米国の従軍慰安婦に関する決議についても、このたびの防衛大臣の原爆に関する「しょうがなかった」発言についても、首相などは「誤解を与えないよう」云々と弁明している。報道も、その「誤解」用語を使っている。
これは、「誤解」している方々に、非常に失礼な物の言い方ではないだろうか。そもそも「理解」しているから怒っているのに。
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日本では、アルコール度数1%以上の酒が、酒税法の対象となっている。したがって、市販の「ビールキット」などにも、「取扱説明書には海外での作り方が書かれているが日本では云々」と曖昧な記載がある。この規制の対象には、酒を販売する者だけではなく、自分で飲むために作る人も含まれている。
この、自家用の酒がご法度という状況は、先進国では珍しいもののようだ。また、酒の製造を税で取り締まるということが、日清戦争後に国家財政建て直しのために大幅増税されたことが、いまだ引きずっている経緯があるようだ。
これに対し、故・前田俊彦氏が、酒税法の矛盾と憲法違反とを理由に起こした裁判が、有名な「どぶろく裁判」である。84年から争われ、最終的には、89年に、最高裁が「酒税の安定的な徴収」を理由に訴えを退けている。
このあたりの経緯と考え方をまとめた本が、前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(三一新書、1986)である。前田氏の主張はいちいちもっともであり、あまり酒を飲めない前田氏が、不当な「オカミ至上主義」への反発から行動を起こしている様子がわかる。その反骨精神は、前田氏が、三里塚闘争に共感して三里塚に引越して「瓢鰻亭」(ひょうまんてい、ヒューマニティの意味)と命名した家を建て、利き酒大会に国税庁長官を呼んだこと(当然、応じていない)などにも表れている。なんと、将来はどぶろくに「三里塚誉」(笑)と命名するか、という真面目な冗談まで披露している。
前田氏の主張する点は
○酒税法では大規模製造者でないと酒造の免許が得られないが、そもそも販売するわけでもない個人にまで規制を被せるのは間違いである。(その後、一部の規制緩和により中小製造者が地ビールを作ることができるようになったが、商売しない個人の問題は解決されていない。)
○どぶろくと市販の酒とは全く異なるものであり、個人の酒造を禁止しなくても、大手メーカーの酒造や、さらには税収に悪影響を及ぼすことはない。
○そもそも、酒を自分で作ることは、誰でもやっていた昔からの伝統であり、憲法13条の幸福追求権と29条の財産権の自由に根拠がある。
判決は、結局は、個人が酒造することが、いずれは酒税の徴収に悪影響を及ぼし、これは公共の福祉に反するものとしている。また、根本的な問題(法的な経緯など)は、立法が解決するものと政府を奉っている。さらには、「飲めないのにこんな行動をする者」への見せしめも言外に理由として挙げられている。
まったくどこかで聞いたような話だ。
教育も、主権者としての意見を言うことも、オカミの方針以外であれば規制が強まっていることと、根本的な問題は共通していると思えてならない。さらには、食品に対する企業のモラルが著しく低下している今、自分たちを守る方法は、食に関する活動と判断を自分たちになるべく取り戻すことにほかならないことを考えれば、まさに現在の問題である。
程度の差や限界はあろうが、コロッケなら自分で作ればいい。味噌だって作れる。魚だってスーパーの切り身でなく魚屋でさばいてもらえばいい(ましてや弁当の何とかフライの中身がわからないのは落ち着かない)。麺だって、パンだって、酒だって・・・。(もっとも、作ってもらっている私自身はエラソーなことは言えないが。)
どぶろく裁判については、鎌田慧『非国民!? 法を撃つ人びと』(岩波書店、1990)でも採り上げている。
興味深いことに、84年当時、新聞報道が、マスイメージを醸成してしまったことがあるようだ。たとえば読売新聞では「どぶろく密造、初公判」、千葉日報では「前田被告が怪気炎」という見出しを使っている。鎌田氏は、これを「いったん起訴されれば、人格を「被告人」としてしまうところに、新聞社の言葉遣いがきわめて国家のそれと似ている」と鋭い指摘をしている。
誰もが、自ら農業を行うか、近所の人が作った食糧を食べることができない社会では、「放っておくとろくなことをしない権力」に対して監視・抑制しうる司法と報道が果たすべき役割は重いだろう。しかし、その両方が「権力そのもの」となっているのが現在の社会だということを考えれば、かなり暗い気持ちになる。