「変幻自在なグルーブとその特徴あるハーモニーの流れが、ヘンリー・スレッギルの音楽の特徴だ。本当にどうしてこんなに良いのだろう、、、?!こんな素晴しいミュージシャンは、日本でももっと紹介されてほしい。」藤井郷子(公式ホームページより)
「・・・ソニー・ロリンズ、リー・コニッツ、オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、ヘンリー・スレッギル、スティーヴ・コールマンはトリオで演奏し、それが結果として最もエキサイティングで永久の演奏となった数少ないプレイヤー達である・・・」ジョン・ゾーン(沼田順による引用、「ジャズ批評」98、1999)
ヘンリー・スレッギルの名を高めた先鋭的なグループがエアー(AIR、Artists In Residence)である。多くの管楽器を用いるスレッギル(個人的にはアルトサックスが最も好みなのだが)、ベースのフレッド・ホプキンス、ドラムスのスティーヴ・マッコールによるピアノレストリオである。
エアーは、1972年(71年後半という説もある)に「リフレクション」として結成された。これは60年代の後半にセントルイスのBAG(黒人芸術家達のグループ)がハミエット・ブルーイットを中心にして組織した共同体の名称でもあり、当時ブルーイット達はAIR=BAGバンドというオーケストラを作っていたという。スレッギル達は、彼らの理念を継承して、グループがNYCにのぼった75年1月、正式にその名称を受け継いだ(青木和富による『エアー・レイド』解説)。エアーの初ギグは、スコット・ジョプリンの音楽をジャズ、ラグタイム両者のスタンスで演奏するというもので(ジョン・リトワイラーによる『エアー・タイム』解説)、のちに『エアー・ロア』として録音している。
彼らをはじめとするAACMの音楽家たちは、60年代後半からNYCCに進出し、ソーホー地区を中心に繁栄していたロフト・ムーヴメントを、さらに推進する力となった。もともと、60年代のはじめに、「ジャズの新しい波」(リロイ・ジョーンズ)を形成するアーチー・シェップ、ジョン・チカイ、アルバート・アイラー、サニー・マレイ、ミルフォード・グレイヴスらによって繰りひろげられ、「ジャズの十月革命」(1964)を経て、AACMとはパラレルな動きとしてフリー・ジャズの飛躍を成し遂げていたのだった(『ジャズ・アヴァンギャルド』清水俊彦著、青土社)。
なお、ロフト群はコッチ市長の再開発計画により次々に閉鎖され、80年代初頭に(場を時代に提供したという点についての)その歴史的役割を終えている。
尤もスレッギル自身は、「これらのムーブメントを『ロフト・ジャズ』と呼ぶことについて、私自身、その言葉を好まないし、使おうとは思わない。私達が演奏しようとしているのは、創造的な音楽なわけだし、それは『Classical Black Music』あるいは『Creative Black Music』と呼ばれるべきもので、ロフト・ジャズという言葉自体、それを聞く者に悪い印象を与えるものと私は思っている。何故かというと、その言葉は単に〝ロフト〟で演奏されている音楽ということを意味するからで、(後略)」(「ジャズ批評」27、1977)と述べている。ところで、近年でも彼にとっては、「フリー・ミュージックとかの音楽を使う輩は、音楽がなんたるものであるか、まるでわかっちゃいない。フリーな音楽なんてものは、この世に存在すらしないんだ。」(「エスクァイア日本版」、1995年10月)と、カテゴライズされることに対しての嫌悪感がなお強い。
メンバーのホプキンス(ベース)は、シカゴ市民交響楽団の一員としてのほか、“カラパルーシャ”モーリス・マッキンタイアーの『フォーセス・アンド・フィーリング』にのみレコーディングしていた。スティーヴ・マッコール(ドラムス)は54年に空軍を辞めた後、エクスペリメンタル・バンドを経てNYCに進出、ジーン・アモンズ、ドン・バイアス、エディ“ロックジョウ”デイヴィスらと活動していたが、シカゴに戻ってAACMの創立メンバーとなり、ムハール・リチャード・エイブラムス、ジョゼフ・ジャーマン、マリオン・ブラウン、アンソニー・ブラクストンなどのレコーディングに参加していた。
エアーとして残された記録には以下のものがある。
■ AIR SONG (Whynot, 1975録音)
■ WILDFLOWERS 1 (1976録音)(※オムニバスでありこのうち1曲のみ)
■ LIVE AIR (Black Saint, 1976・77録音)
■ AIR RAID (Whynot, 1976録音)
■ AIR TIME (Nessa, 1977録音)
■ OPEN AIR SUIT (Arista, 1978録音)
■ MONTREUX SUISSE AIR (Arista, 1978録音)
■ AIR LORE (RCA, 1979録音)
■ AIR MAIL (Black Saint, 1980録音)
■ 80°Below '82 (ANTILLES, 1982録音)(※邦題『シカゴ・ブレイクダウン』)
最後の82年に、マッコールが脱け、ドラムスがフェローン・アクラフに変わる。さらにのち、アンドリュー・シリルに変わる(『JAZZ The Rough Guide』、Ian Carrら)が、録音は残されていない。
それぞれの録音については次の機会に詳述するが、私にとって最もインパクトの大きい1曲は、『AIR RAID』(空襲)の最初のタイトル曲である。鍵谷幸信が、「スレッギルが(ミュゼットを)アルトに変えてからの叙情味を、フリー形態に溶かしこむプロセスも文句のつけどころがない」(「ジャズ批評」27、1977)と絶賛しており、実際に、空襲警報のような不安感を掻き立てるミュゼットのあとの、空間を切り裂くようなアルトサックスのインプロヴィゼーションが鮮やかである。
