素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

年賀状投函

2021年12月25日 | 日記
 12月15日から年賀状の受付が始まった。25日までに出せば元旦の朝確実に届けることができると報じていた。ここ数年は妻と私の近況報告をメインにするという形にしてきた。12月5日には裏面の印刷が終わり、宛て名印刷を待つだけの状態であったが、余裕がありすぎてか住所変更や喪中のチェックに進まなかった。妻は15日に合わせてきっちりチェックしてリストを渡してくれたので17日に印刷、余裕で投函を済ませた。

 以来、一日3回は「年賀はがき出した?」と尋ねられる。深い意味も無くあいさつ代わりの問いかけなのだが、続くとプレッシャーに感じるからやっかいだ。学生時代のテスト前の勉強と同じ、「わかっているけど 始められない」のである。

 昨日、ようやく火が付いた。昨年いただいた年賀状や喪中はがきを見ながら一筆書いていくことにしているので思いの外時間を費やす。近くのポストの集荷は10時11分と15時11分の2回、午前中に何とかしようと思ったが、途中で用事が入ったりして結局投函できたのは14時50分。ギリギリセーフであった。

 心に余裕ができた瞬間、年賀状っていつ頃からあるのだろう?という素朴な疑問が頭をよぎった。いろいろ調べてみると平安時代後期までさかのぼるみたいだ。

 現存する日本最古の年賀状とされているものは、藤原明衡の手紙文例集の「雲集消息」の中の年始の挨拶文例で、現在行われているような年賀状のやり取りが、この頃から貴族の中で始まっていたのではないかと考えられている。

 同じ頃、年始回りの習慣も広まり、年始に親族やお世話になった方に挨拶回りをするようになったみたいだ。

 江戸時代になると寺子屋などで庶民が読み書きを習い、武士、貴族階級だけでなく、庶民も手紙をやりとりする事が普通になり、年賀の書状が庶民にも身近な存在になっていった。

 また、江戸時代は町飛脚などの飛脚制度が発達したので、年始回りの代わりに新年を祝う書状を飛脚に届けてもらい挨拶を簡略化するという、現在の年賀状のルーツともいえるスタイルになったようだ。

 郵便事業が始まったのは明治3年で、その翌年には全国一律料金の郵便制度が確立される。それと同時に郵便役所(郵便局)や郵便差出箱(ポスト)が全国にどんどんできていき、明治18年頃には郵便というものが日本の国民に定着していった。

 また、その当時ヨーロッパで使用されていた定額の簡易郵便であるポストカードに習い、日本では明治6年から郵便はがきが発行された。

 明治20年前後、郵便制度が定着し、はがきの利用も同様に国民に定着したことにより、年始の挨拶をはがきで出すことが年中行事の1つとして日本国民に広まっていった。

 年賀状の取り扱いは年々増え続け、昭和10年ごろのピーク時には7億通を超えたといわれている。しかし、その数年後には日中戦争による戦局の悪化による物資の不足などから年賀状を自粛するムードが国内に広がっていき、昭和15年に年賀郵便の特別取扱は中止、昭和16年に太平洋戦争が始まり、終戦の年である昭和20年の時点で正月に年賀状が届くということはほとんどなくなった。

 それまで定着していた年賀郵便の制度は、戦争により実質的に中止となってしまった。ここにも戦争の影が見える。

 年賀郵便の特別取扱が再開されるようになったのは、復興ムードが世の中に出てくるようになった昭和23年だが、すぐには戦争前の状態には戻らなかった。

 昭和24年にお年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。

 第1回のお年玉つき年賀はがきの景品は、
特賞→ミシン
1等→純毛洋服地
2等→学童用グローブ
3等→学童用こうもり傘 というもの。時代の欲するものを反映している。

 インターネットや電子メールなどの普及からか、平成9年の37億通をピークに年賀状は減少傾向にある。

 年賀状の代用として、SNSのようなコミュニケーションツールを利用し、関係の浅い知人から外国にいる家族や友人などにも簡単に新年の挨拶をすることが可能となってきた時代。さてこれからは?と考えさせられる。

 大きく見れば、長年培かわれてきた紙文化が今、岐路にある。年々「やめます宣言」の賀状をいただくことが増えてきた。でも私は年賀状を出し続けたいと思っている。やめたいのは喪中はがきかな。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする