ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』が好き好き大嫌い!

2020年08月16日 | 映画
 「オレは『グランドブダペストホテル』という映画が好き好き大嫌いやあああああ!!!!!」。
 
 週末の夜に、そんな岡崎京子さんのマンガのような声がこだましたのは、友人アクタガワ君のこんな言葉からだった。
 
 
 「これ、君が好きそうな映画やから見たら?」
 
 
 そうして渡されたDVDが、『グランド・ブダペスト・ホテル』であった。
 
 『ロイヤルテネンバウムズ』『ダージリン急行』など、非常に洗練された作風で鳴らす、ウェスアンダーソンが監督をつとめた作品。
 
 ライムスター宇多丸さんをはじめ、評論筋からも非常な高評価を得た良作だ。
 
 舞台は1932年、東ヨーロッパにあり、おそらくはハプスブルク家が治めるオーストリア=ハンガリー帝国の一部だったであろう小国ズブロフカ共和国
 
 グランド・ブダペスト・ホテルはズブロフカ随一の高級ホテルであり、そこのコンシェルジュであるグスタフと、難民からこのホテルに拾われたベルボーイゼロを主人公に、殺人事件や名画をめぐる冒険を描いた、ミステリ調の喜劇である。
 
 で、これがおもしろかったのかといえば、たしかに評判通り、いい出来であった。
 
 ストーリーはテンポよく進み飽きさせないし、かわいいミニチュアに、色合いから画面構成、セリフ回しのさなど、実に巧みでオシャレである。
 
 玄人の映画ファンから、デートムービーで行くカップルまで、幅広い層にも楽しまれそうなところもすばらしい。
 
 そしてなにより、友がニヤニヤしながら「いかにも」といった要素が、こちらのツボをくすぐりまくる。
 
 学生時代ドイツ語とドイツ文学を学び、今でも池内紀先生の本を愛読している身からすると、もう舞台設定からして、どストライク。
 
 ストーリーや空気感も、エルンストルビッチからビリーワイルダーの師弟ラインや、ハワードホークスプレストンスタージェスといった流れにバンバンに乗っかっており、これまた大好物。
 
 とどめに、シュテファンツヴァイクの名前まで出てきた日には、もう笑うしかない。
 
 『マリーアントワネット』や『ジョゼフフーシェ』はもう、学生時代何度も読み直したものだ。『マゼラン』『人類の星の時間』とか。
 
 そんな、全編「オレ様の大好物」でできているような映画でありまして、そらアクタガワ君がすすめるのもしかり。
 
 いやあ、ようできた映画ですわ。次はぜひ、ヨーゼフロート『聖なる酔っ払いの伝説』か、シュニッツラーの『輪舞』を撮ってくれないかしらん。
 
 カレルチャペック『長い長いお医者さんの話』でもいいなあ……。
 
 なんて感想を思いつくままに語ってみると、
 
 
 「なんだおまえは、ふつうに楽しんでいるではないか。それなのに、さっきは《大嫌い》といっていたが、それはどういうことなのだ」
 
 
 なんて、いぶかしく思う向きもおられるかもしれないが、そうなんです。
 
 やっぱオレ、この映画が好きになれないなあ。
 
 理由は、ひとことで言えば「近親憎悪」。
 
 よくあるじゃないですか、オタクマニアと呼ばれる人が、同じ趣味志向の人を見ると、同志愛をおぼえると同時に複雑な感じになることが。
 
 「アイツはわかってない」と議論になったり、なぜか「一緒にしないでくれ」と否定して周囲から「一緒や」と苦笑されたり。
 
 そういう、めんどくさい感情にとらわれるのが、同族嫌悪と言うやつなのだ。
 
 冒険企画局の『それでもRPGが好き』という本の中で、
 
 
 奈那内「近藤さんは、エンデが嫌いでしたよね」
 
 近藤「冗談じゃない。嫌いなものか」
 
 (中略)
 
 奈那内「でも、なんかエンデの本について話しだすと、近藤さんトゲトゲしいですよ」
 
 近藤「だって、あの人理屈っぽいんだもの。自分の作品について、作者のくせにいろいろ理論を語っちゃうし」
 
 奈那内「同じですよ、近藤さんと……。あ、そうか。だから議論になっちゃうんだ」
 
 
 こんなやりとりがあったんだけど、近藤功司さんの気持ちはスゲエわかる!
 
 ましてや、同じ世紀末ウィーンの話をしても、ウェスはラジオ番組「たまむすび」で赤江珠緒さんに「かわいい」って言われるのに、私だと、
 
 
 「なにがウィーンだ。テメーは『ゴジラ対メガロ』の話でもしてろ!」
 
 
 ……てなるのは目に見えてるんだもんなあ。
 
 シュテファン・ツヴァイクを取り上げても、将棋の佐藤天彦九段なら「貴族」だけど、私だと
 
 
 「乞食が、なんかいうとるで」
 
 
 てあつかいですやん、きっと。
 
 まあ、その不公平感といいますか。「同類」やのに、なんでオマエだけモテてるねん! 
 
 ……なんか、言葉にすると、すげえ情けないですが、まあそういうこと。
 
 ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』はとってもおもしろかったので、私以外の方には超オススメです。
 
 
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平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 『桐島、部活やめるってよ』の松岡茉優編

2020年01月24日 | 映画
 「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 
 
 そんなことを言ったのは、後輩ハナタグチ君であった。
 
 彼は映画やマンガが好きなのだが、最近そこで出てくる悪者に不満があり、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 「弱者による世界への復讐」
 
 
 のような、人生哲学感情移入を誘発するヤツはアカンと。
 
 
 「もっとシンプルに、平松伸二先生の『ブラックエンジェルズ』に出てくるような、心の底からブチ殺したくなる、わかりやすい悪がええんです」
 
 
 というのが彼の望みなのだ。
 
 
 
 
 
声に出して読みたい松田さんの名セリフ。
「いや、ネットリンチとかって、そういうノリから……」とは、とてもつっこめません。
 
 
 
 
 
 前回『シカゴ』のヒロイン(→こちら)などを紹介したが、続けて「やな女」部門から。
 
 映画版『桐島部活やめるってよ』の野崎沙奈
 
 
 
 
 
 
 
 
 もともと『桐島』は、観たあとかならず自分の青春時代を良かれ悪しかれ振り返り、そのさまざまな記憶の奔流に、
 
 
 「ああ!! あああああ!!!!」
 
 
 頭をかかえて悶絶させられるという、デヴィッドフィンチャーゴーンガール』のような、
 
 
 「絶対見るべきだが、決しておススメではない」
 
 
 といったタイプの映画だが、とにかく鑑賞中ずっとザワザワしっぱなしで、居心地が悪いのなんの。
 
 そもそもこの映画は、学校という閉鎖空間の息苦しさを見事に表現した、ある種の「収容所もの」でもあるわけだが、これはもうオープニングでの女子4人の会話から、これでもかとそれを感じさせる。
 
 なんかあの女子たちの、
 
 
 「顔がかわいいもの同士なんとなくつるんでいて、別にそこに熱いものはないけど、そこを軸に周囲を見下す態度を取ることに、やぶさかでない」
 
 
 という、イヤーな連帯感を見せられる。もうこの時点で、
 
 「あ、これはアカンやつや」
 
 という気にさせられますよねえ。
 
 部活のことで悩んでるバドミントン部の子に、
 
 
 「あたしだって、別に本気でやってるわけとかじゃないし」
 
 
 みたいなことを言わせる同調圧力とか、ヒドイなあ。
 
 監督の演出が巧みすぎて、ちょっと正視できない感じなのだ。
 
 でだ、立場的には明らかに文化系地味男子の私からすれば、あのパーマとか桐島の彼女とか言いたいことあるヤツはいっぱいいるわけだけど、中でもダントツに「仮想敵国」になるのが、松岡茉優さん演ずるところの野崎沙奈。
 
 いやもう、この女がねえ、すごく、すーんごく、やな女なんですよ。
 
 うーん、これじゃあ言い足りなあ。ちょっとここは一発いかしてください。
 
 松岡茉優ちゃん演ずるところの、野崎沙奈。これがもう、すごく、すごーくヤな女で、もう観ている間中ムカムカしまくりで、死ねこのクソ女とスクリーンに叫びまくりやあああああ!!!!
 
