「田老と津波」によれば、明治29年(1896年)の大津波の際、田老・乙部の全戸数は336戸あったが、23m余の高さの津波に襲われて一戸残らず全てが流失し、1,859名が死亡。陸上にあって生き残ることができたのはわずかに36名であったという。そのような深刻な打撃を受けた田老村は、昭和8年(1933年)にまたもや大津波を襲来を受けることになる。田老と乙部は、わずかに数戸の民家と高地にある役場・学校・寺院を遺すだけで、村落のほとんどが流失し、死者は911名、流失した人家は428戸に達した、という。この記述で注目されることは、明治29年の大津波で流失したのが全戸数であって、それが336戸であったのが、昭和8年には流失した人家が428戸になっていること(全戸数ではない)。ということは37年間の間に、田老・乙部の戸数は0から428以上へと、明治29年の大津波以前の戸数よりもどんどん増えていったことになります。 . . . 本文を読む
「前兆」の次が「来襲」。中央気象台が地震を記録したのは、3月3日の午前2時32分14秒。まだまだ厳寒の時期で、やはり中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下10度近くであったという。強震に驚いた人々は、布団から飛び出て戸外に走り出たものの、その寒さのために震動がやむと布団の中にもぐり込みました。というのも、三陸沿岸の住民には一つの言い伝えがあって、それは冬期と晴天の日には津波がない、というものでした。その折も多くの老人たちが、「天候は晴れだし、冬だから津波はこない」と断言したとのこと。しかしその後、津波は三回から六回まで三陸海岸を襲うことになったのです。ここでも吉村さんは、津波の押し寄せ方が千差万別であることを指摘しています。海岸の地形、震源地からの距離、湾口の開いている方向などが作用し、さまざまな形をとるのですが、各地からの報告の記録をもとに、吉村さんは以下の三種に津波の形態を分類しています。①屏風を立てたように襲来してくるもの。②山のように盛り上がって襲来してくるもの。③重なり合うようにして襲来してくるもの。そしてその「来襲」の次が、「田老と津波」であり、明治29年の大津波と同様に、この昭和8年の時もその被害の状況が最も悲惨であった下閉伊郡田老村のことが詳述されています。 . . . 本文を読む
「波高」の次は「前兆」。三陸海岸に、明治29年の津波につぐ大津波が来襲したのは、昭和8年(1933年)3月3日の雛祭りの日の未明。地震発生時刻は午前2時32分14秒。震源地は岩手県釜石町東方約200kmの海底。地震発生後30分ほどで津波が各地に来襲しました。この津波による死者は、岩手県・宮城県・青森県の3県を合計すると、2,995名でした。この大津波の来襲前に見られた前兆(以上現象)は、井戸水の減少、渇水または混濁であり、また例年にない大豊漁(特に鰯の大漁)であり、さらに発光現象や大砲の砲撃音に似た音響(ドーン、ドーンという音)の発生でした。これらの前兆は、明治29年の大津波の際にも共通するものでした。ただし発光現象は、提灯のような怪火が見られた明治29年の場合と異なって、昭和8年の場合は稲妻状の閃光が認められ、またその発生場所も一部に限られていたという。 . . . 本文を読む
「津波・海嘯・よだ」の次は「波高」。ここでまず強調されているのは、津波の高さを測ることの困難さです。なぜなら。場所によって津波の来襲の仕方は千差万別であり、また平坦な土地か背後に山を背負う土地かによっても異なるからです。正確な波高を測定するのは至難であることをおさえた上で、吉村さんが示している明治29年(1896年)6月の大津波の波高の数字は、伊木常誠博士と宮城県土木課が算出して発表したもの。それによれば、たとえば岩手県気仙郡吉浜村吉浜では24.4m、上閉伊郡大槌町吉里吉里では10.7m、下閉伊郡田老村田老では14.6m、同郡田野畑村羅賀では22.9m、九戸郡野田村玉川では18.3mでした。しかしそれらの高さがそのまま津波の高さを正確に伝えているものかというと、吉村さんは疑問を呈しています。なぜなら吉村さんが田野畑村羅賀の中村丹蔵さんからじかに聞いた証言では、津波は標高50mはある中村宅に激しい勢いで流れ込んでいたからです。津波が狭いV字谷の湾を激しく駆け上がり、せりあがっていったとすると、その津波の高さはどのように判定すべきなのか。「津波の高さをしめす数値の測定は全くむずかしいことがよくわかる」例として、吉村さんは中村丹蔵の証言をここでも紹介しているのです。 . . . 本文を読む
吉村昭さんの『三陸海岸大津波』の「一」は「明治二十九年の津波」で、「二」は「昭和八年の津波」。「二 昭和八年の津波」は、「津波・海嘯・よだ」から始まる。ここには吉村さんが三陸海岸を好きな理由がまず記されている。その理由とは、「海は生活の場であり、人々は海と真剣に向い合っている」からである。三陸沿岸の海の光景を愛し、三陸沿岸を旅してきた吉村さんは、「海にむかった立つ異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリート」の防潮堤の姿に触発され、三陸津波、特に明治二十九年と昭和八年に発生した大津波について知っていくことになりました。その調査の中で、吉村さんがしばしばぶつかった言葉は「よだ」という地方語でした。「よだ」は、地震を体に感知しないのに起こる津波のこと(つまり津波の一種)という説もあれば、「よだ」=「津波」であるという説もありましたが、吉村さんが調査の末、正しいと思うようになった説は、三陸地方では「津波」は「よだ」という方言で呼ばれていたという解釈でした。末尾で吉村さんは次のように記しています。「津波は、前兆はあるが、突然のように襲いかかってくる。よだという言葉のひびきには、その無気味さがよくにじみ出ているように思う。」 . . . 本文を読む