Sightsong

自縄自縛日記

山本義隆『知性の叛乱』

2010-06-03 00:59:13 | 政治

山本義隆は東大全共闘議長としてシンボル的な存在であった。運動から大学アカデミズムを離れ、現在は駿台予備校の有名講師となり、一方では科学史の優れた書をいくつも世に出している。物理学者として卓越していたことはただの伝説ではないようで、同時代を共有したであろう教授が、あれで東大の質が落ちたのだと発言したのを聞いたことがある。

私にとっては、山本義隆は数日間の教師である。高校時代、福岡まで出かけていき、駿台予備校(福岡にはなかったので出張の形)で物理の授業を取った。勿論、そのころ山本義隆という人物の来歴など知るはずもない。この授業が本当に面白く、眼から鱗が落ちる思いだった。文系と理系のどちらに進むか決めかねていた自分には、理系を選ぶには十分な契機だった。(それが良かったのかどうか、今となってはわからない。)

そんなわけで、『知性の叛乱 東大解体まで』(前衛社、1969年)も読みたかったのだが、あまりにも稀少でそのような機会はなかった。ところが、先日、編集者のSさんから、古本屋で見つけたので確保しておいたよ、との連絡があった。御茶ノ水の沖縄料理屋で会い、ありがたく頂戴した。

ここで訴えかけるように記されているのは、大学という権力社会における知性の欠落である。知性というのは、世界一の研究水準がどうとか、ノーベル賞級のどうとかいったことではない。大学という機関が社会のなかに存在していることを認識しうる能力のことであり、ゼニカネが大学のあり方を規定していることに疑いの目を向ける能力のことである。それにも関らず、知的特権階級であるかのように振る舞うことの欺瞞を指摘する能力のことである。そしてさらに、そのような欺瞞の殿堂に保護され、無数の「専門白痴」を生みだす罪深さを指摘する能力のことである。

その意味で、山本義隆が本書を書いた1969年も、現在も、状況は変わっていない。私が大学に残りたくなかった決定的な要因も、こうしたことである(研究の能力は置いておくとして・・・)。「天才・柳沢教授」などいないのだ。

本書では、丸山眞男『「である」ことと「する」こと』を引用して、大学内のヒエラルキーの絶対的な肯定を批判している。「教授である」こと、「民主主義の世の中である」こと、「理性の府である」ことを所与のものとして、「する」こと、問い直すことを否定する、というわけだ。最近では丸山眞男再評価の雰囲気もあるようだが、たしかにこの捉え方は今や日本社会全体を覆っている(つまり、社会人のあなたも私も無関係ではない)。「日米安保」しかり、「大手メディア」しかりである。ならば、現在ならば、サブタイトルは「日本解体まで」とでもすべきだろうか。本書に漲る知性は、知的怠惰、判断停止の日本社会でこそ、再度暴れまわるべきものだ。

「保護された知性などは矛盾した言葉だが、顧みて激流におののいたとすればもはや知性ではない。」

「「日露戦争を知らなかった物理学者」がホメ言葉としてあるようにせまい専門の世界にしか思考が向かわないのであれば、彼は研究の実践主体としてのイデオロギーをもつこともできず、自らを対象化し得ないのであるから責任を問われないのであり、したがって「教育」とか「処分」とかいった人間としての責任をもたなければ不可能な仕事はやるべきではなかろう。」

●参照
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』


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2 コメント

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Unknown (ひまわり博士)
2010-06-03 03:03:13
ほんとうにもう読んだのですね、すごいなあ。
丸山眞男の『自己内対話』という雑記帳をまとめた本があって、その中の「春曙帖」には、東大紛争で「丸山教授の授業をフンサイしよう」とする学生たちに辟易とする様子が書かれています。
ドキュメンタリーとしては、それも面白いです。
Unknown (Sightsong)
2010-06-03 07:47:33
ひまわり博士さん
読みたかった本なので、積ん読にはなりません。今回は本当にありがとうございました。
丸山眞男については、本書でも、理論を使いつつ本人を批判しているのですね。

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