 ぜいぜい……ちょっと興奮してしまったけど、とにかくそういうこと。
 
 もう、無茶苦茶に、ムーッチャクチャにイヤな女なのだ。
 
 このふだんはボーっとした私が、連呼してしまったものねえ。
 
 死ね、死ねこの女、今すぐ死刑
 
 嗚呼、腹立つぜ。
 
 これは私だけでなく、映画評論家の町山智浩さんをはじめとして、この映画を観た男子が同じように、
 
 
 「やな女なんだよー(苦笑)」
 
 
 と語っているから、本当にそうなんだろう。
 
 具体的にどう嫌なのかは映画を観てもらうとして、彼女のすごいのは個々の言動とか言うよりも雰囲気というか、とにかく全身から「イヤな女子高生」オーラが噴き出ているところ。
 
 なにがどうということはないけど、わかるのだ。コイツとは絶対に仲良くなれないよ、と。
 
 いや、これねえ。もちろん、ほめ言葉なんです。
 
 つまるところ、セリフとかうんぬんじゃなくて彼女自身が
 
 「ヤな女にしか見えない」
 
 ということは、演じている松岡茉優さんが、すんごく演技上手ということなんですよ。
 
 彼女はNHKのドラマ『あまちゃん』で、
 
 「明るくがんばり屋で、それでいてちょっと抜けているところがあって、皆から慕われるリーダー」
 
 ていう、まさに正反対の役をやってるから、よけいにその達者さが際立つ。
 
 すごいなあ、この子。今の邦画やテレビドラマの大きな弱点
 
 
 「役者がそろいもそろって演技が下手すぎる」
 
 
 ということだから(なので『シンゴジラ』は「演技をさせない」ため、あんな編集になってるんですね)、よけいにそれが際立つというもの。
 
 この作品は群像劇であり、あえていえば神木隆之介君と東出昌大君が主人公になるんだろうけど、物語の芯を支えている裏MVPは、間違いなく松岡茉優さんであろう。
 
 もう、出てくるたびに、
 
 「この女、オレ様が成敗してくれる!」
 
 て気になるのだ。まあ、どう「成敗」するかは、ご想像におまかせしますが(←絶対エロいこと考えてるだろ)。
 
 いやあ、いいなあ松岡さん。最高ですやん、この子。
 
 というと、なんだかさんざ語っておいて「最高」とはどういうことだとつっこまれそうだけど、前回も言ったように、
 
 「女のド外道は魅力的でもなければならない」
 
 わけで、その定義からいっても、松岡茉優さん演じるあの女は、もう腹立って、ぶん殴りたくなって、「でも……」という気分にさせられる、「最高にいいクソ女」なのである。
 
 つまるところ、結論としては、
 
 
 「ゴミみたいなあつかい受けてもいいから、死ぬほど根性の曲がった松岡茉優さんとつきあいたい」
 
 
 ということであり、マジで惚れますわホンマ。
 
 
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平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 『シカゴ』のロキシー・ハート編

2020年01月15日 | 映画
「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 
 
 前回(→こちら)そんなことを言ったのは、後輩ハナタグチ君であった。
 
 彼は映画やマンガが好きなのだが、最近そこで出てくる悪者に不満があり、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 「弱者による世界への復讐」
 
 
 のような、人生哲学感情移入を誘発するヤツはアカンと。
 
 
「もっとシンプルに、平松伸二先生の『ブラックエンジェルズ』に出てくるような、心の底からブチ殺したくなる、わかりやすい悪がええんです」
 
 
 というのが彼の望みなのだ。
 
 
 
 
 
 ハナタグチ君の望むカタルシスはこれです
 
 
 
 
 
 
 そこで今回もステキなド外道についてだが、悪党は暴力的な男だけではなく、もちろんのことにもいる。
 
 西部劇のように拳銃を振りかざしたり、マフィアのように密輸や暗殺したりもしないが、知恵色気で周囲を惑わす悪女というのは存在感抜群だ。
 
 たとえば『シカゴ』に出てきたロキシーハート
 
 『シカゴ』といえば、ブロードウェイでも大ヒットしたミュージカルの映画版。
 
 ストーリーはスターを夢見るロキシーが、彼女をだまして、もて遊んだ男をカッとなって殺害するところからはじまる。
 当初は正当防衛を主張して罪を逃れようとしたロキシーだが、浮気の事実が夫にバレたことから断念。
 
 そこでリチャードギア演じる敏腕弁護士のビリーに助けを求め、彼と二人三脚。
 
 ロキシーを極刑にしようと奔走する検事や、一筋縄ではいかない刑務所長女囚相手に、あの手この手で無罪を勝ち取ろうとするが……。
 
 といったあらすじを見ればおわかりのように、この映画は登場人物が悪役ばかりで、彼ら彼女らがそのエゴをむき出しに、走り回るさまが楽しいコメディーだ。
 
 そんなナイスな小悪党たちの中でも、ひときわ光るのがロキシーの「やな女」ぶり。
 
 もともと、「そこそこにはかわいい」程度の容姿なうえに、歌もダンスも十人並みの彼女がスターうんぬんというのもドあつかましいが、それ以上に性根が腐りまくっているのがステキだ。
 
 
 
 
 
 
いい顔してます。
 
 
 
 
 そもそも殺人の動機も、「芸能界にコネがある」と男にだまされたことによる自業自得とも言えるものだし(「枕営業」ってやつですね)、旦那がお人好しで自分にべた惚れなのをいいことに、ふだんからバカにしまくっている。
 
 ビリーの策略によって、刑務所内で「悲劇のヒロイン」になれば、それにひたりきって、周囲の人間をアゴで使う。
 
 世間の同情をひくため「子供ができた」とウソを言い、反省どころか、
 
 
 「これを利用してスターになれる!」
 
 
 とか、ぬかりなく考える。
 
 あまつさえ、裁判でいい印象をあたえるため用意された衣装を、
 
 
 「こんなダサい服で写真に撮られたくない」
 
 
 そう拒否したうえ、「おい! オレは弁護のために、知恵しぼってこの服も選んどるねん!」とキレるビリーに、
 
 
 「ウチはスターなんやで? もっと態度をわきまえなあかんのとちゃう?」
 
 
 などと言い放って解雇するなど、もうやりたい放題。
 
殺人の重み? の意識? への贖罪?
 
知るかいな! そんなもん、どこの国のケチャップぬったアメリカンドッグやねん! と。
 
 もう、見ていてメチャクチャに腹が立つというか、上映中の2時間ずっと、
 
 「この女を高く吊るせ!」
 
 という気分にさせられるのだ。
 
 で、この映画のすごいのは、そうやってさんざん
 
 「このクソ女がいつ死刑になるか」
 
 という興味で引っ張っておきながら(←いや、とかダンスとかもあるだろ!)、最後の最後は彼女がハッピーになったことで、思わず祝福の拍手を送ってしまうこと。
 
 いやホント、その演出はすばらしいものがあった。途中、あんだけ
 
 「法が裁けないなら、オレが踏みこんで討つ!」
 
 な義憤に駆られていたのに、見事な大団円。
 
 マジで、最後のナンバーのあと、「やったぜロキシー!」って気分になるのだ。あれはやられました。 
 
 最初の1時間50分は、
 
 
 「この女、ぶっ殺す!」
 
 
 残りの3分が、
 
 
「ロキシー最高! アンタに心底惚れましたわ!」
 
 
 このギャップがたまらない。
 
 ふつうは、こんなヤな女が成功したら、モヤモヤしてカタルシスもなさそうなもんなのに。レネーゼルウィガー、すごいなあ。
 
 やはり男とちがって、女の悪役は魅力的でもないとあきません。
 
 だまされて、裏切られて、それでも懲りないわれわれ男子。
 
 バカで安っぽく、それでもたくましいロキシー・ハート嬢こそ、まさに最高のド外道女ですねえ。
 
 
 
 
 
 (松岡茉優編に続く→こちら
 
 
 
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平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 映画の魅力的な悪役について

2019年12月02日 | 映画
 「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 

 近所のモツ焼き屋で、熱くそうぶち上げたのは、後輩であるハナタグチ君であった。
 
 発端はマンガや映画の話からだったが、彼によると、最近はなかなかおもしろい作品に出会えていないという。
 
 なぜならそこには、

 
 「魅力的な悪役

 
 これが足りていないのだと。
 
 そうかなあ。『ダークナイト』のジョーカーとか、『シン・ゴジラ』の破壊シーンなんて評判ええやないの。
 
 なんて問うてみると、ハナタグチ君は

 
 「そういうんちゃうんです。ボクが言うてる悪役は、もっとシンプルで下世話なんです。なんか、偏差値高そうなのはダメなんですよ」

 
 彼によると、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 
 みたいな、哲学性があるもんとか、
 
 
 「原爆の怨念を背負って」
 
 
 とか、そういうのはアカンと。
 
 「思想
 
 「共感
 
 「情状酌量の余地」
 
 これがあると、ブチ殺してもカタルシスがないと。

 
 「もっと、だれが見ても《こら、殺されてもしゃあないわ》と思わせるヤツじゃないと、ボクは満足できません!」

 
 なるほど。要は感情移入を誘発するような「深み」があったら困るというこっちゃな。
 
 そんなとことん悪いヤツいうたら、平松伸二先生の大名作『ブラックエンジェルズ』に出てくるようなんのこと?
 
 と問うならば、ハナタグチ君は我が意をついに得たりと、

 
 「そう、そうっス! ド外道ッスよ! それが出ない映画とかドラマは、ボク物足りへんのですわ!」

 
 平松伸二『ブラックエンジェルズ』とはどういうマンガなのかといえば、「黒い天使」という暗殺者集団が主人公。
 
 現代の仕置人ともいえる彼らが、法で裁けない悪を次々殺していくという「勧善懲悪」ものだが、その悪の基準というのが、
 
 
 「平松先生が、テレビや雑誌で見て頭にきたヤツら」
 
 
 というのだからステキだ。
 
 『ブラックエンジェルズ』に出てくる悪者は、それはそれはお悪うございます。
 
 第1話からして、前科はあるが更生してがんばっている青年を、再犯させるよう執拗に挑発し、
 
 

 「逮捕ってのはな、犯罪が起きてからするもんじゃねぇ、起こさせてするもんなんだ!」

 
 
 との、とんでもない名セリフを吐き、あまつさえ青年の妹を暴行するだけでなく、ついにキレた彼を

 
 

正当防衛成立だな」


 
 と撃ち殺す悪徳刑事とか。
 
 
 
 
 日本の警察が「優秀」なのは、こういう人が数字をあげているからかもしれません
 
 
 
 
 続く第2話では、面白半分で人を車で轢き殺し使用人になすりつけるだけでなく、その娘を強姦したうえに、真相を話すべく警察にむかう彼女を轢き殺し、最後には黒い天使に殺されそうになるところを、
 
 

 「助けてくれ! 金なら出す! 100万か? 200万か?」

 
 
 との、ステキすぎる命乞いをするドラ息子とか。
 
 
 
 
  
     安西先生の教えを忠実に守るぼっちゃん
 
 
 
 他にも、
 
 
 「アイドルをシャブ漬けにして、心身ともいいようにもてあそんだあげく、自殺に追いこむ芸能事務所

 「面白半分にホームレスリンチして殺し、それを目撃した独居老人をおどしたうえ、年金貯金などもすべて奪い取り、拷問にかけたうえで自殺に追いこむ街のチンピラ

  「執拗な取り立てのみならず、払えなければで何とかしろと若い母親風俗営業店へ売り飛ばし、軟禁状態で仕事をさせた末、その結果放置された子供が死に、母親もその場で自殺したのに高笑いサラ金業者
 
 
 などなど、なにかこう

 
 「人権意識」
 
 「法の精神」
 
 「裁判を受ける権利」

 
 といった、先人たちが多くのを流しながら手に入れた、大切なものの数々を、鼻息プーで放り投げたくなるような、ナイスド外道が盛りだくさん。
 
 この怒りを通りこして、あまりの人非人っぷりに、むしろ笑ってしまう平松ワールドの悪役の数々。
 
 たしかに、ブチ殺したときの爽快感は、絶筆に尽くしがたい。
 
 そういうとハナタグチ君は満足そうに、

 
 「そうでしょう、そうでしょう。ホラー映画でも、まずイチャイチャしてるやつから順に殺されるでしょ。あれっスよ」

 
 いや、それは悪ってほどでもないと思うけど……。
 
 でもまあ、やはりドラマの最後で、力道山怒りの空手チョップでも、葵の紋所の印籠でも、やられ役に、

 
 「でも、この人にも家族が……」
 
 「そんなミランダ警告もなしに……」
 
 「死刑の是非はそう簡単に結論の出せる問題では……」

 
 なんていう情をいだいてしまうと後味が悪い。
 
 その点、「ド外道」のみなさんは、まったくそんな気にならないから安心だ。
 
 まあ、今の日本も汚職したり、強姦したり、書類破棄したり。
 
 あまつさえ人を殺しても、不起訴になったり、ムチャクチャなルール違反しても

 
 「そんな騒ぐようなことではない」

 
 で、すましたりしてるから、ネタには困らなさそう。
 
 クリエイターの皆様にはぜひ魅力的な「ド外道」を作品の中でブチ殺し、後輩のカタルシスに、一役買っていただきたいものだ。
 
 
 (『シカゴ』のロキシー・ハート編に続く→こちら
 
  
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『怪盗ルビイ』のミステリマニアな小泉今日子がステキすぎる

2019年10月12日 | 映画
 「昭和のアイドル映画」
 
 というジャンルで最強なのは、『怪盗ルビイ』である。
 
 映画の楽しみはストーリーやアクションとともに、ヒロインの魅力というのも大きい。
 
 『カサブランカ』におけるイングリッドバーグマンの可憐さや、『アパートの鍵貸します』のシャーリーマクレーンのファニーな顔。
 
 他にも『ローラーガールズ・ダイアリー』のドリューバリモア姐さんにホッケーのステッキで尻を叩かれたいとか。
 
 『裏窓』のグレースケリーに、足が折れて動けないことをいいことに、靴にそそいだトマトジュースを無理矢理飲まされたいとか
 
 あと『ヒット・ガール』のクロエグレースモレッツ広瀬すずちゃんでも可)に「おまえはゴミ人間だ」とののしられながら、高速アクションでボコボコにのされたいとか、そういったヒロインの活躍が作品を大いに盛り上げてくれるのだ。
 
 そんなわけで(どんなわけだ)、魅力的なヒロインというのは、すぐれた映画には欠かせないファクターなのだが、その中でも「アイドル映画」というジャンルになると、「ヒロインも大事」ではなく、むしろヒロインこそが大事。
 
 というか、それがすべてで、極端な話、アイドルがかわいく撮れていたら、あとはへっぽこぴーな内容でも充分に成立しているのだ。
 
 何度もリメイクされている『時をかける少女』や『セーラー服と機関銃』なんかがその代表だが、個人的な1位をあげればこれが『怪盗ルビイ』。
 
 私はミステリファンなので、原作であるヘンリースレッサーの『快盗ルビイマーチンスン』を手に取った方が先だが、短編の名手で大好きなスレッサーを、『麻雀放浪記』の和田誠さん(先日亡くなられたそうで吃驚しました、ご冥福をお祈りします)が監督するとなれば、これはもう見るしかあるまい。
 
 となったのだが、これが鑑賞後、思わず声をあげてしまったものだ。
 
 
 「いや、これはなんか、小泉今日子メッチャかわいいやん!」
 
 
 私は昔から、アイドルという存在にさほど興味がない。
 
 もちろん、単純に見てかわいい、というのはわかるけど、どうもそれだけでなく、その後ろにある「」(吉田豪さんの『元アイドル!』の世界的な)みたいなものが苦手なのだ。
 
 なにかこう、「」のギャップがすごすぎて、ひいてしまうというか。
 
 だから、昭和のキョンキョンだナンノだおニャン子だというのは、名前と顔くらいは知ってても、歌やドラマ、映画などはほとんど知らない。
 
 当時の数少ない「推し」といえば、『月刊コンプティーク』に連載を持っていた小川範子さんくらいで、このチョイスを見ても私がいかにメジャーロードのアイドルから離れていたか、わかろうというものだ。
 
 だが、そんなアイドル音痴をして、ただただ「かわいい……」と絶句させたのだから、この映画のキョンキョンの破壊力はすごい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 丸顔で、ジーンズが似合う。ぱっつん前髪はあざとくて好きじゃないけど、この映画のキョンキョンだけは例外
 
 セクシーなシーンとかもまったくないけど、それがまた上品でよい。髪型のバリエーションも豊富で、もう全部かわいい。
 
 今の自分は新垣結衣さんが好きなんだけど、そことくらべてもホントいい勝負だ。どちらを選ぶべきか、優劣はつけがたい。
 
 いやあ、すばらしい映画だぞ『怪盗ルビイ』。内容自体は、まあ、たわいないっちゃあたわいないんだけど(原作もライトなノリだしね)、
 
 
 「アイドル映画は、アイドルがかわいく撮れてることが命」
 
 
 なわけだから、その意味ではまさに、ライムスター宇多丸さん流に言えば100点満点で5億点の出来だ。
 
 ちなみに、引越のシーンでちょこっと映るキョンキョンの愛読書は、
 
 
 ヘンリー・スレッサー『うまい犯罪、しゃれた殺人』

  ロバート・ブロック『血は冷たく流れる』

  コーネル・ウールリッチ『夜の闇の中へ』

  レイモンド・チャンドラー『湖中の女』

  山田宏一『美女と犯罪―映画的なあまりに映画的な』

  小鷹信光編『ブラック・マスク 異色作品集』
 
 
 『ブラックマスク』ってアータ! 
 
 それ以外もハヤカワミステリ文庫ポケミスも山ほど持ってて、シェリイスミス『午後の死』とか、レイモンドポストゲートの『十二人の評決』とか。
 
 レスリーチャータリス『聖者ニューヨークに現る』とか、クレイグライス居合わせた女』とか、もっかい読みたいから貸してくれないもんか。
 
 こんだけかわいくて、こんなディープなミスヲタなんて、素晴らしすぎる。もう結婚して!
 
 
 
 
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『マダムと泥棒』〇〇〇〇クラッシュなおばあちゃん萌えの映画

2019年07月13日 | 映画
 「おばあちゃんっ子は『マダムと泥棒』という映画を見ろ!」。
 
 というのが、私が世にうったえかけたい意見である。

 映画の楽しみはストーリーやアクションとともに、ヒロインの魅力というのも大きい。

 『ローマの休日』におけるオードリー・ヘップバーンの気品、『七年目の浮気』のマリリン・モンローのかわいらしいお色気。

 他にも、「墓にアレの彫刻を彫ってくれ」と遺言したくなった『アベンジャーズ』におけるスカーレット・ヨハンソンの見事な尻とか、「オレの足も撃って!」と思わず土下座してお願いしたくなるような『普通じゃない!』のキャメロン・ディアスとか。

 さらには、『桐島、部活やめるってよ』に出てきた松岡茉優さんに放課後、裏庭に呼び出されて棒でつつかれながら、

 「オマエは気持ち悪いんだから、《キモイ税》として3万円払えよ」

 などと理不尽なカツアゲをされたいとか、語りだすと枚挙に暇がないのである(一部不適切な発言があったことをおわびします)。

 そんな中、女の価値は若さだけではないと気炎を上げるのが、世界のおばあさん女優たち。

 『八月の鯨』『狩人の夜』のリリアン・ギッシュや、『毒薬と老嬢』の明るく狂った殺人姉妹と並んでキュートなのが、この『マダムと泥棒』のウィルバーフォース夫人であろう(以下ネタバレあります)。

 映画の内容は、ユーモアたっぷりの犯罪コメディ。

 アレック・ギネスやピーター・セラーズといった名優が演ずる強盗団が、現金輸送車を襲う計画を立てる。

 彼らがウィルバーフォース夫人に近づいたのは、彼女の貸す部屋をアジトとして、そして怪しまれず現金を手に入れるための「運び屋」として利用するためだった。

 作戦は見事成功し、大金を手に入れた強盗たちは、すみやかにウィルバーフォース夫人の家から去ろうとするが、ひょんなアクシデントから彼女に奪った金を発見されてしまい、事態は一転する……。  
 
 というイギリス風のドタバタ喜劇なのだが、その脚本やセリフ回しのおもしろさもさることながら、やはりなんといっても、ヒロインであるウィルバーフォース夫人が、すこぶるつきに存在感を発揮しているのが見どころ。

