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自縄自縛日記

橋本明子『日本の長い戦後』

2019-01-01 12:22:14 | 政治

橋本明子『日本の長い戦後 敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか』(みすず書房、原著2015年)を読む。(みすず書房の本をkindleで読むことができるのはうれしい。)

敗戦のトラウマとは、必ずしも国家レベルでの言説のありようだけではない。国民としても、自身が巻き込まれたこと、あるいは直接的・間接的に加害に加担したこともトラウマとなっている。また個人としての国民は、家族や近い者が間違った戦争に関わったことによっても、複雑な物語を負担し、再生産している。

本書は、そのようなトラウマに起因する記憶の語り直しを、多くの声を収集することによって分析したものである。様々な類型が見出されている。被害による切実な苦悩、苦難。無力感の継承(やむを得なかったのだという庶民と化す)。無力な中でも良心による対処(気高い無力さ)。全員が無力ならば被害者意識は強固なものとなる。

著者は、そういった言説の創出や共有において、無意識に、あるいは沈黙や不詮索という協力関係によって、他者への加害が消し去られていることをひとつひとつ指摘する。厄介なのは、それが記憶する義務や反戦の誓いといった良心によって駆動されていることだ。正確な史実よりも、近しい人との連帯や記憶の継承というわけである。

ここから得られる真の教訓はなにか。無力への欲望、考えなくてよいことの安寧ではない(戦勝国の戦争証言には、ほとんど無力感がみられないという)。考えて、次の社会に実際に結び付けてゆくことである。「自己免罪的な衝動を抑える努力を積み重ねていく」ことである。これは痛い。

「良心的兵役拒否、上官の違法命令に対する不服従、過剰な軍事力行使に対する異議申し立て、戦時国際法が保証する民間人や戦闘員の人権保護といった課題について戦後市民が考える機会を得、知識も積んでいけば、権威・権力の社会構造に強く抵抗することもできるかもしれない。こうした知識は軍事力を統制するうえで大切なものだが、にもかかわらず、戦後世代に与えられてきた社会的処方箋は、軍事力の構築自体を避けるというものだけだった。この処方箋は市民の牙を抜き、いざというとき国家権力に対してとりうる抵抗手段を奪っている。それにより、日本社会には深いところまで無力化の構造が根を下ろしていった。」

これは、「知りつつも知らない」からさらに「なかったことにする」というおぞましい自己防衛行動=歴史修正主義へという反動の流れを生んでいる。もちろん無理がある。だからその手の本や映画や発言がグロテスクなものにみえるわけであり、そうであるならば、グロテスクをグロテスクだと言い続けるほかはない。痛みを抱えて矛盾だらけの領域を探索するほかはない。一足飛びの文化コードの書き換えは野蛮である。

ただ、著者もいうように、勇気をもって深く内省し、反省を表明することが、あまり日本では価値があるものとして共有されていない。あるいはその言説のフォーマットが欧米ふうであることも確かではあるだろう。一方で、ナショナリストたちに「コスモポリタニズムに対する文化的抵抗の特徴が認められる」のも確かである。どっちがマシか、答えは明らかだ。

ところで、自分には新鮮な指摘があった。たとえば実態は加害によって手が汚れている「祖父」について、「愛する人を守るために戦った」ことにするしかない「思いやりのある優しい、かっこいい祖父」という記憶の語り直しのことである。著者は、こうした類型は、「21世紀の理想に合わせ、恋愛の時代に育った若い受け手の心に響くよう更新したもの」であり、「戦中世代は概して、家族生活に対する愛着が今の人たちよりも弱かったが、このことはあまり知られていない」とする。なるほど、その視点は面白いかもしれない。

●参照
伊藤智永『忘却された支配』
服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
高橋哲哉『戦後責任論』
外村大『朝鮮人強制連行』
井上勝生『明治日本の植民地支配』
中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』
小熊英二『単一民族神話の起源』
尹健次『民族幻想の蹉跌』
尹健次『思想体験の交錯』
『情況』の、尹健次『思想体験の交錯』特集
水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』
『世界』の「韓国併合100年」特集


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