「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評179回 令和の仕事俳句鑑賞 三倉 十月

2024年02月28日 | 日記
 今春も我が社に新入社員が入ってくるとの連絡を、新人向け部門紹介研修の依頼と共に受け取った。私の部署は例年新入社員を回して貰えず、今年もメンバーが変わる予定はないが、その知らせだけでも、少しフレッシュな気持ちになるものだ。そんなフレッシュな春の気分をそのままに、今回はお仕事の俳句の鑑賞をしてみたい。

 自分が普通の会社員をしているせいで「仕事俳句」というと、どうしても会社勤めの句を思い浮かべがちだが、前半はできるだけ幅広く、様々な仕事の句を鑑賞してみたい。近い将来、多くの仕事がAI奪われると言われて久しいが、こうして見ていくと生成AIにもできない仕事はまだまだ多くありそうである。


プール監視員ごく浅く腰掛けてをり トオイダイスケ

 この句の「ごく浅く」には、もし何かがあったら即走れるように常に備えている緊張感とプロ意識が伝わってくる。きっと彼または彼女の視線は人でごった返すプールの水面にあるのだろう。溺れるのは一瞬だから、気を抜くことはできない。楽しいレジャーの傍にいる命の番人だ。こうした監視員さんがいるおかげで、小さな子を持つ我が家も安心してプール遊びができる。生成AIにはできない仕事だ。


巫女それぞれ少女に戻る夏の月 津川絵理子

 身近に見たことがある巫女さんと言うと、お守りを売ったり、おみくじの対応をしたり、どこか初々しい姿が浮かぶ。結婚式の手伝いなども行うらしい。例えアルバイトでも巫女の装束を身に着ければ、背がしゃんと伸びることだろう。神様の使いが、私服に戻り、ふと零す少女らしい笑み。清廉な夏の月が優しい。


遠足の列後ろから寄せにけり 前田拓

 さて、勉強を教えるだけが先生の仕事ではない。特に小学生。わいわいとあっちにこっちにはみ出そうになる遠足の列を、後ろからどうにかこうにか片側に寄せて、すれ違う人にあいさつして、人数確認しつつも、子供のペースに合わせてえっちらおっちら行く。子供たちにとっては楽しいだけの遠足も、先生たちからしたら大変なお仕事だ。


アイドルに林檎を囓る仕事かな 野口る理

 アイドルだって、歌ったり踊ったりするだけじゃない。想像だが、このアイドルは地方で活躍するご当地アイドルなのではないか。イベントで名産の林檎を誰よりも美味しそうに囓ってみるのも大事なお仕事。「私を育ててくれたこの地の林檎、囓るのは任せてください!」と、アイドルの矜持と地元の愛を感じるひと囓りを見せて欲しい。


梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 野口る理

 この句をお仕事俳句として取り上げるのはどうなのか、と思われるかもしれないが、一応忍者は立派な仕事だし、仕事中の忍者の句だし、それよりなにより、私はこの句が大好きなので、ぜひここで鑑賞させていただきたい。天井裏に身を潜めて、諜報活動に勤しむ忍者。しかし時刻は丑三時。ターゲットはもしかしたら、天井裏に忍者がいるとも思わずぐっすり寝ているのかもしれない。人の寝息を聞いて居ると、忍者と言えども眠くなる。梅雨の肌寒さが、唯一、寝落ちを防いでくれる。しかし雨音もそれはそれで眠くなるものだが。頑張れ忍者。AIの忍者は、もうどこかにいそう。


長き夜のメイド喫茶のオムライス 小川軽舟

 少しずつ夜が長くなってくるとある秋の夜に、メイド喫茶にオムライスを食べに来た。それだけの景であるが、どこかしみじみとする。しかし、メイド喫茶と言えばオムライス。ケチャップでどんなメッセージを描くか、ちょっとした絵まで描くのか、技量が問われる。これも立派なメイドのお仕事なのだ。大昔に一度だけメイド喫茶に行った時に「せふぃろす」と書かれたオムライスが出てきたのも良い思い出だ。


元日の交番暮れて灯りけり 小川軽舟

 警察の仕事は年末年始も関係ないことは、もちろん知ってはいる。それでもいつもよりどこか静かな町の中で、交番に明かりが灯っているのを見ると、あ、お巡りさんいるんだな、と少しホッとするような気もする。この、日常の土台にある小さな安堵こそが、警察が守ろうとしているものであってほしいなと思う。


自動ドア止めて門松立てにけり 千野千佳

 はっとした。うちのマンションにも年末になると、ロビーのクリスマスツリーが片づけられるのと同じタイミングで、ささやかな門松が飾られている。当然、それをお仕事として飾り付けてくれる管理人さんがいるからなのであるが、この句を読むまで、そこまで意識が及んでいなかった。管理人さん、いつもありがとう。作者のまなざしが優しい。


アナウンサー早口となる厄日かな 西村和子

 何か大きな事故か災害があったのだろう。予定していたのとは違うニュースを読むアナウンサーの口調から、報道現場に走る緊迫感が伝わってくる。直近では、能登半島地震当日のニュースのことを思い出す。強い口調で、津波から逃げるように繰り返し呼び掛けていたあのアナウンサーは、いったい何人の命を救ったことか。それを正しく数えることはできなくても、津波の恐怖は多くの人の心のに染み付き、その影響はきっとこれからも続く。命を救い続けるのだ。


 さて、ここからは会社員の景をいくつか。


オンライン会議制止しててふてふ 関根かな

 この句は私の仕事の場面に最も近い。コロナ禍以降はほぼリモートワークで、毎日何かしら社内の、あるいは客先とのオンライン会議に勤しんでいる。このオンライン会議、自分がメインで話している時は良いのだが、自分にあまり関係ない話題の最中は、視線がふらふらしてしまうことは否めない。そして、ベランダのレモンの木にひらひらしている蝶々なんかを見ている。関係ない話に表面上の相槌を打つより蝶々を見つめる方が、私の人生には重要なのだから、どうか許して欲しい。


大根や背広を着れば誠実に 山口遼也

 徐々に変わってきているとはいえ、背広はまだまだ会社員の制服のような存在だ。そして、それを着る理由は簡潔にこの通り。どんな人でも背広を着れば、それなりに誠実に見えるから。それが、背広が元来持っている効能なのか、それとも長年の刷り込みによるものなのかはわからない。大根の愚直さが、とてもよく合っている。


