松川事件が起きたのは、1949年8月であり、最後の判決が東京オリンピックの前年の1963年9月に、最高裁の「上告棄却」がでて、原判決(仙台高裁・門田裁判長判決)の全員無罪が確定しました。
私が、裁判というものに、本格的に関心を持ったのも、この松川事件が初めてです。このとき、私は高校2年生でした。
松川事件というのは、1949年8月に、東北線の福島県内の金谷駅と松川間でおきた「列車転覆(死亡者3人)」事件です。レールが何者かによって、はずされていたもので、自然事故ではなく、計画的犯行とされました。
ところが、事件翌日に、吉田内閣の増田甲子七官房長官が記者会見で次のように述べています。
「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他各種事件と思想的底流に於いては同じである」
捜査当局は、素行不良者の近辺を洗い、国鉄を解雇された赤間勝美(共産党員ではない)の逮捕をきっかけに、その自白をもとに、国鉄労組員、東芝松川工場労組員など20人を逮捕し、福島地検は、「列車転覆死・20人の共同正犯」として起訴したのです。被告20人のうち、16人は日本共産党員でした。
福島地裁の第一審判決(1950年12月)
死刑5人。無期懲役5人、ほか10人に懲役15年から3年6ヶ月というものです。
獄外からの支援運動はじまる
この松川事件は、獄外からの支援運動が本格的にはじまり、判決をひっくり返した契機となった裁判です。
今まで、多くの国民は、「裁判は『厳正中立』で、外部から異見をいうことなど、とんでもない」と思っていたものです。かくいう、私も、高校生でしたが、「判決にもの申す」とは、何でだろうかと、思ったものです。
袴田弁護士の手紙
「記録を一読して私はすっかり驚いてしまった。よくこんな薄弱な証拠で検事があのような極刑を求刑し、裁判長までが今まであまり例のない大量の極刑の判決をあたえたものだ」
仙台高裁の第二審の判決(1953年)
死刑4人、無期懲役2人、懲役等11名、無罪3人
1954年から1958年まで、作家・広津和郎の「松川裁判」が中央公論で連載が始まる。これが、事件に対する社会の姿勢を根本からゆさぶり、公正裁判を要求する国民的運動へと繋がったといわれている。
最高裁大法廷始まる(1958年11月)
15人で行なわれるのが通常だが、病気2人、1人は、弁護側が「予断を持っている」と抗議したため、外れる。
最高裁大法廷判決(1959年8月)
「原判決中、被告人らに関する部分を破棄する。本件を仙台高等裁判所に差し戻す」
7人の多数意見が「差し戻し」、少数意見の5人が「上告棄却」
多数意見は、700字詰めの原稿用紙26枚
少数意見の反対意見は、その10倍を超える309枚。普通は逆なので、これも異例であった。
やりなおし裁判(仙台高裁)1960年3月開始
門田裁判長(遺書まで書いて取り組んだと言われている)発言
連絡謀議が疑わしいからといって、実行行為まで疑わしいとするのは不合理だから、実行行為まで調べてみなければならない
仙台高裁差し戻し審判決 1961年8月
第一審判決中、被告人らに関する部分を破棄する。被告人らは、いずれ無罪」
門田判決は、「証拠不十分」という消極的無罪論ではなく、被告の無実を積極的に証明する内容でした。
検察側は「事実誤認」を理由に、再度、最高裁へ上告
最高裁小法廷判決(1963年9月)
裁判官4人のうち、先の大法廷判決で、2人が「差し戻し」、1人が「上告棄却」の判断をしており、裁判長の斎藤氏がキャスティングボーを握るといわれていました。
判決「本件上告を棄却する」
この裁判は、計5回行なわれています
一審 「20人全員 クロ」
二審 「17人クロ、3人シロ」
最高裁大法廷「差し戻し判決」
差し戻し審「17人全員シロ」
最高裁小法廷「被告全員無罪確定」
私が、裁判というものに、本格的に関心を持ったのも、この松川事件が初めてです。このとき、私は高校2年生でした。
松川事件というのは、1949年8月に、東北線の福島県内の金谷駅と松川間でおきた「列車転覆(死亡者3人)」事件です。レールが何者かによって、はずされていたもので、自然事故ではなく、計画的犯行とされました。
ところが、事件翌日に、吉田内閣の増田甲子七官房長官が記者会見で次のように述べています。
「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他各種事件と思想的底流に於いては同じである」
捜査当局は、素行不良者の近辺を洗い、国鉄を解雇された赤間勝美(共産党員ではない)の逮捕をきっかけに、その自白をもとに、国鉄労組員、東芝松川工場労組員など20人を逮捕し、福島地検は、「列車転覆死・20人の共同正犯」として起訴したのです。被告20人のうち、16人は日本共産党員でした。
福島地裁の第一審判決(1950年12月)
死刑5人。無期懲役5人、ほか10人に懲役15年から3年6ヶ月というものです。
獄外からの支援運動はじまる
この松川事件は、獄外からの支援運動が本格的にはじまり、判決をひっくり返した契機となった裁判です。
今まで、多くの国民は、「裁判は『厳正中立』で、外部から異見をいうことなど、とんでもない」と思っていたものです。かくいう、私も、高校生でしたが、「判決にもの申す」とは、何でだろうかと、思ったものです。
袴田弁護士の手紙
「記録を一読して私はすっかり驚いてしまった。よくこんな薄弱な証拠で検事があのような極刑を求刑し、裁判長までが今まであまり例のない大量の極刑の判決をあたえたものだ」
仙台高裁の第二審の判決(1953年)
死刑4人、無期懲役2人、懲役等11名、無罪3人
1954年から1958年まで、作家・広津和郎の「松川裁判」が中央公論で連載が始まる。これが、事件に対する社会の姿勢を根本からゆさぶり、公正裁判を要求する国民的運動へと繋がったといわれている。
最高裁大法廷始まる(1958年11月)
15人で行なわれるのが通常だが、病気2人、1人は、弁護側が「予断を持っている」と抗議したため、外れる。
最高裁大法廷判決(1959年8月)
「原判決中、被告人らに関する部分を破棄する。本件を仙台高等裁判所に差し戻す」
7人の多数意見が「差し戻し」、少数意見の5人が「上告棄却」
多数意見は、700字詰めの原稿用紙26枚
少数意見の反対意見は、その10倍を超える309枚。普通は逆なので、これも異例であった。
やりなおし裁判(仙台高裁)1960年3月開始
門田裁判長(遺書まで書いて取り組んだと言われている)発言
連絡謀議が疑わしいからといって、実行行為まで疑わしいとするのは不合理だから、実行行為まで調べてみなければならない
仙台高裁差し戻し審判決 1961年8月
第一審判決中、被告人らに関する部分を破棄する。被告人らは、いずれ無罪」
門田判決は、「証拠不十分」という消極的無罪論ではなく、被告の無実を積極的に証明する内容でした。
検察側は「事実誤認」を理由に、再度、最高裁へ上告
最高裁小法廷判決(1963年9月)
裁判官4人のうち、先の大法廷判決で、2人が「差し戻し」、1人が「上告棄却」の判断をしており、裁判長の斎藤氏がキャスティングボーを握るといわれていました。
判決「本件上告を棄却する」
この裁判は、計5回行なわれています
一審 「20人全員 クロ」
二審 「17人クロ、3人シロ」
最高裁大法廷「差し戻し判決」
差し戻し審「17人全員シロ」
最高裁小法廷「被告全員無罪確定」