 善良でお人好しで、ちょっと抜けているところもある彼女は典型的な

 「近所のかわいいおばあちゃん」

 なのだが、そんな人が海千山千の悪党どもとからむと、その噛み合わなさぶりに見ているほうは悶絶する。

 犯行計画を練っているときに、しつこく「お茶はいかが」と誘ってイライラさせたり、

 「ゴードン将軍と同居している」

 と口走って「誰だ? 警戒しないと」と思わせたら、それが飼っているオウムのことだったり。

 正体がバレて逃げようとすると彼女の仲間の老婦人がドヤドヤおとずれてジャマしたりと、それはそれは楽しく場をひっかきまわしてくれる。

 なにより彼女が起こした最大のトラブルが、強奪した金を見られた後のこと。

 正体がバレてしまった強盗団は、

 「もうこうなったら、婆さんをバラしてとんずらするしかねえ」

 との意見の一致を見るが、ではだれがやるのかと問うならば、誰一人名乗り出ない。

 「お前やれよ」「いや、お前こそ」という逆ダチョウ倶楽部状態から、「経験者もいるから……」と水を向けても、そっと顔を伏せられたり、話が一向に進まない。

 そう、彼らが老嬢殺害をためらうのは、ビビっているわけではなく(「経験者」もいるわけだし)、これはもうどう見ても、

 「おばあちゃんがかわいくて殺せない!」

 という理由によるものなのである。

 そんなんできるわけないやん! そりゃ、ちょっとはイラッとさせられたし、「運び屋」のときもおせっかいからトラブルに巻き込まれてハラハラさせられたりもしたけど。

 それでもあんな善良でやさしいおばあさんを殺すなんて、そんなん人間のすることちゃう!

 などと、おのれの悪党ぶりを棚に上げて、もう嫌がりまくるのだ。

 ラチがあかないので、最後の手段とクジ引きで決めるのだが、当たったヤツがまた、

 「ムリやっていうてるやん! かくなるうえは……」

 と、なんと仲間を裏切って金を持ち逃げしてしまうのだが、アッサリと見つかって殺されてしまう(そっちは平気なんやね)。

 それどころか、力仕事担当で少々おつむの弱い「ワンラウンド」など、その「おばあちゃん萌え」が高じすぎて、彼女が眠っているのを「殺された!」と勘違い。

 仲間を追いかけまわして、これまた殺してしまうのだ(やっぱ、そっちは全然OKなんやなあ)。

 こうして、金のことも口封じも逃亡計画も、なにもかもとっちらかるどころか、ついには仲間割れが高じて全員が相打ちのような形で死んでしまう。

 危険な強盗どもはいなくなり、なんと盗まれたお宝はウィルバーフォース夫人のもとに残されることに……。

 というのは、まあ設定を見たところで、だいたい見当がつくオチではあるけど、では「漁夫の利」を得たウィルバーフォース夫人が、この間なにをやっていたかといえば、ずっと寝ていたのだ。

 自分の殺害計画が立てられていたなどつゆ知らず、寝椅子でぐっすりおやすみ。

 気がついたら一人になって、手元には大金が。

 おやまあ、おばあちゃん、びっくりや。天然ぶりも、ここに極まれりである。

 ラストの、警察署から出るときのちょっとしたオチも、なんとなくイギリス風に粋でニヤリとさせられる。

 もう最初から最後まで、フワフワしたウィルバーフォース夫人が絶好調!

 うーん、これって、映画の本だと

 「豊潤な英国風のユーモアとウィットが楽しめる大人の喜劇」

 なんて紹介されることもあるけど、

 「紅一点のあふれる魅力で男どもの結束を破壊する」

 という意味では、要するに「サークルクラッシャー」のお話なんだなあ。見直して、今気づいたよ。

 「昔、おばあちゃんっ子だったなあ」とか思い出したりする人は、絶対にハマること間違いなしの傑作。おススメです。



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こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その3

2019年03月30日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
 一見重いフィルム・ノワールに見せかけて、実はゆかいなコントのようなフランス映画『死刑台のエレベーター』。
 
 ここでさらにコメディ度を加速させるのが、主人公モーリス・ロネをの道へと導いたジャンヌモロー
 
 またこのジャンヌ姐さんが、妙におかしいというか、恋人がアクシデントに見舞われていることに、ちょっとした行き違いがあって気づかず、
 


「どうしたん? もしかして土壇場でおじげづいたんかいな。それとも、もうウチのことなんて愛してないのん?」

 

 アレコレ悩みながら、深夜の街を徘徊するのであるが、なんかそこもヘン。
 
 たとえば、モーリス行きつけのバーに、聞きこみに出かけるのだが、そこで
 


 「ジュリアン(モーリス・ロネの役名)を見かけた」


 
 という女に出会う。
 
 期待と恐れが、ないまぜになった表情でジャンヌ姐さんは「彼女に一杯」とギャルソンに告げるが、女はうつろな表情で
 
 

 「先週よ……」 

 
 
 この答えに、ジャンヌ姐さんは「ああ……」とでも、ため息をつきたげに、そっと外に出ていく……。
 
 ……て、この場面。画で見ると、ジャンヌ姐さんの演技力と、マイルスデイヴィスのしっとりした音楽で、なにやらフレンチ・ノワール的アンニュイさを醸し出している。
 
 けど、これってセリフだけ取ったら、
 
 

 「ジュリアンを見たで」

 
 
 酔っ払ってる不思議ちゃんがそういうのに、
 
 

 「彼女に一杯あげたって。で、いつ?」
 
 「うーんとね、先週!」
 
 「ズコー!」

 
 
 ……てことでしょ?
 
 

 「オレ、カジノで大もうけしたで」 
 
 「へー、すげえな!」
 
 「『ドラクエ』のやけどな」
 
 「ゲームの話かい!」

 
 
 ていう子供の会話と一緒やん!
 
 その間、勝手に車盗んで、嘘八百の武勇伝をふかしまくって、それを笑われたらいきなり拳銃で撃つとか、自分のダメダメっぷりを棚に上げて
 
 

「オレの人生はメチャクチャだ」

 
 
 ルイは苦悩している。知らんがな、と。
 
 一方、ベロニクの方は、
 
 

 「ひどいことになったわ。あたしたち、新聞に載るのね……」

 
 
 泣きそうになりながらも、ふと顔をあげ、ウットリしたようにつぶやく。
 
 

 「みんなが言うのね、見て、あのカップルよって……でも、それもステキかも……」

 
 
 完全に陶酔モード。
 
 痛すぎるねえちゃんである。絶対に彼女にしたくないタイプだ。
 
 あまつさえ、
 
 

「心中して、歴史に名を残しましょう」

 
 
 などと底が抜けたようなことをいいだし、ふたりは睡眠薬を飲んで眠りにつく。
 
 もうこのあたりは明らかに悪意のある演出で、当時まだ監督は25歳なのに、「今どきの若者」に言いたいことでもあったんでしょうか。
 
 とにかく、このカップルの能天気ぷり(まあ本人たちは大マジメですが)を見てると、そこが、モーリス・ロネのにっちもさっちもいかない危機的状況と比較されて、もう大爆笑
 
 緊張と緩和というか、悲劇と喜劇というか、ほんまにルイマル天才や
 
 いや、爆笑するところでは全然ないんだけど、笑うッスよ、これはホント。

 いやあ、もうメチャメチャにおもしろい。
 
 しかも、話はまだエスカレートし、なんとベロニクが偽名(「タベルニエ夫妻」というモーリス・ロネの役名)を使っていたことが原因となって、モーリス・ロネはドイツ人殺しの下手人として追われることとなる。
 
 朝になって、ようやく電気がついて、やれうれしやとエレベーターから脱出したら、その途端に見も知らん殺人の犯人に。
 
 しかも、エレベーターの中にいたもんだからアリバイはなく、そもそもそれを言っても信じてもらえない。
 
 だいたい、信じられたら今度は社長殺しの容疑はまぬがれず、八方ふさがり。
 
 まったくもって、おそろしい話だが、その発端はただの忘れ物である。
 
 ついでにいえば、このころジャンヌ姉さんも明け方、不審人物として警察に連行されている
 
 ドタバタしてますなあ。
 
 結局、死にきれなかったルイとベロニクであったが、ルイは「モーリス・ロネ逮捕」の報に、
 
 

 「やったラッキー!」

 
 
ガッツポーズで、おおよろこび。
 
 よろこんで、どうするという話だが、まあ、そういう子なんですね。フォローのしようもない。
 
 ところが、ここには穴があった。
 
 そう、モーテルで撮った記念写真だ。
 
 あれを見られたら、犯行時にドイツ人夫婦と一緒にいたことがバレてしまう。なんとか取り戻さないと……。
 
 バイクで写真屋に急いだところに、刑事であるリノヴァンチュラが待っていて御用となる。
 
 モーリス・ロネの無実が証明されて、ジャンヌ姉さんは
 


「いやー、もうウチ安心したわ。刑事さん、サンキューね」


 
 ウキウキとよろこぶが、そのカメラのフィルムの中にはモーリスとジャンヌ姉さんが、仲良くちちくりあっているところも写っており、リノ・ヴァンチュラが、
 


 「奥さん、写真はまずかったッスね」


 
 うなずいて映画は終了
 
 ジャンヌ姉さんは、
 
 

 「すべてはお終い。でも、写真の中だけでは、あたしたちは永遠にふたりきり……」

 
 
 遠い目をしてつぶやくのだが、その前に、これから二人で人を殺そうってときに、呑気にツーショットの写真撮るなよ!
 