夜勤者に引き継ぐ冬の虹のこと 西川火尖

 シフト制で、24時間を回している大変なお仕事。日勤者から夜勤者へ、毎日小さいものから大きなものまで、色んな引継ぎがある。そこで引き継がれる虹の話。ささやかだけど、何よりも大切な、虹の報告。それを伝えてくれる、あるいは、受け取ってくれる同僚がいることは、互いにとてもうれしいことのような気がしている。


花人や社畜社畜と笑ひ合ひ 松本てふこ

 職場での飲み会は気重なことも多いが、気の置けない同僚と飲みに行くのは楽しい。この句はどちらかと言えば後者なイメージ。職場の愚痴も出るけれど、なんだかんだで楽しく飲んでいる、社会人のお花見の景だ。


昇進も蟻もそれほど気にならぬ 舘野まひろ

 昇進しても仕事内容が大きく変わるわけでもなければ、給料も大して上がらない。そんな状況であれば、昇進も確かにそんなに気にならない。手の上を歩いている蟻も、気づかなければ、何も感じなかったりする。ただ、意識し始めると、どちらも少しは気になる。気にならないけど、気になる。そんな距離感を、この句からはよく感じる。


六百回目の給与明細月朧 前島きんや

 当たり前のように、仕事をする日々も、いつかは終わりが来る。とてつもなく長いようで、あっという間であるようにも感じた50年目の給与明細である。50年前から今までと考えると、その仕事人生は高度経済成長期の終わり頃からバブル景気、そしてその後の長い平成不況の時期と重なる。色んな出来事があった。しかし全て過ぎ去った今、それらは朧に霞む。ずっと見守ってくれていた月の明かりが、ぼんやり、どこか温かく感じる。



出典
角川俳句 2023 年 11 月号(株式会社 KADOKAWA)
炎環 No.522 (2023年1月 35周年記念号)
秋草 164号(2023年8月号)(セクト・ポクリット「【結社推薦句】コンゲツノハイク【2023年8月分】」より)
https://sectpoclit.com/mois202308/

『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(左右社)佐藤文香編著
『女の俳句』神野紗希(ふらんす堂)
『俳コレ』週刊俳句(邑書林)
句集『無辺』小川軽舟(ふらんす堂)
句集『汗の果実』松本てふこ(邑書林)
句集『サーチライト』西川火尖(文學の森)
句集『紺の背広』前島きんや(紅書房)

俳句時評178回 多行俳句時評(10) 出会い損ねる詩(4) 斎藤 秀雄 

2024年02月03日 | 日記

 この「出会い損ねる詩」と題された多行俳句時評は全四回の依頼で、今回が最終回である。第一回から、酒卷英一郞作品を読んできた。今回もそうだ。初回は『LOTUS』創刊号掲載の連作「阿哆喇句祠亞」シリーズの14作目から始まった。今回は同じく「阿哆喇句祠亞」シリーズの27作目から30作目まで、かいつまんで読む。なんとも中途半端なところから始まり、中途半端なところで終わってしまう。この中途半端な感触、宙吊りの感触、もっと読むことができればよいのにと思いながらも象の一部を撫でて終わってしまうもどかしさこそ、「詩と出会い損ねる」という、この一連の稿で私が提示しようとした、「詩に向き合う態度」そのものであるから、もしもこの感触が読者に伝わっているなら、ひとまず私の試みは這々の体ながらも成功したと言えるのではないか。
 出会い損ねると言いながらも、謎解きをして、一定の読解を提示してきたではないか、それで終りではないにしても、詩を読むとは、それで十分ではないか――とご批判を受けるかもしれない。しかしまあ、この連載で取り上げた作品は、恣意的なピックアップの結果であるし、「何か言うことができそう」と思ったものを拾い上げたというだけである。いまでも半分以上の酒卷俳句は、私には手も足も出ない。そうしたことも、多くの読者にはすでにバレバレであろうけれども……。
 いま、私の脳裏には、数名の俳人の名が思い浮かんでいる。まず、大岡頌司。大岡の作品は、安井浩司の作品に似ている。もちろんこれは倒錯した感じ方であって、安井の作品が大岡頌司の作品に似ていると述べた方が適切な場合もあろうし、あるいはたんに一定の言語領域を共有した二人の俳人がいた、と述べる方が適切なのだろう。次に、木村リュウジ。酒卷氏に私淑していた木村リュウジの作品は、大岡作品と酒卷作品に似ている。このことは当人も認めていたところである。ところが不思議なことに、酒卷作品は、大岡作品にも木村作品にも似ていない。安井浩司の影響が、影が、見出されないと言えば嘘になるが、同じ語彙を用いていても酒卷作品においては異なるテクスチャ――酒卷語、としかいいようのない独特の肌理――を湛えることになる。あえて挙げれば、私にはむしろ加藤郁乎の作品に向き合うときの感触が、酒卷作品において少なからず蘇ってくるように感じられるのだ。見た目のうえではまるで異なるにしても。これは、つねに書き換えられるべき、私の個人的な脳内地図の記述に過ぎないから、読者諸賢の役に立つものではないかもしれない。
 ダラダラと私情を述べてしまった。最終回をさっそくはじめよう。なお、酒卷氏の作品において、表記は一貫して正書法が用いられているが、文字コードやフォントの都合上、表示しえないものは、それぞれ新字体に改めた。

