7月6日、7日は星田妙見宮の七夕祭り。地域の道路には旗が立てられ、SNSでも発信されている。結婚して3度引っ込したがすべて星田妙見宮の近く。特に2度目の家は徒歩5分ほどであった。息子は小学校時代をそこで過ごしたので妙見河原がセミ取りなど遊び場だった。
その息子が妙見宮の七夕祭りは記憶がないと言う。交野で七夕祭りといえば機物神社しかイメージがなく「いつのまに?」というのが正直なところ。息子に言わせればネット上では機物神社より星田妙見宮の方が勢いがある。地元に居ながら知らないではいられない感じだ。と休日の明日、20数年ぶりに星田妙見宮に行ってみると話していた。ついでに大阪公立大学附属植物園と機物神社に行き「交野巡り」をするみたいだ。
私は明日、天王寺方面へ行く予定をしているので一足早く妙見宮の七夕祭りに行ってきた。自転車なので風を受け暑さは苦にならないが日射しの強さには辟易した。「殺人光線」と形容した人もいたが同感。
妙見宮は木も高く日差しが届かないので歩きやすい。息子の言う通り駐車場には他府県ナンバーも目立ち、SNS上ではかなり注目スポットになっているようだ。
機物神社は境内も狭く賑わっている感があるが、妙見宮はゆったりとして厳かな感じがする。人気アップの理由が分かる。
茅の輪くぐりは日本神話に由来がある。スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話が起源。
貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(たんしょうらい)は裕福にもかかわらず宿を貸そうとしなかった。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来のもとを訪れ「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えた。教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のようにくぐり抜けるものになったといわれている。
今年前半の半年間の穢れを清めて災厄を払い、このあとの後半も無事に過ごせるようにと祈る。
その息子が妙見宮の七夕祭りは記憶がないと言う。交野で七夕祭りといえば機物神社しかイメージがなく「いつのまに?」というのが正直なところ。息子に言わせればネット上では機物神社より星田妙見宮の方が勢いがある。地元に居ながら知らないではいられない感じだ。と休日の明日、20数年ぶりに星田妙見宮に行ってみると話していた。ついでに大阪公立大学附属植物園と機物神社に行き「交野巡り」をするみたいだ。
私は明日、天王寺方面へ行く予定をしているので一足早く妙見宮の七夕祭りに行ってきた。自転車なので風を受け暑さは苦にならないが日射しの強さには辟易した。「殺人光線」と形容した人もいたが同感。
妙見宮は木も高く日差しが届かないので歩きやすい。息子の言う通り駐車場には他府県ナンバーも目立ち、SNS上ではかなり注目スポットになっているようだ。
機物神社は境内も狭く賑わっている感があるが、妙見宮はゆったりとして厳かな感じがする。人気アップの理由が分かる。
茅の輪くぐりは日本神話に由来がある。スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話が起源。
貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(たんしょうらい)は裕福にもかかわらず宿を貸そうとしなかった。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来のもとを訪れ「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えた。教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のようにくぐり抜けるものになったといわれている。
今年前半の半年間の穢れを清めて災厄を払い、このあとの後半も無事に過ごせるようにと祈る。