田原総一郎氏のブログが話題になっているようだ。6月6日に投稿した『リアリティがない朝日新聞や毎日新聞、それでも存在意義があるこれだけの理由』と題するブログだ。ブログの書き出しはこうだ。
「集団的自衛権の行使容認に向けた議論が、繰り広げられている。政府は、集団的自衛権の行使を容認しなければ、実行できないと考えられる事例など15の具体的事例を示し、国民の理解を得ようとしている」
田原氏によれば、集団的自衛権行使賛成派のメディアは読売新聞と産経新聞、反対派は朝日新聞と毎日新聞、東京新聞だそうだ。おそらくこの短絡的な分け方には、各メディアの政治部記者や論説委員たちは苦笑しているだろう。そんなに単純な問題ではないからだ。
田原氏は映像メディアの出身である。映像メディアはつねに問題を単純化する。一定の制限された時間内で視聴者の理解や感動、共感を得ようとすれば、問題を単純化せざるを得ないのはやむを得ないとは思う。たとえば日本の代表的な映画監督とされている黒沢明監督の作品も、「正」と「悪」に単純化した対立をかっこよく描くことで世界的評価を得た。西部劇の代表作ともいえる「シェーン」「真昼の決闘」「OK牧場の決闘」なども、これ以上単純化しようがないと言えるほどストーリーを単純化することで人気を得た。
ただ国際政治の問題は、映画の世界ほど単純化はできない。どの国の政府も、その時点での「国益」を最優先する政策をとろうと考えている。国益、という言葉にカギかっこを付けたのは、政府の政策が本当にその時点での国益として最優先すべきものだったのかどうかは、歴史の検証を待たなければ分からないからである。
集団的自衛権問題もそうだ。田原氏が朝日新聞と毎日新聞、東京新聞を名指しで「リアリティがない」としたのは、あくまで従来の政府解釈が正しいことを前提にしている。従来の政府解釈とは「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国(※事実上アメリカのこと)が攻撃された場合、自国が攻撃を受けたと見なして実力を行使する権利」というものである。
私は、その政府解釈が間違っているとこれまでも一貫して主張してきた。従来の政府解釈に基づく限り、やはり政府がこれまで一貫して答弁してきたように「国際法上(※国連憲章51条を指す)権利はあるが、憲法の制約上行使できない」のは当り前である。問題は三つある。
まずメディアが「集団的自衛権」についての政府の従来見解が国際社会において共通した認識であるかどうか、の検証作業を怠ってきたこと。
もう一つは、仮に政府見解が国際共通認識だったとして、ではその「権利」の発動が憲法9条に抵触するのかしないのか。
最後に、憲法9条の解釈変更によって行使が可能になる権利はどこまでか。
あるいは従来の政府見解を変更せずに、「憲法解釈の変更」だけで行使が可能になるような性質の問題なのか。
集団的自衛権行使問題については、これだけ複雑な要素を含んでいるのである。田原氏のように単純に「賛成派」と「反対派」に分類できるような性質の問題ではないのである。仮に従来の政府見解に立ったとしても「集団的自衛権の(限定的)行使容認」について賛成なのか反対なのか、それとも「憲法解釈の変更」について賛成なのか反対なのか、そうした理解すら田原氏の脳裏にはないようだ。
田原氏は朝日新聞などを「リアリティに欠ける」と決めつけた以上、対抗軸にあるメディアの読売新聞と産経新聞の主張を「リアリティがある」と肯定していると考えられるが、いったい読売新聞や産経新聞のどういう主張を根拠に支持しているのか、彼自身の明確なスタンスが不明だ。たとえば読売新聞は14日の社説でこう主張した。
「過去の見解の表現に固執し、自衛隊の活動を制約するのは本末転倒である。集団的自衛権の行使容認は、日米同盟や国際協調を強化し、抑止力を高めることが目的であることを忘れてはなるまい。
邦人が乗っている米軍艦船は守るが、乗っていない船は守らない。機雷除去や米国向け弾道ミサイルの迎撃はしない。そんな対応では真の国際協調とは言えず、米国の不信を招きかねない」
この主張は公明党を説得しようと躍起になっている高村氏が示している行使容認の事例から外れているが、田原氏はどう考えるのか。私自身は、アメリカだけを対象にしたこの社説の主張にはやはり疑問を持たざるを得ない。邦人が米国以外の国の艦船や航空機で戦地から脱出しようとした場合は、その船や航空機は守らなくてもいいのか。湾岸戦争のとき、イラクに駐在していた日本の民間人141人がイラク軍によって不当に拘束された。幸い日本人の命に別状はなかったが、もしどこかの国の艦船か航空機が自国民と一緒に日本人も救出してくれようとした場合、その国がアメリカでなかったら日本政府は指をくわえて眺めてていいのか。