入らずんば
ここが鼠穴か
言の葉の

『LOTUS』第10号(2008年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXⅦ」より。謎めいていると同時におかしみがある。《入らずんば》ということは、入らないのであろうか、それとも「虎子を得ず」の慣用句に従い、入るべきだと考えているのだろうか。しかし虎穴ではない。《鼠穴》である。入ってみたところで、得られるのはせいぜい「鼠子」であって虎子ではないだろう。それでも誘引力の強い《》である。この段階では、三通りの含意があるかもしれない。(1)豊潤な《言の葉》の内側へ入ってみたところで、我々にはせいぜい鼠子しか得られない(「我々にはせいぜい鼠」に力点)。(2)魅力的に見える《言の葉》の内側にはたかだか鼠子がいるだけである(「言語にはたかだか鼠」に力点)。(3)入らないことによって《》は在り続け、魅力的にも、あるいはつまらないものにも見えるアンビバレントなものであり続ける。
 少し深読みしよう。《鼠穴》の元ネタは落語の演目「鼠穴(ねずみあな)」ではないか。あらすじはWikipediaの同項目の通りだが、本作にとってのポイントは二つ。(1)蔵の鼠穴を塞ぐのを怠ったために火がつき、主人公は全財産を失ってしまう。(2)このことは、あまりに鼠穴を気にしていたために見た夢であったこと。この深読みにおいてもまた、感触はアンビバレントなものとなる。《鼠穴》は塞がれるべきなのか――《言の葉》を守るために。はたまた、一挙に転覆するためのチャンスが訪れているのか。私はとうぜんながら後者、言語破壊を志すものであるのだが、きっと言語とは、暗殺しようと背後から近づくと、いつのまにか私の背後に回っている、自分の影のようなものに違いない。そしてまた、その穴は、気にしすぎるがゆえに自らを苦しめるものであり、夢のなかにしか現れないものでもある。穴に入ってしまえば、穴は消えるのだろう。それは《言の葉》と抜き差しならない関係を保とうとする詩人――言語をメディウムとする場合の詩人――にとっては、不可能なことだとも言える。
 余談を付け加えておこう。本連作の一つ前の句は《元朝も/はやも寢濃しの/寢棲みなる》、一つ後の句は《鼠鳴きの/不寢權現の/夜の物》となっている。前者は「寝濃い(寝坊)」と「寝越し(寝だめ)」の地口、「寝住む(ずっと一緒に暮らす)」と「鼠」の地口、と読める。後者は「鼠鳴(鼠が鳴く)」と花柳界用語としての「鼠啼(客を呼ぶなど、多義的)」の地口、「根津」の地名の由来の諸説(「不寝権現(寝ずに神々の番をする神)」「鼠」など)に含まれる地口、「夜の物」の多義性(「夜着、夜具」と「鼠」)、と読める。いわば「鼠三昧」である。酒卷作品とツェラン――などと口走ることは、我田引水に過ぎるかもしれない。先に「酒卷語」と述べた。「酒卷語」に湛えられる感触=「鼠啼」の感触と、ツェランの「チューチュー語り(Mauscheln)」に湛えられている感触とが、同じものであるはずはないにせよ、分有されるなにがしかが、そこにあるように感じられるのも事実である。
 ツェランが「チューチュー語り」と述べたのは、かの散文作品「山中での対話」(一九六〇年)における、ツェラン自身とアドルノとの、架空の、実現しなかった出会いと対話についてである。よく知られるように、ツェランとアドルノは、共通の知人ペーター・ソンディを介して、一九五九年、スイスのシルス・マリアで面会する予定になっていた。一般には、ツェランの急用によってこの初めての出会いは延期されたのであるが、ヨアヒム・ゼングや細見和之のツェラン論においては、むしろツェランがあえて回避したとされる――七月、ツェランはアドルノ夫妻より一週間はやくシルス・マリアを離れ、八月に「山中での対話」を書き上げる。まさにそのために、実際の面会を回避した、というわけだ。
 二人のユダヤ人は翌一九六〇年一月に初めて出会うのであるが、以降の二人のやり取り(『アドルノ/ツェラン往復書簡1960-1968』ヨアヒム・ゼング編、細見和之訳)から察せられるように、ツェランの求める「ユダヤ人であること」の呼びかけに対して、アドルノは十分に応答できないという、「すれ違い」に終始している。裏切られた、とツェランが感じていたかどうかは分からないが、やり取りは決してツェランを元気づけるものではなかったと思われる。付言するなら、ツェランはシオニズムにもアンビバレントな反応を示しており、生涯イスラエルを訪問したのは一度きりだった。ツェランの言う(求めた)「チューチュー語り(Mauscheln)」とは何か。《ドイツ語のMauschelnは、Mausネズミ(二十日鼠)から来た言葉で、Mauschelといえば侮蔑的に「ユダヤ人」を指す名詞であり、動詞のmauschelnは「イディッシュ訛りで話すこと」を指している。もちろん、侮蔑的な響きがそこにはある。チューチュー鳴いているネズミのようにわけのわからない言葉を話している連中、ということだ。そういうイディッシュ訛りでのアドルノと自分の対話こそがあの作品〔「山中での対話」〕なのだ、とツェランは自ら語っていた》(細見和之「アドルノとツェラン――両者の往復書簡を手がかりとして」前掲『往復書簡』訳書所収)。
 ツェランが「ユダヤ人であること」を他者に求め、裏切られ、傷ついたように、酒卷氏は作品を通じて読者になにがしかの共有を求めている、とは言えない。少なくとも私の目にはそう見えない――これもまた、たんに私が「読めていない」からに過ぎないかもしれないが。酒卷作品とツェラン、という我田引水的な結びつけは、投瓶通信的なもの、という一つの共通項においてしか成り立たないかもしれない。しかしながら、その圧縮された言葉、極端な「訛り」、隔世遺伝的な語り(鼠啼)は、私の指先において、似たテクスチャを与えてくるのは、たしかなのである。

寂寞の
三つ四つから
初烏

『LOTUS』第11号(2008年)所収の連作「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXⅧ」から。一読、きわめてシンプルに書かれている。《三つ四つ》とは時刻かもしれないが(そしてそれを含意しつつ)、おそらく『枕草子』の冒頭を元ネタとしているのであろう。『枕草子』の諸本間には異同がきわめて多いが、現代よく読まれているいわゆる「三巻本」を底本とした、岩波文庫版から引用しておく。《秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり》。夕暮れに、塒へ帰るために烏が「三つ四つ、二つ三つ」とどんどん少なくなってゆく、という。清少納言が「あはれ(寂しい・哀しい)」と述べた景を、《寂寞》という俳言に丸め込んだ点が、掲句の新しみかもしれない。
 ここで、おや、と思わせるのは、一つには新年季語を用いながらも正月らしくない(めでたい感じがない)ということもあるが、ここでの《初烏》は夕暮れの景なのだろうか、という謎である。《三つ四つ》を時刻かもしれないと述べたけれども、一日を十二等分する十二支式の表現法だと、「三つ」は存在しない(九つから四つまで)。「丑三つ時」というように、一つの刻を四等分するときの《三つ》かもしれないけれど、このときは、「どの三つ」なのか分からない。つまり時刻と読んでも、時間帯を知るには役に立たないわけである。『枕草子』元ネタ説からするならば、夕暮れなのだが、夕方まで《初烏》が登場しなかったというのも考えにくい。この謎に答えはないのだが、朝の景だとするなら、《寂寞》のなかから少しずつ《初烏》が現れ、しだいに「やかましい!」と怒鳴りたくなるほど賑やかになる、と読めるし、暮れの景だとするなら、《寂寞》が《初烏》と共に増殖してゆく、なんともめでたくない、正月らしからぬ事態となるであろう。
 また余談になるのだが、現代ではきわめて有名な『枕草子』も、刊行されて三百年は文学史の外へ追いやられていたことを思うと、趣深い。三百年後の兼好法師が『徒然草』において(『源氏物語』と並列させて)言及したことにより、『枕草子』が初めて拾い上げられることになるわけだけれど、この『徒然草』自体が、広く読まれるようになるにはさらに三百年以上経過した江戸時代になってからであったこともまた、趣深い。兼好法師は歌人として著名だったから、『徒然草』はまず歌人のあいだで知られるようになる。しかしこれも、没後七十年経過してのことだった。江戸時代の歌人・俳人であった北村季吟が『徒然草文段抄』を記し、その七年後『枕草子春曙抄』を記した。『枕草子』も『徒然草』も広く読まれるようになったのは、それ以後のことである。島内裕子によるちくま学芸文庫版『枕草子』は『春曙抄』を底本とした、現在では珍しいものだが、島内によれば《昭和二十年代頃までは、「枕草子を読む」とは、基本的に、北村季吟の『春曙抄』を読むことであった》のである。島内は同書「はじめに」において蕪村の「春風のつまかへしたり春曙抄」を引用している。《春風が女性の着物の褄(つま)をふわりと優しく吹き返した、と詠み掛けて、実は『春曙抄』の冊子の端(つま)を春風がそっと吹き返した》というわけである。と、余談を続けてみて、おそらく、ここでの酒卷作品も、季吟を経由させた『枕草子』への参照を行っているのではないか、と思われてくる。

