「業の肯定」とフランス落語 カトリーヌ・ドヌーブ主演『しあわせの雨傘』

2020年10月30日 | 映画

 映画『しあわせの雨傘』を観る。

 あらすじは作品紹介によると、

 

 スザンヌは、朝のジョギングを日課とする優雅なブルジョア主婦。

 夫のロベールは雨傘工場の経営者で、「妻は美しく着飾って夫の言うことを聞いていればいい」という完全な亭主関白だ。
 
 ところがある日、ロベールが倒れ、なんとスザンヌが工場を運営することに。

 明るい性格と、ブルジョワ主婦ならではの感性で、傾きかけていた工場はたちまち大盛況! だが、新しい人生を謳歌する彼女のもとに、退院した夫が帰ってきた

 

 主演はカトリーヌドヌーブ

 といっても、この映画の彼女は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』のような、若くてコケティッシュな姿ではなく、もすでにいるというおばあちゃん役。

 ただ、そこはなんといってもフランスの名女優のこと。

 その存在感と華やかさはなかなかのもので、演技はもとより、ダンスと大はりきりと、その魅力をふんだんに振りまきまくって、まずそこを観ているだけでも楽しい映画。

 では肝心のストーリーはどうかといえば、これがまた実に良かった(以下、ネタバレあります)。

 物語のキーワードは

 

 「みんな間違ってるよなあ」

 

 家庭にしばりつけられた主婦が、ひょんなきっかけから社会に出ることになり、そこで自己実現のきっかけをつかんでいく、というのはストーリーとしては、さほど目新しいものではない。

 どっこい、これがフランス喜劇となると、そう一筋縄ではいかない。

 最初の45分くらいまでは、亭主関白の旦那がまくしたてるようにイバリ散らすため、この人が「悪役」として配置されているのかと思いきや、ことはそう単純ではないのだ。

 とにかく、この映画に出てくる登場人物は間違いまくりである。

 エラそうな旦那はもとより、カトリーヌ・ドヌーブも邪気のないおばあさんと思いきや、過去にはがいる身でガンガン男に抱かれてる。

 母親が横暴な父親の言いなりなのを、やや上から目線ながらも歯がゆく思っていたは、土壇場で裏切って、カトリーヌを社長の座から引きずり降ろし、

 

 「アンタ、家にしばりつけられてるウチのこと《飾り壺》やって、バカにしてたやないの」

 

 そう行動の矛盾をつっこまれると、

 

 「うん。ゴメンね。でも、パパと離婚はせんといて」

 

 的外れかつ、勝手なことを言う。

 なんといってもすばらしいのが、ジェラールドパルデュー演ずる左翼市長

 立派で高潔な彼はかつて一夜を共にしたカトリーヌと再会できて、やれうれしや、結婚しよう。

 さらには彼女の息子が、自分の隠し子だとカン違いして浮かれたあげく、彼女の放埓な一面を知ると、

 

 「ボクはブルジョアのメス豚にのぼせあがっとったんか……」

 

 突然、スゴイことを言い出す(笑)。

 あげくには、カトリーヌの息子が自分の落とし種でない(ついでにいえば夫の子でもない!)ことを知るや、家まで5キロもある郊外の湖に置き去りに。

 

 「ちょっと! ウチ、ハイヒールやのに、どうやって帰るのん?」

 

 という訴えにも、ガン無視で車を出してしまうところなど、ジェラール最低! でもって最高

 なんてちっちゃい男なんや、おまえはホンマと、もう大爆笑なのである。

 なんて書くと、なんだかこの映画の登場人物がみなそろいもそろって、愚か者エゴイストのような印象をあたえそうだが、そこはそうでもない

 たしかに彼ら彼女らは、たくさんの間違いを犯す。

 それも、なかなかに人としてヒドかったり、状況として最悪だったりと、観ていて「なにやってんのよ」と笑いっぱなし。

 でもねえ、これがフランス喜劇の底力なのか。

 そこがあんまり、怒ったり呆れたりといった感じにならないというか、むしろ、しみじみさせられるというか。

 なんか、人ってこういうバカなこと、言ったりやったりするよなあと。

 私も大人になって思うようになったことは、

 