仮にアメリカだけを対象にするとしても、日本人が乗っている米艦船の防衛は「個別的自衛権」の解釈変更で可能になるが、「米国向け弾道ミサイルの迎撃」ができるとなれば、日米安全保障条約を変更しなければならない。日米安保条約は周知のように「片務的」条約である。米国に向かう弾道ミサイルを日本が迎撃するとなると、日米安保条約は「双務的」になる。私は基地協定を含む様々な米軍基地問題の根幹には安保条約の片務性が横たわっていると考えており、安保条約を双務的なものに変える必要性をつねづね訴えてきた。が、そのためには現行憲法の解釈変更では不可能だ。日米双方が共同で軍事行動を行う場合は、安保条約5条に明記されているように「日本の領土が侵害を受けた場合」に限定されている。つまり、日本領土にある米軍基地が攻撃されたときは自衛
隊は米軍と共同して基地防衛の任に当たらなければならないが、日本の領土外で米艦船やアメリカを攻撃する弾道ミサイルを迎撃するとなると、現在の安保条約の解釈限界を超えてしまう。
このように集団的自衛権問題は「賛成」か「反対」かといった単純な二者択一的問題ではないのである。これからの日本という国のあり方にかかわってくる問題なのだ。
実は現行憲法制定時の総理であり、日本が独立を回復した時点でも総理だった吉田茂氏が、占領下において制定した憲法を独立後もそのまま維持したことについて自著『世界と日本』でこう回顧している。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職中のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟な状態にあると言ってよい」
私自身は、一日も早く日本が主権国家としての誇りと、国際社会に占めている現在の地位にふさわしい憲法に改定したうえで、吉田茂元総理が「未熟な状態」とまで言い切った日本という国のあり方について、国民的議論を巻き起こして考えるべき時期だと思っている。妙な言い方だが、中国の海洋進出と、中国戦闘機のたび重なる自衛隊機への異常接近などは、護憲思想で日本の安全を本当に守ることができるのかということを日本人が本気で考えるチャンスになったとさえ思っている。
なお集団的自衛権についてウィキペディアにおける二つの解説を引用する。これを参考にしていただきたい。
最初に北大西洋条約機構(NATO)についての解説である。
「加盟国(※NATOのこと)は集団的安全保障体制構築に加え、加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」
次に集団的自衛権についての解説である。この解説は少なくとも6月12日以降に書き換えられたもので、「正確さに疑問が呈されている」という注釈がついてはいるが、書き換えられたということは新解釈の方が論理的妥当性がある、とウィキペディア編集部門が判断したのだろう。そうでなければ、従来の政府解釈であり、かつメディアが鵜呑みにしてきた見解を180度ひっくり返すような新解説に入れ替えたりするわけがないからである。ちなみにこの新解説は、私が一貫して主張してきた解釈とほぼ同じである。
「集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利であると日本国内の
一部の法学者や政治家らが主張している権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するということにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反となる」
集団的自衛権についての、この新解釈に基づかない限り、NATOについての解説「加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」の説明がつかない。また元内閣法制局長の坂田雅裕氏はこう言っている。極めて重要な発言だ(5月20日)。
「集団的自衛権の行使は、我が国が攻められていないのに、日本から離れた場所で行われている戦争に参加することですから、行使をした途端に、それまで局外者であったはずのわが国が、交戦当事国になってしまうのです。その結果、敵国が日本の領土を攻撃することも許されるようになります」
最後に田原氏の「リアリティはないが、存在意義はある」とした主張について一言。朝日新聞や毎日新聞は、「必要悪」と田原氏は言いたいのだろうが、朝日新聞も毎日新聞も護憲の立場から安倍総理の強硬姿勢を批判しているわけではない。憲法解釈の変更によって、他国(事実上はアメリカだけ)を防衛するという、いわゆる「集団的自衛権」行使について批判しているだけだ。少なくとも今のところは…。
実は私の場合、「リアリティはないが、存在意義はあった」と評価していたのは「原発反対運動」である。「原発抜きに日本という国は成り立たない」という意味では反原発運動はリアリティに欠けていたが、しかし反原発運動の大きさによって日本の原発の安全性は維持されてきた。が、反原発運動が下火になるにつれて原発に携わる人たちの危機感が喪失していった結果、人的ミスによる巨大な事故を引き起こすことになった。それは結果論で言っているのではなく、私は1989年8月に上梓した『核融合革命』ではっきり書いている。チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の検証によって、私は反原発運動の重要性を逆の意味で認識した。原発に限らず、人間は自国の防衛についても判断ミスを犯すことを忘れてはいけない。
