前回(→こちら)の続き。
大学受験本番。試験会場での休み時間をどう過ごすかは難しいが、私は
「ギリギリまで単語を覚える」
といったストイックな道ではなく、
「あえてなにもせず、リラックスをして望む」
そんな余裕を持った対応を選ぶことにした。
その選択は正解だったようで、ゆったりと読書にふける私をよそに、みなオレンジ色の表紙がまぶしい桐原書店の『英語頻出問題総演習』を開いて、最後のチェックに余念がない。
だが、その姿はいかにも追いつめられているというか、なんとも肩に力が入りすぎのような気がする。
それにくらべて、こちらの余裕ときたら。さすがは私、伊達に一年浪人をしていない。経験値では私の方が豊富なのだ(まったく自慢にはならないが)。悪いね、合格は人生の先輩の私がもらった!
なんて勝利を確信しているところに、どうも不協和音を感じたのは気のせいだろうか
ここに落ち着いて周囲を見渡してみると、その「リラックス派」というのが、存外に見あたらない。
いや、見あたらないどころか、ざっとながめたかぎりでは、一人も存在しないのではないか。
窓際の席では男の子が、やはり桐原の英頻を開いている。必死だなあ。まあたしかに英頻は当時のバイブルでしたが。
その斜め横の子も英頻で最終チェックをしていた。やたら人気だな、桐原。その隣も桐原か。売れてるなあ。桐原書店、大もうけやないか。
そうして見ていくと、教壇前にすわるメガネの女の子も桐原の英頻。
廊下でマーカー片手にアンダーラインを引いているのも桐原の英頻。たった今教室に入ってきたセーラー服のかわい子ちゃんも桐原の英頻。
などと数えるまでもない、いつのまにか会場にいる受験生全員が桐原の英頻を手にしていたのである。教室はオレンジに染まり、まるでサッカーオランダ代表の応援団である。
おいちょっと待て、旺文社、これはなんの罠だ。「本番前はリラックス」なのではないのか。
みんな、最後まで復習に余念がないではないか。必死じゃないか。ひとり阿呆みたいにリラックスしているボンクラ受験生は、もしかしたら私だけなのではないか。
さらに問題なのは、私が読んでいた本だ。
こういうときは、脳にやさしいエッセイとか、「やればできる」系の自己啓発本などを用意するのが基本であろう。
ところがどっこい、私が会場に持参したのは赤塚不二夫のマンガでタイトルが
『大バカ探偵はくち小五郎』
であった。
みなが「桐原の英頻」に首ぴっきの中、私は「はくち小五郎」である。
それはどうなのか。そもそも「はくち小五郎」というタイトルはいかがなものなのか。放送コードにひっかからないのか。第一、私は世代的に赤塚不二夫にはたいしてなじみはない。
なのに、なぜ赤塚マンガを持っているのか。それも、やたらとマイナーなタイトルである。せめて『おそ松くん』とか、もっと知られてるもん読めよ!
って、そんなことはどうでもいいが、みんな必死ではないか。ここで『大バカ探偵はくち小五郎』を読んでいるなんて私こそが大バカ三太郎なのではないのか。
あせった私はせめて『英単語ターゲット1900』など取り出して学習しようとしたが、カバンの中に入っていたのは「はくち小五郎」の2巻と3巻であった。
針のように研ぎすまされた空気の中、ひとりギャグマンガなど読んでゲラゲラ笑っていた私は会場では完全無欠に浮いている。
リラックスどころか赤っ恥であり、それに加えて、いかにいい参考書とはいえ教室中が同じ本を開いて勉強しているという事実にも驚愕した。
なんぼ名著といわれた「桐原の英頻」とはいえ、皆が皆読んでるって……日本人の「みんなと同じが一番」信仰ってすごいなあと、あらためて感心したのである。
さらには、その輪には入れてないオレって……と、和を重んじる日本ではあるまじき「怒濤のマイナー野郎」である自分に愕然とし、リラックスどころか試合開始前からテンションだだ下がりである。
こうして二重、三重の意味で選択を誤った感のある私。
どうするどうなるこの話はさらに次回に続く(→こちら)のである。
大学受験本番。試験会場での休み時間をどう過ごすかは難しいが、私は
「ギリギリまで単語を覚える」
といったストイックな道ではなく、
「あえてなにもせず、リラックスをして望む」
そんな余裕を持った対応を選ぶことにした。
その選択は正解だったようで、ゆったりと読書にふける私をよそに、みなオレンジ色の表紙がまぶしい桐原書店の『英語頻出問題総演習』を開いて、最後のチェックに余念がない。
だが、その姿はいかにも追いつめられているというか、なんとも肩に力が入りすぎのような気がする。
それにくらべて、こちらの余裕ときたら。さすがは私、伊達に一年浪人をしていない。経験値では私の方が豊富なのだ(まったく自慢にはならないが)。悪いね、合格は人生の先輩の私がもらった!