木が觸れて
鳥不止の
木に觸はる

『LOTUS』第12号(2008年)所収の連作「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXⅪ」(「XXⅨ」の誤植だろうか)から。一読して、一行目は「気が触れて」、三行目は「気に障る」と掛けられていることが分かる。《鳥不止》(とりとまらず)は多義的である。コトバンクの「精選版日本語大辞典」を引くと、五つの植物の「異名」とされている。これらのうちのどれかに決定する必要もないのだが、漢方薬においては「メギ科のメギ」とされているから(酒卷作品には漢方薬の名称が頻出する)、ここでは目木のことと読んでも差し支えないのではないか。目によいから目木。枝の鋭い棘が、いかにも「気が触れて」「気に障る」という質感を湛えているから、なおさらだ。
 本作の面白さは、《》と「気」を2×2のグリッドに配置したときに現れる、四つの系列の読み、すなわち「木‐木」「木‐気」「気‐木」「気‐気」の読みが、渾然としてくる点にある。書かれてある文字面は「木‐木」のみを示しているのだが、素直にそう読めるようには書かれていない――その読みを拒絶するわけではないにせよ。かといって、どのように読むべきなのか、この四つの系列のどれを選択すると腑に落ちる結果になるのか、これもまた結論づけることはできない。あえて言えば「気が触れて(頭がおかしくなったから)目木の木に触った(棘に触れると痛い、ということにも考えが及ばずに)」というストーリーは筋が通っているかもしれない。筋は通っているけれども、そのようにのみ読む読者は、いそうにない。決定不能な、それぞれに排他的な四つの意味の系列が、同時に到来する、その感触に、詩が宿っている。

腦喰む
鹿茸が蟲
今朝の冬

『LOTUS』第13号(2009年)所収の連作「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXX」から。《鹿茸》(ろくじょう)とはシカの袋角。滋養強壮の生薬とされる。『日本書紀』「巻第二十二」の推古天皇の段に《十九年の夏五月の五日に、菟田野に薬猟す》(岩波文庫版『日本書紀(四)』)とあり、「薬猟」の注釈によれば《鹿の若角(袋角)をとる猟。鹿茸といい、かげ乾しにして補精強壮剤にした。後世変じて薬草を採ることとなる》とある。気になるのは《腦喰む》と《》であるが、これは『徒然草』が元ネタである。第一四九段を全文引用する。《鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり》(角川ソフィア文庫版)。事実ではないだろうが、かつてそのような言い伝えがあったのだろうか。
 それにしても『徒然草』という書物も謎に満ちた代物で、日本三大随筆の一つといえども、一段丸々このような「べからずのメモ書き」のようなものを、随筆と呼んでよいものか、悩ましいところがある。むろん「随筆」というジャンルによる分類は近世~近代によるものであって、当時、ジャンル意識はなかった。兼好法師という人物についても謎が多く、家系図をはじめ、多くの人物像が没後捏造されたものである(詳しくは小川剛生『兼好法師』を参照――これもまた余談であるけれども)。かの語義未詳の「しろうるり」が登場するのは六十段で、人の容姿の形容として言われるのだが、《さる物を我も知らず》というのだから、ほとんど落語の構想メモのように思われてくる。そう言えば、大岡頌司にも木村リュウジにも「しろうるり」を詠んだ作品があった。酒卷作品にあったかどうか……覚えていない。
 本作には謎といえるほどの謎はない。あえて挙げれば「薬狩り」も「袋角」も夏の季語であるのに、三行目で一挙に立冬に移行するのは何故か、という点だろうか。しかしこれも、鹿・茸・虫、と秋の季語を二行目に配置し、改行によって季節を移行させる、という超絶技巧に気づくことができれば、それでよいのではないだろうか。
(了)