「集団的自衛権の行使容認に向けた議論が、繰り広げられている。政府は、集団的自衛権の行使を容認しなければ、実行できないと考えられる事例など15の具体的事例を示し、国民の理解を得ようとしている」
田原氏によれば、集団的自衛権行使賛成派のメディアは読売新聞と産経新聞、反対派は朝日新聞と毎日新聞、東京新聞だそうだ。おそらくこの短絡的な分け方には、各メディアの政治部記者や論説委員たちは苦笑しているだろう。そんなに単純な問題ではないからだ。
田原氏は映像メディアの出身である。映像メディアはつねに問題を単純化する。一定の制限された時間内で視聴者の理解や感動、共感を得ようとすれば、問題を単純化せざるを得ないのはやむを得ないとは思う。たとえば日本の代表的な映画監督とされている黒沢明監督の作品も、「正」と「悪」に単純化した対立をかっこよく描くことで世界的評価を得た。西部劇の代表作ともいえる「シェーン」「真昼の決闘」「OK牧場の決闘」なども、これ以上単純化しようがないと言えるほどストーリーを単純化することで人気を得た。
ただ国際政治の問題は、映画の世界ほど単純化はできない。どの国の政府も、その時点での「国益」を最優先する政策をとろうと考えている。国益、という言葉にカギかっこを付けたのは、政府の政策が本当にその時点での国益として最優先すべきものだったのかどうかは、歴史の検証を待たなければ分からないからである。
集団的自衛権問題もそうだ。田原氏が朝日新聞と毎日新聞、東京新聞を名指しで「リアリティがない」としたのは、あくまで従来の政府解釈が正しいことを前提にしている。従来の政府解釈とは「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国(※事実上アメリカのこと)が攻撃された場合、自国が攻撃を受けたと見なして実力を行使する権利」というものである。
私は、その政府解釈が間違っているとこれまでも一貫して主張してきた。従来の政府解釈に基づく限り、やはり政府がこれまで一貫して答弁してきたように「国際法上(※国連憲章51条を指す)権利はあるが、憲法の制約上行使できない」のは当り前である。問題は三つある。
まずメディアが「集団的自衛権」についての政府の従来見解が国際社会において共通した認識であるかどうか、の検証作業を怠ってきたこと。
もう一つは、仮に政府見解が国際共通認識だったとして、ではその「権利」の発動が憲法9条に抵触するのかしないのか。
最後に、憲法9条の解釈変更によって行使が可能になる権利はどこまでか。
あるいは従来の政府見解を変更せずに、「憲法解釈の変更」だけで行使が可能になるような性質の問題なのか。
集団的自衛権行使問題については、これだけ複雑な要素を含んでいるのである。田原氏のように単純に「賛成派」と「反対派」に分類できるような性質の問題ではないのである。仮に従来の政府見解に立ったとしても「集団的自衛権の(限定的)行使容認」について賛成なのか反対なのか、それとも「憲法解釈の変更」について賛成なのか反対なのか、そうした理解すら田原氏の脳裏にはないようだ。
田原氏は朝日新聞などを「リアリティに欠ける」と決めつけた以上、対抗軸にあるメディアの読売新聞と産経新聞の主張を「リアリティがある」と肯定していると考えられるが、いったい読売新聞や産経新聞のどういう主張を根拠に支持しているのか、彼自身の明確なスタンスが不明だ。たとえば読売新聞は14日の社説でこう主張した。
「過去の見解の表現に固執し、自衛隊の活動を制約するのは本末転倒である。集団的自衛権の行使容認は、日米同盟や国際協調を強化し、抑止力を高めることが目的であることを忘れてはなるまい。
邦人が乗っている米軍艦船は守るが、乗っていない船は守らない。機雷除去や米国向け弾道ミサイルの迎撃はしない。そんな対応では真の国際協調とは言えず、米国の不信を招きかねない」
この主張は公明党を説得しようと躍起になっている高村氏が示している行使容認の事例から外れているが、田原氏はどう考えるのか。私自身は、アメリカだけを対象にしたこの社説の主張にはやはり疑問を持たざるを得ない。邦人が米国以外の国の艦船や航空機で戦地から脱出しようとした場合は、その船や航空機は守らなくてもいいのか。湾岸戦争のとき、イラクに駐在していた日本の民間人141人がイラク軍によって不当に拘束された。幸い日本人の命に別状はなかったが、もしどこかの国の艦船か航空機が自国民と一緒に日本人も救出してくれようとした場合、その国がアメリカでなかったら日本政府は指をくわえて眺めてていいのか。
仮にアメリカだけを対象にするとしても、日本人が乗っている米艦船の防衛は「個別的自衛権」の解釈変更で可能になるが、「米国向け弾道ミサイルの迎撃」ができるとなれば、日米安全保障条約を変更しなければならない。日米安保条約は周知のように「片務的」条約である。米国に向かう弾道ミサイルを日本が迎撃するとなると、日米安保条約は「双務的」になる。私は基地協定を含む様々な米軍基地問題の根幹には安保条約の片務性が横たわっていると考えており、安保条約を双務的なものに変える必要性をつねづね訴えてきた。が、そのためには現行憲法の解釈変更では不可能だ。日米双方が共同で軍事行動を行う場合は、安保条約5条に明記されているように「日本の領土が侵害を受けた場合」に限定されている。つまり、日本領土にある米軍基地が攻撃されたときは自衛