「・・・ソニー・ロリンズ、リー・コニッツ、オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、ヘンリー・スレッギル、スティーヴ・コールマンはトリオで演奏し、それが結果として最もエキサイティングで永久の演奏となった数少ないプレイヤー達である・・・」ジョン・ゾーン(沼田順による引用、「ジャズ批評」98、1999)
ヘンリー・スレッギルの名を高めた先鋭的なグループがエアー(AIR、Artists In Residence)である。多くの管楽器を用いるスレッギル(個人的にはアルトサックスが最も好みなのだが)、ベースのフレッド・ホプキンス、ドラムスのスティーヴ・マッコールによるピアノレストリオである。
エアーは、1972年(71年後半という説もある)に「リフレクション」として結成された。これは60年代の後半にセントルイスのBAG(黒人芸術家達のグループ)がハミエット・ブルーイットを中心にして組織した共同体の名称でもあり、当時ブルーイット達はAIR=BAGバンドというオーケストラを作っていたという。スレッギル達は、彼らの理念を継承して、グループがNYCにのぼった75年1月、正式にその名称を受け継いだ(青木和富による『エアー・レイド』解説)。エアーの初ギグは、スコット・ジョプリンの音楽をジャズ、ラグタイム両者のスタンスで演奏するというもので(ジョン・リトワイラーによる『エアー・タイム』解説)、のちに『エアー・ロア』として録音している。
彼らをはじめとするAACMの音楽家たちは、60年代後半からNYCCに進出し、ソーホー地区を中心に繁栄していたロフト・ムーヴメントを、さらに推進する力となった。もともと、60年代のはじめに、「ジャズの新しい波」(リロイ・ジョーンズ)を形成するアーチー・シェップ、ジョン・チカイ、アルバート・アイラー、サニー・マレイ、ミルフォード・グレイヴスらによって繰りひろげられ、「ジャズの十月革命」(1964)を経て、AACMとはパラレルな動きとしてフリー・ジャズの飛躍を成し遂げていたのだった(『ジャズ・アヴァンギャルド』清水俊彦著、青土社)。
なお、ロフト群はコッチ市長の再開発計画により次々に閉鎖され、80年代初頭に(場を時代に提供したという点についての)その歴史的役割を終えている。
尤もスレッギル自身は、「これらのムーブメントを『ロフト・ジャズ』と呼ぶことについて、私自身、その言葉を好まないし、使おうとは思わない。私達が演奏しようとしているのは、創造的な音楽なわけだし、それは『Classical Black Music』あるいは『Creative Black Music』と呼ばれるべきもので、ロフト・ジャズという言葉自体、それを聞く者に悪い印象を与えるものと私は思っている。何故かというと、その言葉は単に〝ロフト〟で演奏されている音楽ということを意味するからで、(後略)」(「ジャズ批評」27、1977)と述べている。ところで、近年でも彼にとっては、「フリー・ミュージックとかの音楽を使う輩は、音楽がなんたるものであるか、まるでわかっちゃいない。フリーな音楽なんてものは、この世に存在すらしないんだ。」(「エスクァイア日本版」、1995年10月)と、カテゴライズされることに対しての嫌悪感がなお強い。
メンバーのホプキンス(ベース)は、シカゴ市民交響楽団の一員としてのほか、“カラパルーシャ”モーリス・マッキンタイアーの『フォーセス・アンド・フィーリング』にのみレコーディングしていた。スティーヴ・マッコール(ドラムス)は54年に空軍を辞めた後、エクスペリメンタル・バンドを経てNYCに進出、ジーン・アモンズ、ドン・バイアス、エディ“ロックジョウ”デイヴィスらと活動していたが、シカゴに戻ってAACMの創立メンバーとなり、ムハール・リチャード・エイブラムス、ジョゼフ・ジャーマン、マリオン・ブラウン、アンソニー・ブラクストンなどのレコーディングに参加していた。
エアーとして残された記録には以下のものがある。
■ AIR SONG (Whynot, 1975録音)
■ WILDFLOWERS 1 (1976録音)(※オムニバスでありこのうち1曲のみ)
■ LIVE AIR (Black Saint, 1976・77録音)
■ AIR RAID (Whynot, 1976録音)
■ AIR TIME (Nessa, 1977録音)
■ OPEN AIR SUIT (Arista, 1978録音)
■ MONTREUX SUISSE AIR (Arista, 1978録音)
■ AIR LORE (RCA, 1979録音)
■ AIR MAIL (Black Saint, 1980録音)
■ 80°Below '82 (ANTILLES, 1982録音)(※邦題『シカゴ・ブレイクダウン』)
最後の82年に、マッコールが脱け、ドラムスがフェローン・アクラフに変わる。さらにのち、アンドリュー・シリルに変わる(『JAZZ The Rough Guide』、Ian Carrら)が、録音は残されていない。
それぞれの録音については次の機会に詳述するが、私にとって最もインパクトの大きい1曲は、『AIR RAID』(空襲)の最初のタイトル曲である。鍵谷幸信が、「スレッギルが(ミュゼットを)アルトに変えてからの叙情味を、フリー形態に溶かしこむプロセスも文句のつけどころがない」(「ジャズ批評」27、1977)と絶賛しており、実際に、空襲警報のような不安感を掻き立てるミュゼットのあとの、空間を切り裂くようなアルトサックスのインプロヴィゼーションが鮮やかである。