俳句時評177回 川柳時評(10) 「伝統川柳」について 湊 圭伍

2024年01月28日 | 日記
 「伝統川柳」という言葉がある。川柳としばらく付き合っているとよく聞くようになる言葉だが、そうでない人には何のことだか分からない。分からないで終わればよいが、だいたいは誤解して分かったつもりになるだろう。「伝統」的な「川柳」ね、ふーん、江戸時代からあるからね、といった感じで。ややこしいのは、この言葉をしきりに使う人、特に「自分は伝統川柳をやっています」という人の中にも、この言葉とそれで表されるぼんやりとした領域がどのように成立したのかが分かっていない、あるいは知識として分かってはいるが自身の句作という実践とは結びついていない人が多いように見受けられることだ(同じようなことが「伝統俳句」にも言えるけれども、こちらはまだ俳句界隈以外からも事情が分かりやすいと思う)。 
 私なりにまとめると、「伝統川柳」とは、主に都市風景の写実を中心とした句を指す言葉で、そこに「庶民」の感性や感情が表れている(と信じられている)ものである。それなりに分かりやすいと思うが、それが「伝統川柳」と呼ばれるようになった経緯を共有する必要があるとも感じる。というわけで、この文の前半ではそれを行う。 
 まず、「伝統川柳」は「古川柳」ではないし、「伝統的な川柳」のことでもない。また「古川柳っぽい今の川柳」でもない。「古川柳」という言葉で近代以降言い表されるのは、初期の『誹風柳多留』の句である。『誹風柳多留』は、江戸中期に活躍した前句付点者、柄井川柳が「川柳点万句合」で選んだ句から、一句独立して読めるものを選りすぐって(また一句独立して読めるように少し手を加えて)出版されたもので、初代川柳の死後も、かなり内実を変えながら幕末まで刊行が続けられた。明治以降になり、初代以降の「狂句」化した作品は面白くないという評価が下され、ただし、初期『誹風柳多留』には風情のある句が多く、また江戸期の風俗の知見をえる上で重要であるということで、再評価・再読が進んだ。まとめると、「古川柳」=初期『誹風柳多留』の句ということである。
 また、「川柳」がジャンル名として定着するのは、「古川柳」の時代よりはるか後、前句付興行や『誹風柳多留』出版の基盤だった江戸文化が崩壊して以降である(「川柳」の語が使われなかったわけではないが、一般的なジャンル名として定着はしていなかった)。ジャンル名としての「川柳」は、明治末期から、正岡子規の俳句・短歌の革新に影響を受け、阪井久良伎・井上剣花坊らが「新川柳」という呼称で始めた動きが基となっている。久良伎・剣花坊が最初に選者をつとめたのは、 子規の改革の基盤でもあった新聞「日本」であり、また「讀賣新聞」などで選者として活躍した窪田而笑子の影響も大きく、つまり、明治に入って近代的な国家規模のメディアが成立する中で登場したジャンルだと言ってよい(「俳句」もまたそうだと私は思うがどうだろう)。
 そして、久良伎・剣花坊・而笑子らが新ジャンル創設において(本人たちは「古川柳」の復興と考えていたかもしれないが)参照したのが、「古川柳」=初期『誹風柳多留』の写実句だった。この写実句だけを抜き出して模範とした、つまり、初期『誹風柳多留』をまるごと参照したというわけではないというのが重要なところである。
 『誹風柳多留』初篇から冒頭の二句をとって説明しよう。

五番目は同じ作でも江戸産れ
かみなりをまねて腹掛やっとさせ


 二句目は、「腹掛」は子供がお腹を冷やさないための布、つまりは今の腹巻のことだ、と簡単な説明をつければ(あるいはつけなくても勘の良い人ならそのままでしばらく読み直せば)、現代の子育てにも共通したところも見えてきて共感をもつことができるだろう。想像力を働かせれば、江戸という都市の狭苦しい住環境で子育てに苦労している親の姿を映像として思い描くことができる。これが近代以降の川柳が模範とした写実句の一例である。
 一方、1765年から75年間で計167篇刊行された『誹風柳多留』の初篇、その記念すべき第一句は、現代人にはその意味を注釈なしで理解することは不可能である。「五番目」とは何のことなのか句の中にまったくヒントがなく、この句だけを眺めていても時間の無駄である。古川柳の注釈書を参照すると、これは江戸時代に流行った「六阿弥陀詣」で回る同じ木から彫り出されたとされる阿弥陀様のうち、五番目は江戸にあるよ、という意味だとのことである。
 意味が注釈なしでは分からないという以上に重要なのが、注釈で意味が分かってもこの句の面白さを、初代川柳と同時代の江戸っ子たちが味わったように味わうのが不可能だということである。もっと言えば、この句が冒頭に置かれているのは、つまり、この句が分からないような人間はそもそも読者として想定されていなかった、また、分からない田舎者や馬鹿や古臭い知識人とは違って俺たちは新しい江戸の風情を共有できる仲間だ、というのが、川柳点前句付、特に『誹風柳多留』に関わる人々の思考だったということである。川柳が「庶民」の詩であると当たり前であるように言われてきたが、実際は、江戸という地域の先端的(と本人たちが思っていた)感性を共有している一定水準以上の知的エリートたちの慰みであったことは、しっかり確認しておいた方がよい。それ以前の上方(京都・大阪)中心で古典に真面目に範を仰ぐことをよしとする文化から、新興地域の江戸の「今」を味わう文化へ、その移行の時点で体験された解放感が初期『柳多留』を、現在に読んでも心の弾みのおきる箇所のあるような文化的財産としているのだ。
 さて、近代以降の「伝統川柳」は、「五番目は同じ作でも江戸産れ」やさらに注釈が必要となる謎々の句をある意味見ないようにして、「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」の方向だけを抜き出し、模範とした。その背景にあるのは、近代化によって生み出された「日本国民」の平等性という意識である。実は、『誹風柳多留』初篇の時点では、「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」を面白いと思えたのは、古典の縛りを抜け出して、積極的に江戸の町の日常を楽しみ、また他の地域の文化より上と考えるようになった、つまりかなり地域的に、知的に限定された人々のはずなのだが、間に挟まった「狂句」時代の否定を通して、また社会体制の変化を背景として、そうした限定を解除し、これは「庶民」の描いた「庶民」の姿でそれがよい、私たちも同じことをするのだ、と誤読に基づいた飛躍がなされた。
 この辺りは大きな事情としては、俳諧から俳句への変化とも共通するところが多いだろう。子規の写生が西洋画の用語の借用であり、それが新聞という媒体によって、これまでの旧派の地域ネットワークを飛び越して「日本国民」に共有しやすかったことが、現代の俳句のスタンダードを作っている。川柳においても、近代における江戸人(しかも「粋」が分かる男性」)限定の視線を基としていたものが、「国民」(ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」としての)のそれに拡大され、また川柳特有の事情として「庶民」化されたのである。
 このように初期柳多留の一部の傾向(確かに後の世から見て面白い部分ではあるのだが)を抜き出して始まった「新川柳」は「川柳」と名前を変えながら、大正から昭和初期にかけて都市部の若者らも引きつけて、その中から後に「六大家」と呼ばれるようになる有望作家・論者が登場してくる。彼らをリーダーとするグループが寄った雑誌を、前後の展開がある場合はそれも含めてノートしておく。

・ 「番傘」(西田当百・岸本水府(1892-1965)、1913年(大正2年)←「関西川柳社」(今井卯木、1909年(明治42年)))
・ 「ふぁうすと」(椙元紋太、1929年(昭和4年))
・ 「川柳雑誌」(麻生路郎、1924年(大正13年))→「川柳塔」(1965年(昭和40年))
・ 「川柳研究」(「国民川柳」川上三太郎、1930年(昭和5年))、1934年に改名←井上剣花坊)
・ 「川柳きやり」(村田周魚、1920年(大正9年)←井上剣花坊「柳樽寺派」1905年(明治38年)結成)
・ 「せんりう」(前田雀郎、1936年(昭和11年)←阪井久良岐「久良岐社」1904年(明治37年))→「川柳公論」(尾藤三柳、1975年(昭和50年))