隊は米軍と共同して基地防衛の任に当たらなければならないが、日本の領土外で米艦船やアメリカを攻撃する弾道ミサイルを迎撃するとなると、現在の安保条約の解釈限界を超えてしまう。
このように集団的自衛権問題は「賛成」か「反対」かといった単純な二者択一的問題ではないのである。これからの日本という国のあり方にかかわってくる問題なのだ。
実は現行憲法制定時の総理であり、日本が独立を回復した時点でも総理だった吉田茂氏が、占領下において制定した憲法を独立後もそのまま維持したことについて自著『世界と日本』でこう回顧している。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職中のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟な状態にあると言ってよい」
私自身は、一日も早く日本が主権国家としての誇りと、国際社会に占めている現在の地位にふさわしい憲法に改定したうえで、吉田茂元総理が「未熟な状態」とまで言い切った日本という国のあり方について、国民的議論を巻き起こして考えるべき時期だと思っている。妙な言い方だが、中国の海洋進出と、中国戦闘機のたび重なる自衛隊機への異常接近などは、護憲思想で日本の安全を本当に守ることができるのかということを日本人が本気で考えるチャンスになったとさえ思っている。
なお集団的自衛権についてウィキペディアにおける二つの解説を引用する。これを参考にしていただきたい。
最初に北大西洋条約機構(NATO)についての解説である。
「加盟国(※NATOのこと)は集団的安全保障体制構築に加え、加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」
次に集団的自衛権についての解説である。この解説は少なくとも6月12日以降に書き換えられたもので、「正確さに疑問が呈されている」という注釈がついてはいるが、書き換えられたということは新解釈の方が論理的妥当性がある、とウィキペディア編集部門が判断したのだろう。そうでなければ、従来の政府解釈であり、かつメディアが鵜呑みにしてきた見解を180度ひっくり返すような新解説に入れ替えたりするわけがないからである。ちなみにこの新解説は、私が一貫して主張してきた解釈とほぼ同じである。
「集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利であると日本国内の
一部の法学者や政治家らが主張している権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するということにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反となる」
集団的自衛権についての、この新解釈に基づかない限り、NATOについての解説「加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」の説明がつかない。また元内閣法制局長の坂田雅裕氏はこう言っている。極めて重要な発言だ(5月20日)。
「集団的自衛権の行使は、我が国が攻められていないのに、日本から離れた場所で行われている戦争に参加することですから、行使をした途端に、それまで局外者であったはずのわが国が、交戦当事国になってしまうのです。その結果、敵国が日本の領土を攻撃することも許されるようになります」
最後に田原氏の「リアリティはないが、存在意義はある」とした主張について一言。朝日新聞や毎日新聞は、「必要悪」と田原氏は言いたいのだろうが、朝日新聞も毎日新聞も護憲の立場から安倍総理の強硬姿勢を批判しているわけではない。憲法解釈の変更によって、他国(事実上はアメリカだけ)を防衛するという、いわゆる「集団的自衛権」行使について批判しているだけだ。少なくとも今のところは…。
実は私の場合、「リアリティはないが、存在意義はあった」と評価していたのは「原発反対運動」である。「原発抜きに日本という国は成り立たない」という意味では反原発運動はリアリティに欠けていたが、しかし反原発運動の大きさによって日本の原発の安全性は維持されてきた。が、反原発運動が下火になるにつれて原発に携わる人たちの危機感が喪失していった結果、人的ミスによる巨大な事故を引き起こすことになった。それは結果論で言っているのではなく、私は1989年8月に上梓した『核融合革命』ではっきり書いている。チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の検証によって、私は反原発運動の重要性を逆の意味で認識した。原発に限らず、人間は自国の防衛についても判断ミスを犯すことを忘れてはいけない。