「いい人だと思われたら終わり」と鈴木大介八段は言った 羽生善治vs森下卓 1989年 第48期C級1組順位戦  その2

2017年02月22日 | 将棋・名局
 前回(→こちら)の続き。
 
 1990年、第48期C級1組順位戦の最終戦で戦うことになった、羽生善治竜王森下卓六段
 
 この一番は、単なる順位戦の一局という枠におさまらない因縁があり、羽生と森下は次代の将棋界をになうライバルだが、同時に友人同士でもある。
 
 森下は勝てば昇級だが、羽生は全勝昇級をすでに決めており消化試合
 
 森下には悲壮だが、羽生には気楽な勝負。
 
 そして、もう一度いうが、ふたりは仲のいい間柄である。
 
 さすれば、その結果は……。
 
 この一番をむかえるにあたって、私もふくめ多くのファンが、最終戦の結果だけ空いたリーグ戦の表を見ながら、想像してみたのではないだろうか。
 
 もし、自分羽生の立場だったら、どうするか。
 
 友人の幸せがかかった勝負。自分は消化試合
 
 勝っても負けても、通算勝数プラス1以外、まったくといっていいほど意味はない。
 
 結論からいえば、私だったら勝たない
 
 将棋の世界には
 
 
 「自分にはどうでもよく、相手にとって重要な一番、こういうときこそ全力で負かしに行かなければならない」
 
 
 という、「米長哲学」というものがあるが、そこまでこだわるべきかどうか、わからないところもある。
 
 そもそもこの哲学自体、「勝ってしまった」罪悪感から生まれたアンビバレントな後づけの理論だと思うし(ただそれを、いい方面に解釈して全力で戦う棋士の姿はすばらしいと思う)、現実問題やろうと思っても、消化試合に、いつもと同じ力を出せるかも、あやしいではないか。
 
 いや、別にわざと負けるとか八百長をするとか、そういうことではないけど、全力でつぶしに行くかといえば、「石にかじりついてでも」という闘志は望むべくもないだろうしなあ……。
 
 私のような素人考えのみならず、まあ、そこそこ多くの人が、同じように感じるのではあるまいか。
 
 ましてや森下は、棋界一といわれるような好青年である。そんないい男に意地悪をする気など、起こりもしないではないか……。
 
 という凡人の考えを、羽生は鼻で笑って一蹴する。
 
 この一番に、羽生は冷酷ともいえる指しまわしを見せることとなるのだ。
 
 先手番の羽生は飛車を中央に振ると、のびのびとした陣形を築き、勢いよく攻めまくった。
 
 受け一方になった森下は、必死でしのいでチャンスを待つが、それはいっかなおとずれる気配を見せない。
 
 くわしくは『羽生善治全局集』を参照してほしいが、序盤中盤終盤と羽生が一方的に局面をリードしてはなさない。
 
 気がつけば形勢は圧倒的。コーナーポストでうずくまる相手を、ガードの上からガンガンぶったたく、ヘビー級ボクサーのような戦い方だった。
 
 そして、運命の場面をむかえた。
 
 
 
 
 図はすでに先手が勝勢
 
 美濃囲いに相当せまられているが、攻めの形がシンプルなので、速度計算がしやすい局面ともいえる。
 
 実際、ここでは寄せに行っても勝てそうだが、羽生が指したのは万にひとつの逆転負けを防ぐ、冷たい指し方だった。
 
 
 
 
 
 
 ▲58金打が、血も涙もない決め手。
 
 これこそまさに、
 
 
 「激辛流」
 
 「友だちを無くす手」
 
 
 野球でいえば、5点リードの9回裏に、満を持して絶好調に仕上げてきた、ダルビッシュ有田中将大をマウンドに送るようなものである。
 
 この大山康晴十五世名人のような金打ちの瞬間、検討していた記者室で、ものすごい怒号のような声が上がったという。
 
 

 「鬼だ」

  「人間じゃない」

 
 
 その後すぐに、森下は投げた。
 
 これにより、室岡克彦を破った(これも室岡には降級点がかかった大きな一番だった)土佐浩司が逆転昇級を決めた。
 
 このときの様子を、先崎学九段が書いている(改行引用者)。
 
 

僕と羽生が記者室に無言でいると、廊下のほうから、己の運命を確認したであろう森下の「そうか、そうか」という声と、それにつづいて意味不明の声にならぬ声が聞こえた。
 
 そして、その声がまだ耳に残るうちに、大きな足音と、それにつづいてエレベーターのドアが閉まる音がした。

 羽生は、その間、放心状態で、記者室で茫然としていた。

  彼にとってもつらい勝利だったのだろう。羽生の耳には、森下のあの声はとどいていたのだろうか―――

 
 
 大きな勝負で、このような戦い方を見せることによって、羽生はのちの常勝時代を築き上げることとなる。
 
 

 「勝負の世界は、いい人だと思われたら終わり」

 
 
 そう言い放ったのは、鈴木大介八段であった。
 
 羽生は「いい人」のまま「」のような「人間じゃない」手を指して王者になった。
 
 そう言えば羽生は、このひとつ前の9回戦でも8勝2敗3位につけていた泉正樹五段を相手に、やはり消化試合だったにもかかわらず、千日手2度という激戦の末に勝利している。
 
 そういったところが、羽生善治という男の底知れぬところなのだろうか。
 
 
 
 

 ■おまけ 羽生の見せた「米長哲学」の詳細は→こちら
 
 □「準優勝男」森下卓の全棋士参加棋戦優勝の将棋は→こちら
 
 ■森下と羽生のB級2組時代の決戦は→こちら
 
 
 
 
コメント
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