Sightsong

自縄自縛日記

60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う

2012-04-29 21:31:30 | 沖縄

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。日本はこの日に再独立したが、沖縄にとっては「アメリカ世」のはじまりであった。これを沖縄では「屈辱の日」と位置づけている。

それから60年目、「60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う」と題された集会に足を運んだ(文京区民センター)。連休に入ったためか、参加者はさほど多くない。

■ 新垣誠さん(写真家、沖縄NGOセンター代表)

新垣さんは、最初にこう始めた。

今日沖縄は梅雨入りした。デイゴの花が咲く頃になると、沖縄の人びとは、沖縄戦の記憶を呼び起こされる。自分(新垣さん)の母校である首里高では最近また不発弾が掘り出されているが、何しろ自分も幼少時には、龍潭池でライフルの弾を掘りだしてはコレクションする遊びをしていた。そのように、記憶は土地に刻まれている。40年前の「本土復帰」(カッコ付き=いわゆる)は、日本政府への再併合を意味した。―――と。

その象徴と視ることもできる辺野古新基地の環境アセスメント評価書は、日本政府によって、この年末年始に、沖縄県庁に卑怯なやり方で提出された。新垣さんが1時間位見せてくれたスライドショーは、主に、そのとき県庁に集まってそれを阻止しようとした人びとの記録である。

さまざまな人の顔がある。山城博治さん(沖縄平和運動センター)、桜井国俊さん(沖縄大学)、花輪伸一さん(WWF)、安次富浩さん(ヘリ基地反対協)、山内徳信さん(参議院議員)、照屋寛徳さん(衆議院議員)、糸数慶子さん(参議院議員)。新垣さんによると、このときの雰囲気は和気あいあいとしたもので、これまでの「運動」に見られなかった層、ツイッターやフェイスブックで駆けつけた人たちが目立ったという。東日本大震災で避難してきた家族もいる。

県庁前の様子は興味深い。日米同盟強化を掲げる幸福実現党が、辺野古アセスに反対する人びとを妨害すべく来ていたのだった。何と高良勉さんが、琉球独立の旗を持って、彼らに勢いよく抗議している。

スライド上映のあと、新垣さんは、とにかく米軍は辺野古という新基地が欲しいはずだ、オカネも日本にもってもらってこんな美味しい話はないはずだ、と強調した。また、那覇市ががれき受け入れを示唆したことの背景には、南風原町のごみ処理施設がいまや「ごみ不足」で、稼働しないといろいろまずいという理由があるのだ、とした。

講演後、会場から、かつて高良倉吉らにより唱えられた「沖縄イニシアティヴ」のような言説は、いまはどうなのだとの質問があった。新垣さんは、次のように答えた。米軍基地の撤去を諦めてせめてオカネをもらおうとする考え(振興策への依存)は、何ももたらさなかった。見られたのは、「本土」のIT企業の利潤、施設の床磨きをする若者の雇用、誰も行かない立派なコミュニティセンターであり、名護の商店街の姿は変わりはしなかった。沖縄県民はそれに気付いてきて、そのような幻想を持つ人は劇的に減ったと思う、と。

■ 太田昌国さん(編集者、民族問題研究家)