 これらの作家、グループは主張や作品傾向の違いは少しずつあるものの、初期柳多留の写実句を模範として「庶民」の姿を表現するということでは一致している。この流れに各地方の結社が集まって現在まで続いているのが、制度としての「伝統川柳」といってよいだろう。
 確認しておきたいのは、今からは古臭くも見える「伝統川柳」(岸本水府はこの語を嫌って「本格川柳」と言い、「番傘」は現在でも〈本格川柳 牙城!〉をキャッチフレーズとしているが、現在のところその意味は「伝統川柳」と変わらないと見えるので、水府には気の毒だがここでは「伝統川柳」で統一する)は、それが勢いのあった時代には、都市部を中心に、若者をも惹きつける文化として機能していたということである(田辺聖子の岸本水府伝『道頓堀の雨に別れて以来なり』が参考になるのでご一読を)。昭和初期の「新興川柳」や第二次大戦後の前衛川柳といった動きには「伝統川柳」は古い、という意識をもった人々が参画していたが、そうした運動はどちらかといえば、関東や関西といった日本の文化的中心から外れた地域で盛んだった。一方、都市部で「伝統川柳」を書く人の目の前には、近代~第二次世界大戦後という時代の流れでダイナミックに変化していく新しい状況があり、それをどちらかと言えば単純な(と一見思える)「写実」という技法で即興的に書き留めるのに忙しかったのである。
 文芸的・技法的な改革よりは変化を続ける同時代の社会を写実することのほうに新しみがあり、人を惹きつけた。その例として一番分かりやすいのは、戦前・戦後にかけての「番傘」グループの隆盛だろう。その時代の成果を岸本水府監修、番傘川柳本社編『類題別 番傘川柳一万句集』(創元社、1963年)からあげておく。

第一球風船と鳩遠くなり       歴青
目の前に帽子を取った久しぶり    凡柳
一家全滅ですわと電話からも咳    凌甲
ベルがあるから押し売りもベルを押し 狂声
割りばしから生まれたように爪楊枝  一朗
鍋借りたお礼は鍋に入れてくる    純生
商標の消えたミシンでよく稼ぎ    舎人
フラフープやはり引力には勝てず   暁
六階へ上がるうどんと乗合わせ    萬楽
お好み焼かこむ俗論愛すべし     賛平
やけ酒のとめ手がないもさびしそう  紫苑荘
新大阪ホテルを抜けて立飲屋     水府
生ビール星がウインクしてくれる   狂雨
上手下手ラムネ一本飲むにさえ    唯義
とどめさすようにたばこを踏みにじり 丹平
上燗屋ヘイヘイヘイと逆らわず    当百
決心がつかず子犬に手を嚙ませ    桂花
また金魚買って一年くり返し     蜻蛉
いま水が出るぞとホースのたを打ち  弓夫
洛北の虫一千をきいて寝る      水府
つり皮をたどり知ってる顔へ来る   可明
スクーターとまった足が土を踏み   ひさし

 こうした作品は初期柳多留の写実句に範をとった「庶民」的日常詠という「伝統川柳」の〈理念〉に沿いながら、確かに、初期柳多留の句と同様、時代を越えた意識の弾みといったものを感じさせる佳句である。
 と同時に、「新大阪」「洛北」といった語の使用からは、一般(=「庶民))に「一読明快」な句を目指したはずの「番傘」句は、大阪(を中心とした関西)という地域性と深く関わってもいた(=大阪についてのあれこれが分かる人間を読者としていた)ことが分かる。先ほども名前をあげた田辺聖子は「番傘」の愛読者であり、「番傘」句のもっとも優れた紹介者だが、彼女の読みは古き良き大阪を句と共有していることが基盤となっている。藤沢桓夫・橘高薫風編『カラーブックス 川柳にみる大阪』(保育社、1985年)という本があり、「番傘」川柳と大阪の結びつきを写真もつけて見せてくれている(古本で手に入りやすいので、川柳に興味がある方はぜひご入手を)。「「番傘」は「伝統川柳」の最大の結社となり、現在も多数の同人を集めているが、ある意味で、江戸期の柳多留があくまで江戸人による江戸人による出版物であったのと、あまり変わらないところがある。「庶民」の生活や哀歓を描くといっても、その共有には実質的な基盤として、都市や地域といった「場」が必要なのだろう。
 とはいえ、上にあげたような「番傘調」の佳吟は現在また未来でも読み継がれてゆく価値があると思う。残念なことは(私の目の届く範囲からの判断ではあるが)、こうした魅力的な句が「伝統俳句」を謳うグループにおいても少なくなっていくことだ。『番傘川柳一万句集』は大結社「番傘」の総力をあげた企画(のはず)で、上に引用を行った最初のものから20年おきに「続」「新」と出版がつづき、つい昨年(2023年)に、「第4集」が刊行されている。私がもっているのは、3番目の「新」までだけだが、今回、佳句を選ぼうとして、磯野いさむ監修、番傘川柳本社編『続・類題別 番傘川柳一万句集』(創元社、1983 年)をペラペラとめくっていたのだが、すぐにその気が失せてしまった。第一集(1963年刊)はページをめくるごとにおっと目を引く句があり、それを抜いていくのも楽しいのだが、第二集にあたる「続」(1983年刊)、第三集の「新」(2003年刊)は、写実味が少なく、ありふれた思いつきを書いているだけ、しかも無駄な語も多い句が並んでいてうんざりさせられる。60年代からいったい何があったのだろう、と不思議に思う。不思議に思いながら、いや、何にもなかったからこうなっていったのかな、というのが答えのような気もする。「理念」としては写実を重んじるとしながら実際の句の吟味を怠るようになったから、と外部からは見える。
 「第4集」を読んで21世紀に入ってからの展開を確認したいが、「番傘」のウェブサイトによると、「類題別 番傘一万句集 (第4集)購入希望の方は番傘誌巻末の申込用紙に住所、氏名必要部数を記入の上、ファックスで本社事務局までお申し込みください。送料は一冊の場合310円です。」ということである。厳しいことを書くと、現在でも川柳界を代表する大結社の「番傘」が一般流通ではない出版を選んでいることは非常に残念である。