 浮気とか、ようその展開でバレますねんって。

 ラブホテルで彼氏と写真撮って、それでスキャンダルになったアイドルとか、よういてますやん。
 
 てか、モーリスも元パラシュート部隊の英雄で、スゴ腕産業スパイのはずやのに、どこでも証拠残しすぎや!
 
 こうして最後まで見て、私は天にむかって叫んだのである。
 

 「この映画に出てくるヤツ、どいつもこいつもアホばっかりやあ!!!!!」

 
 だってこれ、事件を殺人現場からじゃなくて
 

 不倫現場から逃げ出す」

 
 に変えたら、そのまま立派な『ベッドルーム・ファルス』になるもんなあ。
 
レイクーニーとか、アランエイクボーンみたいな。
 
 てか、私が舞台人なら、これを一字一句変えずにコメディとして上演します。いや、マジで。
 
 かくのごとく私は、この映画を観るたびに、パリ夜闇が匂い立つような重厚なノワールを味わうつもりが、奇しくも
 
 
 「忘れんぼ兄さんが閉じこめられてる間に、リアルな世界がとんでもないことになってギャフン!」
 
 
 みたいな作品を見せられてしまい、
 

 「なんか思ってたのとちがう……」

 
 そんな気分になりながらも、
 

 「けど、おもしろかったからいいや」

 
 なんて満足してしまうのである。
 
 
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こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その2

2019年03月29日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
ルイマル監督『死刑台のエレベーター』は、濃密なフィルム・ノワールと見せかけて、実はマヌケなギャグ映画ではないのかと疑ってしまった私。
 
 しかも、この映画のつっこみどころは、まだまだ、こんなところでは終わらない。
 
 そこで今回は、あれこれ言いながらストーリーを最後まで語っちゃうので、未見の方はスルーしてほしいが、続いてモーリス・ロネはロープを回収している間に、逃走用のを盗まれてしまう。
 
 窃盗犯は、現場である会社の向かいにある花屋の娘ベロニクと、そのボーイフレンドであるルイ
 
 彼女にいつも、

 

「あの戦争の英雄で、エリートのモーリスはんとくらべて、アンタはホンマに頼んないねえ」


 
 などと、からかわれていることに、イラッとしていたルイが、

 

 「ほな、オレ様のイケてるところ、見せたるわ!」

 

 ブチキレて、モーリスの車に乗りこみ、勝手に発進させる。
 


 「オレかって、本気出したら、こんな悪いこともできるんやぞ!」

 

 という、ヤンキー的中2病な彼氏に、最初こそ
 


 「そんなんして、怒られてもしらんで」


 
 あせっていたベロニクだが、やがて

 

 「いやーん、ドライブって、メッチャ楽しいやん。もっとスピード上げたって!」


 
ノリノリになってはしゃぎだす。
 
 なんか、殺人劇から打って変わって、頭の軽いカップルがワチャワチャやりだすのだ。
 
 そこからもふたりは、勝手にダッシュボードを開けて拳銃で遊ぶわ、仕事の書類を見るわ、果てはハイウェイで走り屋を気取るわ、もうやりたい放題。
 
 このふたりの浮かれっぷりが妙に長く、見ていてこれが、実にイライラさせられる。
 
 なんだか、殺人とかモーリス・ロネの運命など、だんだんどうでもよくなって、
 

「いつこのアホどもに天誅が下るか」

 
 そっちでハラハラするようになり、今どきの若いもんはと、とってもな気分が味わえる。
 
 そんなことも知らず、うっかり八兵衛ならぬ、うっかりモーリスは後始末に走るのだが、ここで第二のアクシデントが。
 
 なんと、エレベーターが止まってしまうのである。
 
 ロープの存在に気づいた時には、すでに会社を閉める時間が来ており、守衛がビルの電源を落としてしまったからだ。
 
 おかげで、エレベーターをはじめ、明かりなどもすべてストップ
 
 なんとモーリス・ロネは、今度は自分が密室の中に閉じこめられてしまうのだ!
 
 そこからモーリスは必死に脱出をこころみるが、動かないものはどうしようもないし、そもそもこんなところを見つかったら、社長殺しの第一容疑者だ。
 
 これでは、うかつに声も出せない。うっかりロープを忘れてしまったばっかりに、大変なことになってしまった。
 
 モーリスが袋のねずみになっている中、ルイとベロニクの阿呆カップルはますます絶好調
 
 ハイウェイで素人レースを展開したドイツ人夫婦に気に入られ、二人の泊まるモーテルに宿泊。
 
 はよ車返したれよ! とつっこみたくなるが、これにはベロニクも悪ノリ全開で、
 


タベルニエ(モーリス・ロネの役名)夫妻で一泊します」

 

 勝手に、モーリスの名前まで拝借。
 
 宿泊代も出せる当てもないのに、迷惑この上ない姉ちゃんである。浮かれとりますなあ。
 
 モーリスがエレベーターの中で悶々とし、脱出しようとしてエレベーターから落ちそうになってウッカリ死にかけたり(なにをやってるんだか……)しているのをよそに、4人はシャンパンで乾杯
 
 昔話をしたり、記念撮影をしたりと、完全にゆかいな旅行気分。
 
 ただそこに唯一、不機嫌そうなのがルイ。
 
 このアンチャン、顔はいいのだが、いかんせん無能で使えないにもかかわらず、プライドだけは山のように高いという、なんともめんどくさいタイプの男の子。
 
 それがここでも大いに発揮され、見栄をはってドイツ夫婦に
 
 

 「ドイツによる占領、インドシナ、アルジェリア、オレは戦地で命を張ってきたんや……」

 
 
武勇伝を語りまくるのだが、もちろんのことすべて大嘘のホラ
 
 まあ、「自称ヤンキー」が語る、昔オレはワルだった話みたいなもので、こういうのは洋の東西を問わないよう。
 
 後輩や女子に失笑されてるんやけどねえ……。トホホのホだ。
 
 そうやってフカしまくって、まだまだ彼女に「ワルなオレ」を見せたいルイは、ドイツ人の車を盗んで逃げようとするが、それは見破られていた。
 


 「そんなん、もうバレバレやん」


 
 バカにされた上に、

 

「外人部隊とか、全部ウソなんもわかっとったで。キミみたいな軟弱な痛い坊やは、そういうこと言いたがるねんワッハッハ」


 
 これには赤っ恥のルイが逆上
 
 なんと、ドイツ人をモーリスの拳銃で撃ち殺してしまう。
 
 おまけに、悲鳴を上げた妻もズドン。いきなり殺人犯に。
 
 ちょっとホラ吹いたのをバカにされただけで、人殺すなよ! どんだけ場当たり的に生きてるんや。
 
 外がえらいことになってるその間、主人公のモーリスは、やはりエレベーターの中。
 
 どないしようもなく座りこんでいるモーリスは、自業自得とはいえ(殺人よりも忘れ物の方でネ)実に哀れである。
 
 ここは押さえた演出で、感情表現のセリフとかナレーションは一切ないのだが、モーリス・ロネのその背中からは
 
 

 「オレって、アホやなあ……」

 
 
 という情けない声が聞こえてきそう。さすがは名優、見事な演技といえよう。
 
 ズッコケな出だしから、さらにズッコケがズッコケを呼び、再び殺人が起こってしまったというか、こんなことで殺されて、ドイツ人もいいツラの皮である。
 
 だが、ことはここで終わらないのが、この映画のすごいところ。
 
 そこからマヌケは、さらにブースターがかかっていくことになるのだから、もうなにがなにやらなのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督

2019年03月28日 | 映画
 『死刑台のエレベーター』は良質のコメディ映画である。
 
 フランスのルイマル監督といえば、『地下鉄のザジ』は大好きだし、『さよなら子供たち』は胸苦しく切ない傑作で、どちらも何度も観た。
 
 この『死刑台のエレベーター』も、やはり私のお気に入りで、こないだテレビでやってたのを見て、もうこれで4回目の鑑賞だが、またも最後まで笑いっぱなしで大いに楽しめたのだった。
 
 というと、

 
 「おいおいちょっと待て、この映画は《フィルムノワール》ではないか。マイルスデイヴィスの音楽もけだるく、どこにも笑いのはいる余地などないだろ」

 
 なんて意見があるかもしれないが、それはまったく正しい
 
 ノエルカレフ原作のこの物語は、犯罪劇であり、全編シリアスな展開のはずなのだが、それでもなぜか、私にはこの映画が喜劇に見えて仕方がないのだ。
 
 まず引っかかるのが、主人公が「やらかす」シーン。
 
 ストーリーは、主人公であるモーリスロネ演じる、元フランス軍落下傘部隊の英雄ジュリアン・タベルニエが、雇い主である社長を殺そうとするところからはじまる。
 
 なぜ、そんなことをするのかと問うならば、なんとモーリスは社長の奥さんとつきあっている。
 
 いわゆる不倫の恋というやつだ。
 
 そこで、奥さん役のジャンヌモローに、

 
 

「こんなことしてても、未来がないやん。なあアンタ、ウチのこと愛してるんやったら、ウチのこと縛りつけてるあのダンナを殺して。ほんで、二人で楽しゅう暮らそうや」


 
 不倫を発端にした事件。
 
 ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』とか、ノワールには付き物の設定だ。
 
 そこで、モーリスは殺人を決行。
 
 アリバイ工作も完璧にし、オフィスのベランダからロープをのぼって社長室に忍びこみ、見事社長を自殺に見せかけて殺すことに成功する。
 
 愛ゆえの、命をかけた犯罪だ。
 
 あとはモーリスとジャンヌ姉さんが完全犯罪を遂行できるのか、それとも警察に事が露見してしまい、ふたりは哀れ、ひき裂かれてしまうのか。
 
 そうしたドキドキ感でぐいぐい引っぱっていく、サスペンスフルな展開を期待するであろう。
 
 ところがどっこい観てみると、思ってるのと、ちょとばっかし雰囲気がちがうのだ。
 
 どう、ちがうかといえば、モーリス・ロネの犯行現場における証拠隠滅シーン。
 
 見事殺人をやりとげ、指紋もすべてふき取り、密室の状況もこしらえて、完全に自殺としか見えない場を作り出す。
 
 さてホッとしたと、愛するジャンヌ姉さんの元に走ろうと車に乗りこんだところで、ふと上を見上げて、そこで気づくのである。

 
 

