坊が最初に選者をつとめたのは、 子規の改革の基盤でもあった新聞「日本」であり、また「讀賣新聞」などで選者として活躍した窪田而笑子の影響も大きく、つまり、明治に入って近代的な国家規模のメディアが成立する中で登場したジャンルだと言ってよい(「俳句」もまたそうだと私は思うがどうだろう)。
そして、久良伎・剣花坊・而笑子らが新ジャンル創設において(本人たちは「古川柳」の復興と考えていたかもしれないが)参照したのが、「古川柳」=初期『誹風柳多留』の写実句だった。この写実句だけを抜き出して模範とした、つまり、初期『誹風柳多留』をまるごと参照したというわけではないというのが重要なところである。
『誹風柳多留』初篇から冒頭の二句をとって説明しよう。
五番目は同じ作でも江戸産れ
かみなりをまねて腹掛やっとさせ
二句目は、「腹掛」は子供がお腹を冷やさないための布、つまりは今の腹巻のことだ、と簡単な説明をつければ(あるいはつけなくても勘の良い人ならそのままでしばらく読み直せば)、現代の子育てにも共通したところも見えてきて共感をもつことができるだろう。想像力を働かせれば、江戸という都市の狭苦しい住環境で子育てに苦労している親の姿を映像として思い描くことができる。これが近代以降の川柳が模範とした写実句の一例である。
一方、1765年から75年間で計167篇刊行された『誹風柳多留』の初篇、その記念すべき第一句は、現代人にはその意味を注釈なしで理解することは不可能である。「五番目」とは何のことなのか句の中にまったくヒントがなく、この句だけを眺めていても時間の無駄である。古川柳の注釈書を参照すると、これは江戸時代に流行った「六阿弥陀詣」で回る同じ木から彫り出されたとされる阿弥陀様のうち、五番目は江戸にあるよ、という意味だとのことである。
意味が注釈なしでは分からないという以上に重要なのが、注釈で意味が分かってもこの句の面白さを、初代川柳と同時代の江戸っ子たちが味わったように味わうのが不可能だということである。もっと言えば、この句が冒頭に置かれているのは、つまり、この句が分からないような人間はそもそも読者として想定されていなかった、また、分からない田舎者や馬鹿や古臭い知識人とは違って俺たちは新しい江戸の風情を共有できる仲間だ、というのが、川柳点前句付、特に『誹風柳多留』に関わる人々の思考だったということである。川柳が「庶民」の詩であると当たり前であるように言われてきたが、実際は、江戸という地域の先端的(と本人たちが思っていた)感性を共有している一定水準以上の知的エリートたちの慰みであったことは、しっかり確認しておいた方がよい。それ以前の上方(京都・大阪)中心で古典に真面目に範を仰ぐことをよしとする文化から、新興地域の江戸の「今」を味わう文化へ、その移行の時点で体験された解放感が初期『柳多留』を、現在に読んでも心の弾みのおきる箇所のあるような文化的財産としているのだ。
さて、近代以降の「伝統川柳」は、「五番目は同じ作でも江戸産れ」やさらに注釈が必要となる謎々の句をある意味見ないようにして、「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」の方向だけを抜き出し、模範とした。その背景にあるのは、近代化によって生み出された「日本国民」の平等性という意識である。実は、『誹風柳多留』初篇の時点では、「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」を面白いと思えたのは、古典の縛りを抜け出して、積極的に江戸の町の日常を楽しみ、また他の地域の文化より上と考えるようになった、つまりかなり地域的に、知的に限定された人々のはずなのだが、間に挟まった「狂句」時代の否定を通して、また社会体制の変化を背景として、そうした限定を解除し、これは「庶民」の描いた「庶民」の姿でそれがよい、私たちも同じことをするのだ、と誤読に基づいた飛躍がなされた。