 時評っぽくないことを長々と書いてしまったが、一般には「伝統川柳」がほぼ見えないようになったまま新しい川柳への動きが出てきているのが現状である。できれば、明治からの歴史の厚みをもつ(はずの)「伝統川柳」も今からの川柳に合流してほしい。
 最後に、最近川柳を書き始めた人たちの作品から、「写実」が効果的に用いられている句を紹介しておく。

電線と電線の影とあやとり      佐々木ふく
一人ずつテーマカラーのある社員
暴力を見たり聞いたり笑ったり
じっと見るうちに終わっていく喧嘩
転職をすすめる冬のエレベーター

 # 「川柳句会ビー面」投句より(ササキリユウイチ氏のnote参照)


実家の上を飛んだ 土が見ている   小野寺里穂
ほっぺたの肌理さわがしい今日のばくはつ
ジェラートの形に沿って伸びる息
稜線になって見下ろす耳の穴
上映されないシーンで昼寝
 # 小野寺里穂川柳句集『いきしにのまつきょうかいで』他より

真実か挑戦かまだ軋む椅子      太代祐一
擦れてるエレベーターの開ボタン
星々がむせる背中をさすってる
シャッターを切るたびに崩れるケーキ
殺到 恋人達 耳へ
 # 太代祐一X(旧Twitter)アカウントより



俳句時評176回 「殺すぞ」と言われる前に――町田康『入門 山頭火』を読む 谷村 行海

2024年01月04日 | 日記
「物書きの看板を上げておきながら山頭火も知らないでどうする。世の中をなめているのか。殺すぞ」

 2023年12月5日に春陽堂書店から刊行された『入門 山頭火』は、作者の町田康へ向けられた衝撃的な言葉から始まる。そして、この言葉を契機にして春陽堂書店の『Web新小説』に掲載された原稿をまとめたものが本書となる。
 『入門 山頭火』は二部構成で、第一部「解くすべもない惑ひを背負うて」は、山頭火が行乞に至るまでの来歴をまとめたもの。また、第二部の「読み解き山頭火」は町田康が山頭火の句を独自に解釈したものだ。
 周知のとおり、町田康は小説家であり俳人というわけではない。ゆえに正直なところ、専門外の人間が山頭火を解釈した本を読むよりも、同じく春陽堂書店から刊行されている村上護の『山頭火 漂泊の生涯』や中公文庫の石川桂郎『俳人風狂列伝』を読んだほうがよっぽど山頭火への理解が深まるのではないかという思いはあった。だが、タイトルにも「入門」とついている通り、この本は単純に解釈を求める本というわけではなく、あくまでも山頭火を知るきっかけの本。それも、山頭火という人間のことを幅広い層に伝え広めるという趣向の本という印象を受けた。

 単に山頭火の来歴などを紹介するだけでは、日ごろから俳句に親しんでいない人や山頭火にさして興味のない人はすぐにページを閉じてしまうだろう。ところが、町田康の手にかかればそうはならない。例えば、山頭火の援助をした兼崎地橙孫の説明は次の通りだ。

 この地橙孫という人は年は若いが、いやさ若いからこそ、伝統的な俳句をぶちこわして新しい俳句をガンガンやっていこうという過激派というか、パンクというか、そういうなかで目立っていて、熊本で、『白川及新市街』という雑誌を創刊して、まるで目黒で目白が爆裂したような俳句をこしらえて赤丸急上昇中のいかしたGuyであったのである。

 このように、町田康の小説を読んでいるときと全く同じようなパンチのある文章により、山頭火の来歴やそれにかかわる人物たちが紹介されていくのだ。そして、1つあたりの章は10ページ程度。パンチのある文章に良い意味で翻弄されていくうち、するすると山頭火の人生が頭に入っていく。これであれば、文体による好みこそあるかもしれないが、山頭火をよく知らない人間であってもとっかかりやすいことだろう。
 また、町田康自身が妙に自身なさそうな部分が随所に見られるのも好ましい。先に挙げた『山頭火 漂泊の生涯』の話が「いまのところこれしか読んでいないからこれにばっかり拠ってる」「困ったときの『山頭火 漂泊の生涯』頼み」「人と人の間にどのような感情の通交があったかは、いつ何時も解らない。うかがい知れない。ただ、銭金のことなら少しは解る。何故かというと村上護『山頭火 漂泊の生涯』を読んだからで」などといった具合に登場する。知らない領域のことを知ろうとするとき、一方的に断定的な書き方・言い方をされてしまうと辟易してしまう方も一定数いることと思う。だが、このような少しばかりの自身のなさのおかげで、山頭火を知ろうとしてこの本を読んでいる読者に近い立場で物事が言い表される結果となっており、読者は書かれた内容を受け入れやすいものとなっている。
 さらに、第二部の句の解釈についても、多数の句を取り上げるのではなく、5つの句だけに焦点を当てたのも入門としてとっかかりがいいように思う。俳句をよく知らない人からすれば、いきなり多数の句の解釈を言われたとしても、それがどういう意味かを瞬時にのみこむのは難しい。だが、句の数をしぼり、そして、その句の描かれた背景にあるものを丁寧に描くことによって一句への理解が深まり、ほかの句を読んでみようという前向きな気持ちも生まれてくる。
 このように『入門 山頭火』は、入門書としてはこれまでにないタイプのもので、多くの人に受け入れやすいものとなっている。「山頭火を知らないでどうする。殺すぞ」などと言われる前に一人でも多くの方がこの本を読み、山頭火を知るきっかけになってほしい。

俳句時評175回 令和のクリスマス俳句鑑賞 三倉 十月

2023年11月25日 | 日記
 サンクスギビングがあるアメリカと違って、11月に目立ったイベントがない日本では、ハロウィン終了と同時に街はクリスマスに変わる。今年も11月頭から都内の商業施設には大きなツリーが飾られ輝いていたが、夏日の暑い日があったりしたのでちぐはぐな感じは否めなかった。やはり2ヶ月もクリスマスで引っ張るのは無理があるのでは? と思うわけだが、それはそれとして、今回はクリスマスの句を鑑賞してみようと思う。

 日本のクリスマス。戦後の高度成長期に盛り上がって行った催事なのかと思いきや、明治29年に正岡子規がクリスマスを季語(季題)にしたとの記述を見つけた。折角なので、子規のクリスマスの句から始めたい。

八人の子供むつましクリスマス    正岡子規

 クリスマスの日に、子供たちが集まっている。それだけの景だが、病に伏している子規が、この賑やかさをどれだけ嬉しく思っているのかが伝わってくる明るい句だ。子規も子供たちと同じように、ウキウキとした気分になっているといいなと思う。