なんて勝利を確信しているところに、どうも不協和音を感じたのは気のせいだろうか
ここに落ち着いて周囲を見渡してみると、その「リラックス派」というのが、存外に見あたらない。
いや、見あたらないどころか、ざっとながめたかぎりでは、一人も存在しないのではないか。
窓際の席では男の子が、やはり桐原の英頻を開いている。必死だなあ。まあたしかに英頻は当時のバイブルでしたが。
その斜め横の子も英頻で最終チェックをしていた。やたら人気だな、桐原。その隣も桐原か。売れてるなあ。桐原書店、大もうけやないか。
そうして見ていくと、教壇前にすわるメガネの女の子も桐原の英頻。
廊下でマーカー片手にアンダーラインを引いているのも桐原の英頻。たった今教室に入ってきたセーラー服のかわい子ちゃんも桐原の英頻。
などと数えるまでもない、いつのまにか会場にいる受験生全員が桐原の英頻を手にしていたのである。教室はオレンジに染まり、まるでサッカーオランダ代表の応援団である。
おいちょっと待て、旺文社、これはなんの罠だ。「本番前はリラックス」なのではないのか。
みんな、最後まで復習に余念がないではないか。必死じゃないか。ひとり阿呆みたいにリラックスしているボンクラ受験生は、もしかしたら私だけなのではないか。
さらに問題なのは、私が読んでいた本だ。
こういうときは、脳にやさしいエッセイとか、「やればできる」系の自己啓発本などを用意するのが基本であろう。
ところがどっこい、私が会場に持参したのは赤塚不二夫のマンガでタイトルが
『大バカ探偵はくち小五郎』
であった。
みなが「桐原の英頻」に首ぴっきの中、私は「はくち小五郎」である。
それはどうなのか。そもそも「はくち小五郎」というタイトルはいかがなものなのか。放送コードにひっかからないのか。第一、私は世代的に赤塚不二夫にはたいしてなじみはない。
なのに、なぜ赤塚マンガを持っているのか。それも、やたらとマイナーなタイトルである。せめて『おそ松くん』とか、もっと知られてるもん読めよ!
って、そんなことはどうでもいいが、みんな必死ではないか。ここで『大バカ探偵はくち小五郎』を読んでいるなんて私こそが大バカ三太郎なのではないのか。
あせった私はせめて『英単語ターゲット1900』など取り出して学習しようとしたが、カバンの中に入っていたのは「はくち小五郎」の2巻と3巻であった。
針のように研ぎすまされた空気の中、ひとりギャグマンガなど読んでゲラゲラ笑っていた私は会場では完全無欠に浮いている。
リラックスどころか赤っ恥であり、それに加えて、いかにいい参考書とはいえ教室中が同じ本を開いて勉強しているという事実にも驚愕した。
なんぼ名著といわれた「桐原の英頻」とはいえ、皆が皆読んでるって……日本人の「みんなと同じが一番」信仰ってすごいなあと、あらためて感心したのである。
さらには、その輪には入れてないオレって……と、和を重んじる日本ではあるまじき「怒濤のマイナー野郎」である自分に愕然とし、リラックスどころか試合開始前からテンションだだ下がりである。
こうして二重、三重の意味で選択を誤った感のある私。
どうするどうなるこの話はさらに次回に続く(→こちら)のである。