太田さんは、植民地主義の歴史を次のように整理した。

○日本だけが過去の植民地支配を謝罪し続けているとの言説がある。80年代初頭まではそうだったかも知れないが、冷戦崩壊以降、今日まで、世界の問題意識は格段に変貌した
○15世紀のコロンブス以降、世界の植民地主義は、そのヘゲモニーをさまざまに変化させていった。それは1945年、日本帝国主義の敗戦によりひとつの終焉を迎える。なお、19世紀末の中南米国家独立は、数百年の白人支配ののち、そこに根付いた新たな白人支配層による独立でもあって、真の独立とは言えないものだった。
○そして、アジアにおける植民地支配は段々と解消されていった。また1960年以降、アフリカ諸国も独立していった。
○それでは、植民地主義はほぼ潰えたのか?何故私たちは、継続する問題意識を持ってしまうのか?
○ソ連崩壊までの45年間、冷戦が大きな世界構造であった。その間、支配された側がこの問題意識を持つきっかけをつかめずにいた。冷戦が崩壊し、また個々の国において軍事独裁政権が崩れていくと、覆い隠されていた矛盾が噴出することとなった。日韓のように、政府間の国交正常化により負の歴史を解決したというストーリーは、個人を対象とした補償ではないという点で、絶えず突き動かされることとなった(例えば、慰安婦であったときの証言を1991年にはじめた金学順さん)。
○ドイツは、戦後、ユダヤ人に対する補償を行ってきたが、80年代に補償の範囲を拡げ、ロマ人(ジプシー)、同性愛者、人体実験被害者、強制労働被害者などへの補償を行ってきている(国家予算、企業予算)。1992年にはコロンブス500年目の「コロンブス裁判」もあった。
○すなわち、1990年前後を境として、ヨーロッパの過去に対する検証と行動の動きが、20年間も続いてきている
○さらに、南アフリカで開催されたダーバン世界会議(2001年8月-9月)では、国連も関与し、はじめて欧米諸国と奴隷・植民地主義の犠牲となった国々が一同に会し、討論がなされた。勿論、言葉で認めはしても、補償となると世界が大変な無秩序に陥るとして、先進国は反対した。それは含み置くとしても、画期的なことだった。
○会議終了の3日後、「9・11」が起きた。ダーバン世界会議の意義がそれによりかき消されてしまったのは残念なことだった。
○米国ブッシュ大統領は、在任中、奴隷貿易が行われていたセネガルのゴレ島を訪れ、奴隷貿易は犯罪であったと認めた。英国ブレア首相も、同年、国家として奴隷貿易に関与したことを謝罪した。イラクやアフガニスタンに強硬な攻撃を加えたこのふたりでさえ、歴史の汚点を認めたのだ。
○翻って日本の植民地主義を考えてみる。その起源を日清戦争(1894年)や日韓併合(1910年)にみることが多いが、実は、さらに遡り、蝦夷地併合(1869年)や琉球侵攻(1879年)がそのはじまりではなかったか。日韓併合にしても、1910年に突然はじまったのではなく、江華島事件(1875年)などその伏線があった。つまり、明治維新後から、日本の植民地主義ははじまっていた。
○1945年、日本は敗戦する。なぜこのとき、断絶なき戦後を迎え、だらだらと天皇制や官僚制が続いてしまったのか。それは(東京大空襲などがあったにせよ)敗戦の痛みを広島、長崎、沖縄に人ごとのように押し付けたためではなかったか。
○敗戦時に何があったのかの論拠は、豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波新書)、同『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)に詳しい。
○日本では史実が十分に行き渡り、伝わっていない。これからの私たちの課題はこのことだろう。
○名古屋市長による南京事件否定に見られるように、既に立証されもはや覆すのが困難な歴史的事実に対し、別の史実を対置することなく、隅っこにあったかもしれぬ個人的なエピソードを提示することで、まるでそれが歴史的事実に拮抗するかのような演出をすることが目立つ。メディアに批判力はすでになく、書店にはそれをもてはやすような雑誌が並ぶ有り様だ。
○しかし、これらの低水準の言説が、多くの人びとの心を捉えているのは事実だ。このことから目を背けてはならないのだろう。
○問題提起を続ける人がいたからこそ、時代はここまで来た。諦めてはいけない。
○自国の文化がもっとも良いものであり、自国の整備する歴史が正しいものである、との自己称揚に向かうのではなく、もっと普遍的な場所を目指すべきだ。私たちは自分の場所をどこに置くのか。国のみがアイデンティティの根拠にはならない。私たちには、国という枠を超えた想像力が必要である。

●参照
太田昌国の世界「テロリズム再考」
太田昌国『暴力批判論』
太田昌国『「拉致」異論』 
エンリコ・パレンティ+トーマス・ファツィ『誰も知らない基地のこと』
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
久江雅彦『日本の国防』
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
終戦の日に、『基地815』
『基地はいらない、どこにも』
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
押しつけられた常識を覆す
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』
アラン・ネルソン『元米海兵隊員の語る戦争と平和』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』


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