「あ、ロープ回収するのん、忘れてた」



 
 ここでまず、スココココーン! とコケそうになった。
 
 おいおい、そんな大事なもん忘れてどうする。
 
 そう、自室のベランダから社長室の階に、忍者のごとくよじ登るときに使ったロープが、思いっきり出しっぱなしに。
 
 下から見ると、マヌケにプラーンとぶら下がったままなのだ。
 
 潜入に使ったロープなんて、「密室殺人」をするのに、一番現場に残してはいけないアイテムではないのか。
 
 むしろ、忘れようにも、忘れようがないアイテムだと思うが。ようウッカリしましたな。
 
 オレオレ詐欺師が、自分の本名を名乗ったりするレベルのうかつさである。

 こんなスットコなミスを犯す男が主人公で、この映画は大丈夫なのか。
 
 そう思ってしまったのが運の尽き。
 
 いったん、
 
 「主人公がマヌケ
 
 という、すりこみがあたえられてしまうと、そこからがいくらダイアログディレクターがシブいセリフを書こうと、ジャズメンがクールなラッパを吹こうと、

 
 「すべてがギャグに見えてしまう」

 
 というギアを切り替えることは、できなくなってしまったのだった。
 
 
 (続く→こちら) 
 
 
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ジョン・ヒューストン監督『白鯨』は『ウルトラQ』のような怪獣作品でした その2

2019年03月11日 | 映画
 前回(→こちら)に続いて、映画『白鯨』の話だが、その前にスティーブンスピルバーグの『宇宙戦争』について。
 
 映画や小説の世界ではよく、
 
 
 「観てみたら怪獣映画だった」
 
 
 という作品があって、『白鯨』も『宇宙戦争』もその流れ。
 
 で、そこを見分けるためのポイントとして前回、
 
 
 「宇宙人が空から送りこんできたトライポッドが、なんでわざわざ一回地中に埋まってから出現するのか」
 
 
 という脚本的矛盾の理由について問うたわけだが、その答えというのは簡単で、そんなもん、
 
 
 「地底怪獣の出現シーンがやりたかった」
 
 
 これに決まってるんですね。
 
 絶対にそう。あんなもん見た瞬間、
 
 
 「マンモスフラワーや!」
 
 「ツインテール出現!」
 
 「おしい! 地割れはパンパン言いながら青く光ってほしかった!」
 
 「それは、や・り・す・ぎ」
 
 
 などと、みな小躍りするはずなのである。
 
 怪獣ファンだから、私もスティーブンも。もう、一発でわかります。
 
 これ、怪獣好きに同じこと訊いたら、ほぼ100%同じ答えが返ってくるはずだけど、そうじゃない人に訊いたら、逆に正答(?)率はまちがいなくゼロでしょう。
 
 よかったら、周囲の映画好きに声をかけて、やってみてください。
 
 あと、「白い航跡!」って言ってみるのもよいかも。
 
 ニヤリとした人は、「正しい見方」のできる人です。
 
 きわめつけが、
 
 
 「大阪では自力で2体倒したそうだ」
 
 
 私は別に、そんな地元愛が強い方ではないけど、このときばかりは大阪人を代表して、スクリーンに握手を求めましたね。
 
 スティーブン、あんたはよくわかってる。
 
 「大阪人はお好み焼きで、ご飯を食べる」
 
 なんていう、「大衆向けにアレンジした大阪」を嬉々として語るエセ文化人なんかより、よほど浪速のことを理解してくれている。
 
 やっと会えましたね、と。
 
 世の中にはこういった「実は怪獣映画」という作品が結構存在しているんだけど、宣伝の関係で「感動の名作」に描きかえられたり、観ているほうが気づかなかったりして、その魅力をスルーされてしまうことがある。残念なことである。
 
 このジョン・ヒューストンの『白鯨』がまさにそう。
 
 メルヴィルの原作が各所で「難解」「読みにくい」と評されていることもあって、そもそも読む気にもならず(『白鯨』原作の読み方は池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』という本が参考になります)、その流れで映画も見る気にならなかったのだ。
 
 それが、たまたまつけたテレビでやっているのをなんとなく見ていて、そのことを後悔したのである。
 
 しまった! これはどこをどう見ても『ウルトラQ』や!
 
 そもそもが、脚本にレイブラッドベリがいる時点で、怪獣映画かと推理すべきであった。不覚このうえない。
 
 ストーリーはみなさまも御存じの通り、いたってシンプル。
 
 モービーディックなる巨大白クジラをかみ切られたエイハブ船長が、狂気的な執念でもって、その復讐を果たそうとする。それだけ。
 
 ルパン銭形というか、キンブルジェラート警部というか、追うものと追われるもののサスペンスでありながら、逆方向のバディものというか、ホモセクシュアルな雰囲気もあるという「逃亡者もの」の定番設定。
 
 映画では、原作にある「そもそもクジラとは」みたいな長ったらしい博覧強記ぶりなどはすっぱりとカットして、エイハブの偏執狂的な白鯨への執着にスポットを当てている。
 
 ホント、シンプルなうえにもシンプルな「海上追跡もの」でありまして、あの船に万城目淳江戸川由利子が乗っていても、なんの違和感もない。
 
 いや、むしろクジラの生態など、一の谷博士に解説してもらえば実にしっくりくる。脳内補完しているBGMも、宮内サウンドがハマる。
 
 ラストもぜひ、あの不気味な音楽と「」の文字で終わらせてほしかった。
 
 だれか、マッド映像で作ってくれないかしらん。
 
 
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ジョン・ヒューストン監督『白鯨』は『ウルトラQ』のような怪獣映画でした

2019年03月10日 | 映画
 「ハーマン・メルヴィルの『白鯨』って『ウルトラQ』やったんやあ」。
 
 
 といった感想を抱いたのは、映画『白鯨』を鑑賞してのことである。
 
 ジョンヒューストン監督、主演にグレゴリーペック、原作は先も言ったハーマンメルヴィルの『白鯨』。
 
 映画や小説の世界ではよく、
 
 
 「観てみたら怪獣映画だった」
 
 
 という作品がある。
 
 怪獣映画は別に『ゴジラ』や『パシフィックリム』だけでない。
 
 怪獣は戦争や自然災害のメタファーだから、『戦争のはらわた』でドイツ兵が無敵のT-34戦車に追いかけまわされるところとか、キングジョーみたいなメカ怪獣との攻防戦だし、台風津波などのディザスター映画もその仲間。
 
 『帰ってきたウルトラマン』のシーモンスとか、そのまんまだし、『ジョーズ』なんてモンスターものも、モロそれ。
 
 『新世紀エヴァンゲリオン』も、エヴァがウルトラマンなのはいうまでもないから(猫背だし、カラータイマーあるし、第1話はテレスドンだし)、基本的には、使徒との怪獣バトルしか見ていない。
 
 テーマとか登場人物の苦悩とか綾波がかわいいとか、まったくどうでもいい。全部早送り
 
 私は子供のころから大の怪獣好きなので、そういう「正しい見方」ができるけど、べつに特撮好きでない人にはなかなか理解しづらいらしく、よく
 
 
 「あの作品、どこがおもしろいのかわからない」
 
 
 不思議がっているところに、
 
 
 「要するに、あれって怪獣映画やねん」
 
 
 そうレクチャーしてあげることもある。
 
 一番わかりやすい例が、スティーブンスピルバーグの『宇宙戦争』。
 
 ネットのレビューなどでも酷評されていたり、内田樹さんなんかも
 
 
 「ヒドイ映画でした……」
 
 
 なんて、あきれておられたが、それはこれを
 
 
 「親子の絆を描いたヒューマンドラマ」
 
 「あきらめない心が感動を呼ぶアクション大作」
 
 
 なんて、「ふつうの映画」として見るから、そう感じるだけ。
 
 だって、これ怪獣映画やもん。
 
 映画として微妙なのは百も承知だが、そんなことはどうだっていいのだ。
 
 いったんその「怪獣やねん」という視点に切り替えてみれば、これはもう実に楽しい名作なのだから。
 
 この映画を楽しめるかどうかについては、物語前半部分のあるシーンを取り上げてみれば、すぐにわかる。
 
 それはトライポッド出現シーン。
 
 落雷場所から、アスファルトをめくりあげるように飛び出してきたトライポッドの群れ。
 
 序盤の見せ場だが、そこで観ているほうはたいていが、こうつっこむはずなのである。
 
 
 「宇宙人が空から送りこんできたのに、なんでわざわざ一回地中に埋まってから出てくるの?」
 
 
 その疑問はまったくもって正しい。たしかに、ここはシナリオ的にちょっとした矛盾があるシーンなのだ。
 
 だが、私のような怪獣好きは、そこを別に変とは思わない。いや、むしろ「当然やな」と腕組みでもしておさまっている。
 
 ここで問題。なぜスピルバーグはあえて、そのゆがみをそのままスクリーンに出してきたのか。
 
 正解(?)と、その解説は次回にゆずりたい。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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平山夢明『デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全』で、エンジョイZ級映画!