 「人間って、そんなに賢くないよなあ」

 

 これは別に、「人類は愚かだ」みたいな、

 「どの目線でしゃべってるねん!」

 そう突っこみたくなるような文化人発言ではなく、なんかねえ、人ってそんないつもいつも賢明にはふるまえないじゃん、みたいな。

 

 「ここで、それやるか」

 「そこで、それ言うか」

 

 学校で、家庭で、仕事で、友人家族恋人に、そんなことばかりしてるのがというものだ。

 それらの多くは、あとで冷静に考えたら

 

 「なんであんなことを……」

 

 バカバカしくなったり、頭をかかえたりすることばかり。

 けど、そのときは感情がおさえられなかったり、それが最善だと思ってやってたりする。

 阿呆やなあとボヤきたくなるが、カートヴォネガット風にいえば、「そういうもの」ではあるまいか。

 それこそ、の立場からすると、ジェラールがカトリーヌをメス豚(何度聞いてもいい語感だ)呼ばわりしたあげく置き去りにするとか。

 下手すると「人間のクズ」というくらいヒドいんだけど、なんかわかる、とはいわないけど、自分だったらどうだろう。

 結構、似たようなことしちゃうんじゃないかなあ、少なくとも紳士的にふるまう自信はないよなあ……。

 なーんて苦笑してしまうというか。それは同じくカトリーヌやその娘の間違いも、それぞれの立場に共感できる人が見たら、

 

 「ヒドイ! でもなんか、わからんでもないわ……」

 

 そうなるんではあるまいか。その演出のさじ加減が絶妙なんスよ。

 この作品を見て思い出したのは、立川談志師匠のこんな言葉。

 

 「落語は人間の業を肯定する芸である」

 

 人間というのは完璧ではなく、間違いは犯すし、でもそれこそが人間であり、そこを笑って慈しむのが落語であると。
  
 もうひとつ、作家の池澤夏樹さんがギリシャ神話について語ったとき、こう言ってもいる。


 「神話というのは、人間の行動の基本パターンを物語化したものだと思う。

 人間は好色で、喧嘩好きで、すぐ裏切り、怒りに身を任せ、それでも崇高なものに憧れて、時には英雄的にふるまう」。

 

 ―――池澤夏樹『世界文学リミックス』 

 

 そう、この『しあわせの雨傘』はまさに「業の肯定」映画。

 「喧嘩好き」で、「すぐ裏切り」「怒りに身をまかせ」「時には英雄的にふるまう」。

 池澤先生の言うエッセンスが、すべて詰めこまれている。まさに「フランス落語」。

 それも日本の「人情喜劇」みたいに湿っぽくないのが良いというか、その理由に「間違い」に対する登場人物の反応もあるかもしれない。

 失敗失言に、もちろん怒ったりガッカリしたりはするし、それをゆるすというわけではないけど、そこでガッツリ傷ついたりしないというか。

 なんといっても、置き去りにされたカトリーヌは結局ヒッチハイクして帰るんだけど、そこで拾ってくれたたくましいトラック運転手とまんざらでもない雰囲気を出したりと(若き日のジェラール・ドパルデューもまた、かつてはしがないトラック運転手だった!)、メチャクチャこのあたりもカラッとしている。

 そこで泣きさけんだり、平手打ちしたりせず、このあっけらかんとしたところが、また良いのである。

 登場人物の愚かさに共感しつつも爆笑し、ついでに言ってしまえば、ラストでカトリーヌがとる行動が、またダイナミック

 アンタ、そこへ行きつきますか! パワフルやなあ。

 もうねえ、まいりましたよホント。なんて、かわいいおばちゃんなんや!

 フランス野郎がつくったから、しゃらくさいんだろとか思わず(のことです)、一度は見てください。

 ジェラール・ドパルデューとのダンスも最高。超オススメです。

 


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