この辺りは大きな事情としては、俳諧から俳句への変化とも共通するところが多いだろう。子規の写生が西洋画の用語の借用であり、それが新聞という媒体によって、これまでの旧派の地域ネットワークを飛び越して「日本国民」に共有しやすかったことが、現代の俳句のスタンダードを作っている。川柳においても、近代における江戸人(しかも「粋」が分かる男性」)限定の視線を基としていたものが、「国民」(ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」としての)のそれに拡大され、また川柳特有の事情として「庶民」化されたのである。
このように初期柳多留の一部の傾向(確かに後の世から見て面白い部分ではあるのだが)を抜き出して始まった「新川柳」は「川柳」と名前を変えながら、大正から昭和初期にかけて都市部の若者らも引きつけて、その中から後に「六大家」と呼ばれるようになる有望作家・論者が登場してくる。彼らをリーダーとするグループが寄った雑誌を、前後の展開がある場合はそれも含めてノートしておく。
・ 「番傘」(西田当百・岸本水府(1892-1965)、1913年(大正2年)←「関西川柳社」(今井卯木、1909年(明治42年)))
・ 「ふぁうすと」(椙元紋太、1929年(昭和4年))
・ 「川柳雑誌」(麻生路郎、1924年(大正13年))→「川柳塔」(1965年(昭和40年))
・ 「川柳研究」(「国民川柳」川上三太郎、1930年(昭和5年))、1934年に改名←井上剣花坊)
・ 「川柳きやり」(村田周魚、1920年(大正9年)←井上剣花坊「柳樽寺派」1905年(明治38年)結成)
・ 「せんりう」(前田雀郎、1936年(昭和11年)←阪井久良岐「久良岐社」1904年(明治37年))→「川柳公論」(尾藤三柳、1975年(昭和50年))
これらの作家、グループは主張や作品傾向の違いは少しずつあるものの、初期柳多留の写実句を模範として「庶民」の姿を表現するということでは一致している。この流れに各地方の結社が集まって現在まで続いているのが、制度としての「伝統川柳」といってよいだろう。
確認しておきたいのは、今からは古臭くも見える「伝統川柳」(岸本水府はこの語を嫌って「本格川柳」と言い、「番傘」は現在でも〈本格川柳 牙城!〉をキャッチフレーズとしているが、現在のところその意味は「伝統川柳」と変わらないと見えるので、水府には気の毒だがここでは「伝統川柳」で統一する)は、それが勢いのあった時代には、都市部を中心に、若者をも惹きつける文化として機能していたということである(田辺聖子の岸本水府伝『道頓堀の雨に別れて以来なり』が参考になるのでご一読を)。昭和初期の「新興川柳」や第二次大戦後の前衛川柳といった動きには「伝統川柳」は古い、という意識をもった人々が参画していたが、そうした運動はどちらかといえば、関東や関西といった日本の文化的中心から外れた地域で盛んだった。一方、都市部で「伝統川柳」を書く人の目の前には、近代~第二次世界大戦後という時代の流れでダイナミックに変化していく新しい状況があり、それをどちらかと言えば単純な(と一見思える)「写実」という技法で即興的に書き留めるのに忙しかったのである。
文芸的・技法的な改革よりは変化を続ける同時代の社会を写実することのほうに新しみがあり、人を惹きつけた。その例として一番分かりやすいのは、戦前・戦後にかけての「番傘」グループの隆盛だろう。その時代の成果を岸本水府監修、番傘川柳本社編『類題別 番傘川柳一万句集』(創元社、1963年)からあげておく。
第一球風船と鳩遠くなり 歴青
目の前に帽子を取った久しぶり 凡柳
一家全滅ですわと電話からも咳 凌甲
ベルがあるから押し売りもベルを押し 狂声
割りばしから生まれたように爪楊枝 一朗
鍋借りたお礼は鍋に入れてくる 純生
商標の消えたミシンでよく稼ぎ 舎人
フラフープやはり引力には勝てず 暁
六階へ上がるうどんと乗合わせ 萬楽
お好み焼かこむ俗論愛すべし 賛平
やけ酒のとめ手がないもさびしそう 紫苑荘
新大阪ホテルを抜けて立飲屋 水府
生ビール星がウインクしてくれる 狂雨
上手下手ラムネ一本飲むにさえ 唯義
とどめさすようにたばこを踏みにじり 丹平
上燗屋ヘイヘイヘイと逆らわず 当百
決心がつかず子犬に手を嚙ませ 桂花
また金魚買って一年くり返し 蜻蛉
いま水が出るぞとホースのたを打ち 弓夫
洛北の虫一千をきいて寝る 水府
つり皮をたどり知ってる顔へ来る 可明