2019年02月26日 | 映画
 平山夢明デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全』を読む。
 
 ホラー作家である平山夢明さんが、『週刊プレイボーイ』に連載していた映画レビューを単行本化したもの。
 
 1980年代家庭用ビデオデッキの普及とともに、日本中に雨後の筍のごとくあらわれた「レンタルビデオ」店に、わけのわからないまま置かれていたB級にもならないXYZ級のダメ映画を取り上げている。
 
 バンドブームファミコンブーム、「泣ける映画」乱発にSNSでの発言など、文化的バブルの活気のにはかならず、あぶく銭いっちょ咬みで踊りながら消え去った、「ゴミ」な作品が跋扈する。
 
 そこで生まれた、どうしようもないビデオの数々と、「鬼才」平山夢明の腰くだけな文体に、脱力しながらもどこか戦慄すら走るという、まさに現代の奇書と言える内容になっているのだ。
 
 取り上げられる映画のインパクトは、まずタイトルからしてうかがい知れるところがある。
 
 この連載のきっかけとなった、『殺人豚』をはじめ、
 
 
 
 
 『デブコップ』

 『吸血バンバンジー』

 『殺人パン屋いらっしゃい』

 『快楽美女集団 ボイ~ンってやっちゃうよ』

 『セックス発電 男女100人絶頂物語』

 『死刑執行ウルトラクイズおだぶつTV』

 『吸盤男オクトマン』

 『安全失禁電撃ボビー!』

 『カバチョンパ 殺人カバの恐怖』
  
 
 
 
 もうタイトルを並べるだけでも、お腹いっぱい
 
 もちろん、中身も題名以上にスットコで、オクトマンはタコの怪人なのに着ぐるみを濡らしたくないから水に入らないとか、東芝パルック(ただの蛍光灯)がそのままで「侵略宇宙人の乗るUFO」とか。
 
 メイクする予算がないから、肉屋で買ってきたハラミやタンを貼りつけて「ゾンビ」にしたり。
 
 SMプレイDVと勘違いして両親をで殺した少年が、そのトラウマでジェイソンのような斧殺人鬼になったり。
 
 いじめられっ子がパパの発明品で、股間の「ゴールデンボーイ」を巨大化させたらモテモテになるけど、それをめぐって「高校生秘密結社」と戦うハメになったり……。
 
 ふだんは偉そうな文化人などが「人類は愚かだ」なんて言い出したりするのを、
 
 
 「自分のことはカウントしてへんのかい! どの立場から言うてるねん。《ハワイは日本人が多くてイヤ》とかいうトホホ日本人と同じやないか!」
 
 
 なんてつっこんだりすることがあるが、この本を読むと、心の底から素直に、
 
 
 「そっすねー、マジ超オロかっスねー」
 
 
 そう同意できる。『赤毛のアン』で有名なルーシーモードモンゴメリーの『丘の家のジェーン』という小説で、主人公ジェーンのパパに、
 
 
 「勇気をもって生きなさい。世界は愛でいっぱいだ」
 
 
 というセリフがあるんだけど、これには私も、
 
 
 「勇気をもって生きなさい。世界はホンマ、阿呆ばっかりやからなー!」
 
 
 そう踊りだしたくなるもの。人生ってすばらしい。
 
 とにかくこの本は、ビデオのどうししようもなさと、デルモンテ平山の投げやりともいえる文章が見事な化学反応を起こし、とてつもなくバカバカしいのが、いっそすがすがしい
 
 論より証拠と、短いものをひとつ引用してみよう。『バズーカファミリー ヘッド博士はテクニシャン』という映画では(改行・引用者)、
 
 
 大馬鹿アーパーギャルが太くてデカい男を捜してウロウロウロウロしていると、天の恵みか地獄のさたか、なんとチンポの形の頭を持つエイリアンがあらわれました。

 いくらハリー・リームスがデカくても《頭》には負けます。女どもも興奮のあまり失禁したり発狂したりするのですが、エイリアンにとっては、その姿が怖くてしかたありません。

 なんとか気の弱いなにも知らないエイリアンをだまして、その頭を使おうとする六本木ぶら下がり的アーパーたちは必死になって

 「あなた、ここはお帽子なのよ~ん」

 などとコーマン開く馬鹿もいれば、エイリアンの頭がツルリンなのをいいことに、

 「あなたこれはヅラの毛よ~ん」

 などと毛ダワシをおっかぶせようとしたりします。

 しかし好事魔多し。なんと巨大チンポ頭を持つエイリアンはオカマのオナニストだったのです。

  逆上したギャルは使えないならいらないとエイリアンを皆殺しにするのでした……ポンポン。
 
 
 
 ポンポンって、なんやそれという脱力感だが、そうでもいわないと話がオチないギャランドゥ。
 
 この手のレビュー本は、
 
 
 「ここまでヒドイと、逆に見たくなる」
 
 
 というのが定番の感想だが、この本に関しては、
 
 
 「ここまでヒドイうえに、逆に見たくすらならないところがすごい」
 
 
 ここで紹介されているビデオは、愛も勇気も冒険もテーマもないトホホ度420%の怪作ばかり。
 
 それを「精読を拒否する文体」で語る平山さんのやり方は見事な「正解」だ。
 
 「2人が出会った奇跡って、あるんやな」
 
 思わずつぶやいてしまいましたとさ、ポンポン。
 
 
 
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『静かなる決闘』で黒澤明を再評価! (でも『七人の侍』と『生きる』が苦手なのはナイショ) その2

2018年10月10日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 『七人の侍』『生きる』がおもしろくなく、

 「黒澤明は合わない」

 と思いこんでいたが、地味な人間ドラマ『静かなる決闘』で、その想いが払拭された私。

 やっぱり、黒澤はおもしろいんやなあ。そう心入れ替えた私は、そこから、「黒澤リベンジマッチ」を企画し、とりあえず未見のものを中心に、黒澤映画をガンガン見ることにした。

 で、その開口一番が『用心棒』だったんだけど、これが大当たり。

 もう開始10分で叫びましたもんね。

 「うわああああ!!!! 三船敏郎カッコエエエエエエエ!!!!

 刀かついだ三船が出るだけで、もうシビれた。これだけで名画決定。とんでもない存在感。

 続けて、仲代達矢が登場したところで、二度目の大歓声。

 仲代達矢といえば、『不毛地帯』や『日本海大海戦』、あと『包丁人味平』のコック役とか(それはちょっと違う)で観て、昭和の俳優らしいその存在感は知っていたけど、この映画の仲代さんは、ちょっと次元の違うカッコよさだった。

 だって、ゴリゴリの時代劇なのに、首に涼しげなスカーフまいてんの。

 おまけに、手には刀ではなく拳銃。スミス&ウェッソンなんだよ。このミスマッチが、下手な役者や演出家がやると「ねらいすぎ」になってあざといんだろうけど、それを見事に着こなしてるの。

 こんなもん見せられたら、もう目はハートよ。そのセンスがすばらしすぎる。仲代さん、抱いて!

 でもって、舞台がもう、モロに西部劇。私は西部劇ファンではないけど、それを時代劇で換骨奪胎すると、こんなにもシブくなるのか!

 最後の決闘で、三船と仲代一派が風に吹かれながら登場するところなど、マカロニ! もうマカロニ! 笑ってしまうくらいにセルジオ・レオーネ風!

 ……って、いうまでもなく、黒澤がマカロニ風なんじゃなくて、『荒野の用心棒』が『用心棒』を勝手に丸パクリしたことは、映画ファンならだれでもご存じだけど、こんなどストレートにいただいてるとは(笑)。

 つまり、


 ジョン・フォードとかハワード・ホークス的西部劇
          ↓
 一回黒澤はさんでからの
          ↓
 もっかい今度はイタリアで西部劇



 という仕組みだ。芸術というのは、パクリパクられで発展する見本ともいえる玉突きだなあ。

 まあ、『用心棒』みたら、パクりたくなる気持ちもわかりますが。それくらいにカッケーのよ。セルジオ無罪。オレだってマネしたいよ。

 おまけに、懸案だったテンポも、直球娯楽作ということかサクサク進み、観ていて全然ダレない。めちゃくちゃにおもしろかった。

 先頭打者ホームランで勢いのついた私は、その後も『椿三十郎』『天国と地獄』『隠し砦の三悪人』『赤ひげ』『わが青春に悔いなし』といった作品を次々と鑑賞したのだが、これがまたホームラン続きで感動。

 特に『椿三十郎』は、『用心棒』の続編という位置づけだが、今度はコメディータッチであり、黒澤こっちでもすんごくお上手。

 もう、あの母娘の天然ボケに苦い顔をする三船が激萌え! 奥さんを塀から外に出すところか、椿の色をあれこれ検討するのに「どっちでもええねん!」ってキレるところとか。

 よく映画史の本で、

 「この役は三船敏郎がやる予定だった」

 「監督は三船に出演を熱望してたが果たせず」

 なんて書いてあることがあって(『スターウォーズ』とか『ベスト・キッド』とか)、

 「外人さんは、三船が好きやなあ」

 なんてボンヤリ思ったもんだけど、黒澤映画観まくってわかりましたよ。そら、あんなイカした役者なら、使いたくもなりますわ。

 そんなわけで、今ではすっかり「やっぱ黒澤は天才や!」と、転びバテレンのごとく語りまくっている私だが、ひとつおもしろいのは、今回見直しても、やっぱり『七人の侍』と『生きる』は退屈だったこと。

 他のはすっかり堪能したのに、どうしてもこの2作だけはダメだった。念のために、春日太一さんの話とかも聞いてみたけど、やっぱりおもしろさが響かない。

 よりにもよって「合わない」のが、代表作2本とは運が悪かった。こういうこともあるんやなあ。

 でも間に合ってよかった。次は『野良犬』観ようっと。


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『静かなる決闘』で黒澤明を再評価! (でも『七人の侍』と『生きる』が苦手なのはナイショ)

2018年10月09日 | 映画
 黒澤明って、ホンマはおもしろかったんやなあ。

 というのは、映画『用心棒』を観ての感想であった。

 世の中には、「すごいらしいけど、自分にはハマらない映画や小説」が存在する。

 ジム・ジャームッシュって本当に「オシャレ」なの? 村上春樹がノーベル賞取りそうだけどイマイチ良さがわからない、ジブリの映画ってみんな本当に「理解したうえ」で絶賛してるの?

