素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

父の死③

2021年01月28日 | 日記
 小冊子『退職後の父のあゆみ』が出来た2016(平成28)年10月以降は、落ち着かない日々が続いた。父は足腰の衰えに加えて、耳の聞こえづらさが進みスムーズな会話が難しくなり、入れ歯もしっくりこないということでストレスが倍増。実家に帰るたびに入れ歯の調整に違う歯科医院に連れて行くことになった。不調を訴えてもどの医院でも「慣れるまで様子を見ましょう」と言われる。補聴器も然り。慣れるまでの我慢ができないのは歳のせいかなとあきらめ歯科医院のはしごにつきあった。一方、車で10分ほどの所に住んでいる次女の出産予定日の11月下旬が近づき、助産院に連れて行く要請がいつ入ってもいいように携帯が手放せなくなった。弟からは、父の弱り方を見ると「何があってもおかしくないので、すぐ連絡がつくようにしておいて欲しい」と言われていた。

 真逆の2つの連絡を待つ日々というのは落ち着かないものである。次女は予定日より10日ほど遅れて12月6日に無事女児を出産。ホッとする間も無く2日後の8日、弟から父が救急車で志摩病院に運ばれたと連絡が入った。肺に水が溜まっていて呼吸困難だと聞かされた。幸いすぐに肺に管を入れる手術をして大事には至らなかったが、1月10日までの入院生活となった。次女が産後の養生のため我が家に戻ったので私は身動きが取れず、父の看護は弟と母に任すほかなかった。
  
「いのちの芽ばえ」と「老いと死」の2つのことに向き合う2017(平成29)年のスタートであった。父は退院後、家に戻っての生活を強く望んだが、それでは母がしんどくなるのが目に見えていたので病院と実家の中間にある介護付き有料老人ホーム「しまの憩」に入所することを説得した。渋ったが家に帰るためのワンステップだと言いきかせて承知した。元来、食の好みが強かったので施設の食事に馴染まず残すことが多くなった。「しっかり食べてもう少し体力がついたら家に帰ることができるから」という言葉は届かなかった。

 2月5日、弟から「具合が良くないから、万が一の準備もして来てほしい」と連絡が入る。6日の早朝に実家に向かう。昼前に着き、すぐに施設に様子を見に行った。「来たよ」と声をかけると元気にうなづいた。大丈夫みたいなので午後の付き添いを弟に頼み、実家に戻り買い物など用事を済ませた。早目の夕食を終え、弟と交代するために施設へ。父は眠っていた。よもやま話をした後「いつもこんな感じなんさ。寝たり起きたりの繰り返し。後はよろしく」と言いながら弟が部屋を出る前にもう一度父を見た時「あれ?」という顔をした。「なんか呼吸の間隔がいつもと違う」私はピンとこなかったが、ここ最近父と多く接する弟にはちょっとした変化を感じ取ることが出来た。しばらく二人で様子を見ていたが、確かに息の間隔が少しずつ長くなってきた。「お医者さん呼んだ方がいいなあ」「ああ」と言ってる間に静かに息を引き取った。
 2017(平成29)年2月6日午後7時10分。「大往生とはこういうことなんや」と思わずつぶやいた。



 
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