長崎に雪めづらしやクリスマス    富安風生

 こちらは昭和3年の、富岡風生のクリスマス句。長崎の町に、珍しく雪が降った。それだけならまだしも、クリスマスなのだから嬉しさも尚更だ。当時はまだホワイトクリスマスとは言わないかもしれないが、雪と夜景の長崎は、それはそれは美しいだろうと思う。

へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死男

 さて、クリスマスの句と言えば……で、有名なのがこちらの句。イメージとしては賑わう街の片隅にあるクリスマスとは無縁の食堂の景だ。どうやら外はクリスマスらしいが、自分には関係ないとワンタンを啜っている。この句が詠まれたのは昭和24年、終戦から5回目のクリスマス。サンフランシスコ講和条約まではまだ3年あるが、平和が日常になったことをを感じさせる。

 ちなみに、この句はクリスマスへのアンチテーゼのような形で紹介されているのを見かけることはあるが(それも理解できる)、秋元不死男本人は思いのほかクリスマスの句が多い。(クリスマス好き?)

目刺みな眼をくもらせてクリスマス 秋元不死男
点眼に額みどりめくクリスマス

 こちらの二句は、どちらかというとワンタンの句と同じで、日常のかなりどうでもいいことと、クリスマスが取り合わされている。ワンタンをすするほどのインパクトはないが、それでもクリスマスを詠みたかったと言うのは少し面白い。ただ、二句目の「額みどりめく」のは、のけぞった頭の先にツリーがあるから?という風に読めなくもない。

燐寸ともし闇の溝跳ぶクリスマス  秋元不死男
燭の火の根元の青きクリスマス

 こちらは、どちらも何となくクリスマスを感じる。小さな明かりと闇の対比は、聖夜と繋がる部分がある。と、思っては見たものの、何故、燐寸の明かりで闇の溝を飛んでいるのか。しかもクリスマスに。何かから逃げているのだろうか。クリスマスに?


 昭和後期、山口誓子は毎年クリスマスの句を詠んでいた。特にクリスマスツリーを見るのが好きだったようだ。聖樹の句がとても多い。ここに挙げたのは、ほんの一部である。

聖樹には大き過ぎたる星と鐘    山口誓子
聖樹より垂れゐる小さき教会堂
聖樹にて鳴ることもなき銀の鐘
聖樹には綿をこんもり積もらしめ
病院の聖樹金銀モール垂る
ホテル廣場電飾のみの大聖樹
レストラン綿で聖樹の雪増やす

 主に昭和53年〜58年ごろに詠まれたもの。しげしげと聖樹を見つめている。病院で、ホテルで、レストランで、街中の様々な場所で聖樹に目を止め、その一つ一つを詠んでいる。最近の商業施設のツリーの飾りなどは、どこで見ても似たような感じだなと思ってしまうこともあるが、それでも細部に目を止めて句にしていくと30年後に読み返して時代の空気を感じる懐かしい句になるかもしれない。

みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季可

 さて、同じ聖樹の句でもまたがらりと雰囲気が変わる句。何度かこの連載で引用させてもらっている堀田季何さんの『人類の午後』に、クリスマスの章があったのでそちらから。天使の人形が飾られているクリスマスツリーは一見可愛らしいのかもしれないが、「みな」「吊られてをりぬ」と表現されると、突然世界の薄皮が一枚剥がされたような、薄寒い感覚を覚える。

それぞれに森を離れてきて聖樹   矢野玲奈

 色々と飾られたり、吊るされたりしている聖樹だが、こちらは木そのものを詠んだ静謐な句。森から遠く旅をして、時と場合によっては海も渡って、色んな街の色んな家に届いて、飾り付けられ聖樹となる。最近はフェイクのツリーを飾る家の方が圧倒的に多いと思うが、生のもみの木の爽やかな芳香は堪らなく良いものだ。今も静かに佇む遠い森を思いながら、一つずつ飾り付けていく。

陣痛に悶えてマリア聖夜劇     堀田季可

 もう一句、『人類の午後』から。聖夜劇は見たことがないのだが、子供たちが演じることが多いことを考えれば、出産シーンは必須とはいえ陣痛に悶えるマリアはいないだろう。ただ、実際の出産の現場ではそんなことはあるはずもなく。遥か昔の伝説、史実、ファンタジーの中の真実は今となってはわからないが、この句を読むと、聖夜の厳かさを上書きするような、マリアの汗の香を感じるのである。

アマゾンの箱破る快クリスマス   小川軽舟

 賑やかで楽しく現代的なクリスマス。多くの人が一度は破ったことがあるだろう、アマゾンの箱との取り合わせが面白い。正直、アマゾンから届くのは日用品の方が圧倒的に多いが、時折は贈り物もある。そして、クリスマスの季語が明るさを添えている。最近はアレクサがアマゾンから届くものをぺらぺら教えてくれてしまうので、サンタから子へのプレゼントは決してアマゾンに頼まないの言うのは、昨今の親にとって重要なライフハックである。

自殺せずポインセチアに水欠かさず 矢口晃

 クリスマスの明るさがあれば、それに対比するように影もある。この句はクリスマスとは一言も言っていないけれど、クリスマスの気配を強く感じる。外の世界の煌めきとの対比するように、暗い部屋の片隅で、目に痛いほど赤いポインセチアを見つめている瞳に光が差していない。それでも此岸に留まる限り、水をやる。クリスマスがやってきても、通り過ぎても、波はやり過ごすのが大事なのだ。

コロッケの中の冷たきクリスマス 小野あらた

 こちらは多分、一人のクリスマス。レンチンに失敗してコロッケの中がまだ冷たい、というのはまあまあ良くあることだけど、クリスマスだからこそちょっと面白い句になった。あと30秒温めを追加して食べよう、コロッケ。

離陸せぬうちに眠れりクリスマス 夏井いつき

 仕事も仕事以外も大詰めの年末進行。それでも故郷に帰る日に乗った飛行機で、そういえば今日がクリスマスだったことに気づく。東京のキリッと晴れた夜の夜景は、クリスマスに相応しく美しいだろうに。夢の中で見るしかない。今年もお疲れ様でした。Merry Christmas、あらため、Happy Holidays!



出典
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(左右社)佐藤文香編著
『俳コレ』(邑書林)週刊俳句
『昭和俳句作品年表 戦後篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
『昭和俳句作品年表 戦前・戦中篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
句集『人類の午後』(邑書林)堀田季何
句集『無辺』(ふらんす堂)小川軽舟
575筆まか勢 fudemaka57.exblog.jp 「クリスマス」