 かの宮部みゆきさんも、『2001年宇宙の旅』を、


 「すごい映画なのはわかるけど、どうしても途中で寝てしまう」


 まあ、そういうのは好みの問題なので(ちなみに『2001年』はアーサー・C・クラークのノベライズ版を読むと、わりとアッサリ理解できます)、「合わないものは合わないからしょうがない」でいいんだけど、あまりに周囲の評価が高いのに自分だけポカーンだと、

 「自分だけ、作品の高尚さが理解できないスットコひょうたんなのでは」

 といった不安にさらされることもある。

 これは映画にかぎらず、どの世界でも多かれ少なかれある実存的不安だが、私の場合「世界のクロサワ」がそれであった。

 大学生のころ、阿呆ほど映画を観まくっていた私は、同じく映画好きの友人に、

 「映画を語るなら、黒澤は一通りおさえておいた方がいいよ」

 とのアドバイスを受けたことがあった。

 黒澤明といえば、日本のみならず世界の映像監督に影響をあたえたことくらいは映画ファンでなくとも知っていること。

 時代劇が苦手なため後回しにしていたのだが、やはり一度は通らなければならぬ道ということで、とりあえずレンタル屋でいくつかビデオを借りてきたのだが。

 これが合わなかった。

 いや、別につまらないわけではない。ふつうにおもしろいのだ。

 だが、全体的に冗長な感じがして、観ていて退屈を感じるところも多い。悪くはないんだけど、「世間で言われるほど」の感動には達しないというか……。

 のちに日本映画研究家の春日太一さんが、

 「黒澤の演出はくどい」

 と語っておられて、まさにそのじっくりした描写が、リズムに合わなかった。もっと、ポンポーンと話を進めてくれよと。

 しかも、その「長い」と感じた作品というのが、『七人の侍』『羅生門』『生きる』だったのだから、これはもういかんともしがたい。

 おとろえたと言われたころの、『夢』や『まあだだよ』ならまだしも、黒澤明といってこの三本がヒットしなければ、これはもう「おととい来い」と言われたも同然だ。

 ひとつ救いだったのは、食後のデザートくらいの感覚で借りた『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』は地味ながら楽しめたこと。

 これで一応「全滅」だけは回避できたが、やはり代表作、特に『七人の侍』にピンとこなかったことは軽いショックで、それ以降、映画ファンと話すとき、

 「やっぱ、黒澤ってすごいよな。『七人の侍』とか」

 なんて流れになると、

 「まあ、そのへんはもう語られつくされてるからな。ボクはどっちかいうたら、下手な大作よりも、小品の方がむしろ彼の繊細さがあらわれてると思うねん。通はそこを見なアカンやろ」。

 などと、ごまかしていたものだ。嗚呼、なんて恥ずかしい。わが青春は悔いだらけだ。

 そんなことがあって、かなり長いこと「黒澤明は合わない」と思いこんでいたのだが、そこに風穴があいたのが、ある深夜映画の放送から。

 そこで流れていたのは、黒澤明『静かなる決闘』。

 タイトルからして、西部劇みたいなアクションかと勝手に思いこんでいたのだが、観てみるとこれが医者を主人公にした人間ドラマだった。

 三船敏郎演じるところの医師は、戦場で患者を治療中、梅毒に感染してしまう。

 復員後、秘密をだれにも打ち明けられず、婚約者とも距離を置かざるを得なくなった三船は、それでも黙々と仕事にはげむが、病のみならず、それゆえ余儀なくされた性的禁欲にも苦しめられる。

 一方、そんなことを知らない元ダンサーで、その過去ゆえひねた性格になってしまっている見習い看護婦は、そんな彼の姿を「偽善的」と見なし屈折した接し方しかできないが、ひょんなことから真実を知ることとなり……。

 あらすじで分かる通り、地味で重苦しいドラマであったが、これがおもしろかった。

 黒澤映画では、どちらかといえばマイナーな部類に入る作品かもしれないが、これを観終わって、

 「あー、やっぱり黒澤って、実力ある監督なんやあ」。

 そんな当たり前のことに、今さらながら気づかされたのである。

 そしてこれが、「私的クロサワの大逆襲」のゴングとなり、今度は当たるを幸い黒澤を観まくることになるのである。


 (続く→こちら



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われらアストロ奇術団 映画『プレステージ』は一試合完全燃焼主義バカ映画だ! その2

2018年09月17日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 『プレステージ』のオチが「アンフェア」かどうかは意見が分かれて実に興味深い。

 私は賛否両論の「賛」の方だが、なぜにて私をはじめ、わりとコアなミステリファンや作家の方にこの映画が評判がいいか。

 以下、ネタバレはしてないけど、カンのいい人にはわかっちゃうようなこと書くので、未見の人はスルーしてほしいが、一言で言えばこの『プレステージ』(『奇術師』)は、

 「渾身のバカミス」

 そういう話なんですね。

 手品や映画にかぎらず、小説もお芝居もお笑いもアートも、これすべて「表現」というものの本質は、

 「イカれた思いつきを大マジメにやる」

 これに尽きるんです。

 さもあろう。「創作」というのは、自分の妄想や欲望を「芸術」や「商品」という形にして提出しているわけで、平たく言えばこれすべて「遊び」。

 お笑いにしろ演技にしろ、手品なんてまさにそう。自分の考えたトリックで、だれかを驚かして悦に入っている。

 「マジック」なんて語ると収まりもいいけど、これって本質的には「子供のいたずら」と同じメンタリティーだ。どこまでいっても「遊び」なのである。

 だからこそ「芸人」というのは精進が必要なのだ。ただの遊びならガキでも出来る。いわゆる「大学生のノリ」みたいなのがつまらないのは、それらが「ただのお遊び」だからだ。

 だが実際に舞台に立つ、本物の芸人はちがう。彼らに求められるのはプロの、玄人の、全身全霊をこめた大人の見せる「渾身の大遊び」なのである。

 手品なんて、たいていはタネを明かせばアホみたいなものだったりする。

 だがそれを、舞台上で大上段にかまえて、これでもかという「どや」という大ハッタリを乗せてぶちかましてくるから、そこに感嘆と感動を呼ぶわけだ。

 『プレステージ』のオチもまた、

 「え? 2時間以上かけて、あれだけ大見栄切って最後に出てくるのが、その見ようによっては脱力のトリックでっか?」

 そう思わせられるものなのだ。

 だがそれを、時速200キロの剛速球でもって披露する、その姿勢が「やってくれるぜ!」となる。芸人バカ魂にシビれるではないか!

 たしかに『プレステージ』のオチはバカだ。だが、それをフルスイングでやったことがすばらしい!

 なんてことを熱く語ると、やはり、

 「わかる、そういうことやねん!」

 と、同じような温度でうなずいてくれる人もいれば、

 「えー、なんか意味わかんない」とか、果ては「そういうのキモイ」

 なんて返されて、どこまでいっても賛否両論なのがこの映画の宿命であり、けっこう人を選ぶ映画なのである。

 映画でも読書でも手品でも、それこそ科学でも数学でもチェスでも米に字を書くでもなんでもいいけど、「プロ」「玄人」「ガチ勢」と呼ばれる人が持つ偏執的な面がないと、この映画は共感されにくいのだろう。

 それこそ、アンジャーがトリックを守るために○○を裏切ったり○○を自ら○○したり、最後には○○になることについて、

 「そこまでやるか」

 とあきれる人と、

 「そこまでやるよなあ」

 そう苦笑いとともに感嘆する人とに分かれる。

 そしてこの映画は、あきらかに後者の人用に作られている。「芸のためなら女房も泣かす」的な、コンプライアンスもへったくれもない世界なのである。

 だから、「登場人物に共感できない」のは当然。そんな、「いい人」にそこまでの命をかけたバカはできない。人生に大事なものは、他にいくらでもあるからだ。

 だから、「2人がバカに見える」「オチにガッカリした」というのは、ある意味「正しい」観方でもあるのだ。人間としてまっとうというか。

 一応、理屈としては

 「あのトリックが禁止されたのは『ノックスの十戒』からやけど、『奇術師』の世界はそれより前やし」

 とか、

 「テスラが出てくると言うことは、それはもう『わかってるよな』という作者側からの合図やから、『ムチャするで』宣言であって、そこはそういう目で見るということやねん」

 なんていう「論理的」(?)擁護も、やろうと思えば色々できるわけだが、私としてはそういったことよりも、

 「『プレステージ』はあふれくるバカ魂満載の男前映画」

 ここを大いに評価したい。

 ネットのレビューなどにはよく

 「アンフェアといわれないよう、『SFミステリ』とか『ファンタジー』と紹介すべきですね」

 なんて書かれているけど、私としては

 「アンフェアとか言ってる場合じゃないぜ! 一試合完全燃焼主義、渾身のアストロ球団的SFミステリの傑作!」

 こう謳うべきではないかと思うのが、どうであろうか。



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