Sightsong

自縄自縛日記

亀戸事件と伊勢元酒場

2016-05-15 08:29:01 | 関東

10年ぶりくらいに、亀戸に足を運んだ。記者のDさんと呑むためである。北口の裏通りは相変わらず賑わっていた。亀戸餃子が夕方早い時間に店じまいしてしまうのも前と同じ。いくつかホルモンの店があり、ことごとく若い人たちの行列ができていた。どういうことだろう。

せっかくなので、亀戸事件の現場となった亀戸署の場所付近を歩いてみた。1923年9月、関東大震災後の混乱時に、意図的なデマに煽られて、一般人が、多くの朝鮮人と中国人をとらえ根拠なき虐殺を行った。攻撃の対象は「日本語」の話し方によって識別されたため、沖縄人も脅威にさらされた。また、官憲は混乱に乗じて、労働運動や社会運動を行っている者たちを捕らえ、亀戸署において殺した(亀戸事件)。加藤直樹『九月、東京の路上で』によれば、ネットカフェの入ったビルのあたりがその場所だということだった。

阪神淡路大震災のときには、在日コリアンの人びとの脳裏には虐殺事件が蘇ったのだという(野村進『コリアン世界の旅』)。また、先日の熊本の震災で同様の悪質なデマが意図的に流され、地方議員のなかにはそれを是認する者さえいたことを考えれば、たかが100年前の事件は確実にいまと地続きであることがわかる。

さらに、藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』を参考にして、浄心寺の中に設置されている「亀戸事件犠牲者之碑」を見た。碑の裏側には以下のように彫られている。

「1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗じて天皇制警察國家権力は 特高警察の手によって 被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕 亀戸警察署に監禁し戒厳司令部直轄部隊に命じて虐殺した 惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である 労働者の勝利を確信しつゝ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそゝいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する 1970年9月4日」

碑の下には犠牲者9名、さらに裏側の下には後日判明した1名の名前が彫られている。上の本によれば、その10名は、南葛労働会の川合義虎をはじめとする8名と、純労働者組合の平澤計七と中筋宇八だった。また、怪人物・南喜一が近くの大島で営んでいたグリセリン工場の職工・佐藤欣治と、南の弟・吉村光治も犠牲となっており、この碑にも名前が刻まれている。南喜一『ガマの闘争』によれば、そのことを確かめに行った亀戸署において南自身もあやうく殺されかけ、背後から撃たれた弾がふくらはぎを貫通した。

田原洋『関東大震災と中国人』によれば、この事件は「第二次亀戸事件」と呼ぶべきものであって、この8時間前に、自警団員4人が警察に殺されて、それが引き金となって起きたものだという。

なお、埼玉県の丸木美術館には、韓国・朝鮮人の犠牲者を追悼するための「痛恨の碑」がある。この虐殺は、東京だけでなく関東全体で行われたのだった。

もう少し明治通りを北に歩いて、古い「伊勢元酒場」で呑んだ。年季が入った木のカウンターがあって、先客がずれて席を作ってくれた。日本酒も、イカが入った大きな焼売も、イワシフライも旨かった。どうやら、かつて「伊勢元」という酒の小売業者があって、その名残の名前だということだった。確かに、バスの車窓から別の「伊勢元」という店が見えたし、亀戸の商店街には「伊勢禄酒店」という酒屋があった。

ついでに駅前の「くら」という立ち呑み屋にも立ち寄って四方山話。

●参照
加藤直樹『九月、東京の路上で』
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』
南喜一『ガマの闘争』
田原洋『関東大震災と中国人』
植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」
伊藤ルイ『海の歌う日』(大杉栄殺害事件)
山之口貘のドキュメンタリー(沖縄人の被害)
平井玄『彗星的思考』(南貴一)
道岸勝一『ある日』(朝鮮人虐殺の慰霊の写真)
『弁護士 布施辰治』(関東大震災朝鮮人虐殺に弁護士として抵抗)
野村進『コリアン世界の旅』(阪神大震災のときに関東大震災朝鮮人虐殺の恐怖が蘇った)


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