スクーターとまった足が土を踏み ひさし
こうした作品は初期柳多留の写実句に範をとった「庶民」的日常詠という「伝統川柳」の〈理念〉に沿いながら、確かに、初期柳多留の句と同様、時代を越えた意識の弾みといったものを感じさせる佳句である。
と同時に、「新大阪」「洛北」といった語の使用からは、一般(=「庶民))に「一読明快」な句を目指したはずの「番傘」句は、大阪(を中心とした関西)という地域性と深く関わってもいた(=大阪についてのあれこれが分かる人間を読者としていた)ことが分かる。先ほども名前をあげた田辺聖子は「番傘」の愛読者であり、「番傘」句のもっとも優れた紹介者だが、彼女の読みは古き良き大阪を句と共有していることが基盤となっている。藤沢桓夫・橘高薫風編『カラーブックス 川柳にみる大阪』(保育社、1985年)という本があり、「番傘」川柳と大阪の結びつきを写真もつけて見せてくれている(古本で手に入りやすいので、川柳に興味がある方はぜひご入手を)。「「番傘」は「伝統川柳」の最大の結社となり、現在も多数の同人を集めているが、ある意味で、江戸期の柳多留があくまで江戸人による江戸人による出版物であったのと、あまり変わらないところがある。「庶民」の生活や哀歓を描くといっても、その共有には実質的な基盤として、都市や地域といった「場」が必要なのだろう。
とはいえ、上にあげたような「番傘調」の佳吟は現在また未来でも読み継がれてゆく価値があると思う。残念なことは(私の目の届く範囲からの判断ではあるが)、こうした魅力的な句が「伝統俳句」を謳うグループにおいても少なくなっていくことだ。『番傘川柳一万句集』は大結社「番傘」の総力をあげた企画(のはず)で、上に引用を行った最初のものから20年おきに「続」「新」と出版がつづき、つい昨年(2023年)に、「第4集」が刊行されている。私がもっているのは、3番目の「新」までだけだが、今回、佳句を選ぼうとして、磯野いさむ監修、番傘川柳本社編『続・類題別 番傘川柳一万句集』(創元社、1983 年)をペラペラとめくっていたのだが、すぐにその気が失せてしまった。第一集(1963年刊)はページをめくるごとにおっと目を引く句があり、それを抜いていくのも楽しいのだが、第二集にあたる「続」(1983年刊)、第三集の「新」(2003年刊)は、写実味が少なく、ありふれた思いつきを書いているだけ、しかも無駄な語も多い句が並んでいてうんざりさせられる。60年代からいったい何があったのだろう、と不思議に思う。不思議に思いながら、いや、何にもなかったからこうなっていったのかな、というのが答えのような気もする。「理念」としては写実を重んじるとしながら実際の句の吟味を怠るようになったから、と外部からは見える。
「第4集」を読んで21世紀に入ってからの展開を確認したいが、「番傘」のウェブサイトによると、「類題別 番傘一万句集 (第4集)購入希望の方は番傘誌巻末の申込用紙に住所、氏名必要部数を記入の上、ファックスで本社事務局までお申し込みください。送料は一冊の場合310円です。」ということである。厳しいことを書くと、現在でも川柳界を代表する大結社の「番傘」が一般流通ではない出版を選んでいることは非常に残念である。
時評っぽくないことを長々と書いてしまったが、一般には「伝統川柳」がほぼ見えないようになったまま新しい川柳への動きが出てきているのが現状である。できれば、明治からの歴史の厚みをもつ(はずの)「伝統川柳」も今からの川柳に合流してほしい。
最後に、最近川柳を書き始めた人たちの作品から、「写実」が効果的に用いられている句を紹介しておく。
電線と電線の影とあやとり 佐々木ふく
一人ずつテーマカラーのある社員
暴力を見たり聞いたり笑ったり
じっと見るうちに終わっていく喧嘩
転職をすすめる冬のエレベーター
実家の上を飛んだ 土が見ている 小野寺里穂
ほっぺたの肌理さわがしい今日のばくはつ
ジェラートの形に沿って伸びる息
稜線になって見下ろす耳の穴
上映されないシーンで昼寝
# 小野寺里穂川柳句集『いきしにのまつきょうかいで』他より
真実か挑戦かまだ軋む椅子 太代祐一
擦れてるエレベーターの開ボタン
星々がむせる背中をさすってる
シャッターを切るたびに崩れるケーキ
殺到 恋人達 耳へ