小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

田原総一郎氏の「集団的自衛権行使容認」問題についての短絡思考がなぜ話題になったのか…。

2014-06-16 07:05:32 | Weblog
 田原総一郎氏のブログが話題になっているようだ。6月6日に投稿した『リアリティがない朝日新聞や毎日新聞、それでも存在意義があるこれだけの理由』と題するブログだ。ブログの書き出しはこうだ。
「集団的自衛権の行使容認に向けた議論が、繰り広げられている。政府は、集団的自衛権の行使を容認しなければ、実行できないと考えられる事例など15の具体的事例を示し、国民の理解を得ようとしている」
 田原氏によれば、集団的自衛権行使賛成派のメディアは読売新聞と産経新聞、反対派は朝日新聞と毎日新聞、東京新聞だそうだ。おそらくこの短絡的な分け方には、各メディアの政治部記者や論説委員たちは苦笑しているだろう。そんなに単純な問題ではないからだ。
 田原氏は映像メディアの出身である。映像メディアはつねに問題を単純化する。一定の制限された時間内で視聴者の理解や感動、共感を得ようとすれば、問題を単純化せざるを得ないのはやむを得ないとは思う。たとえば日本の代表的な映画監督とされている黒沢明監督の作品も、「正」と「悪」に単純化した対立をかっこよく描くことで世界的評価を得た。西部劇の代表作ともいえる「シェーン」「真昼の決闘」「OK牧場の決闘」なども、これ以上単純化しようがないと言えるほどストーリーを単純化することで人気を得た。
 ただ国際政治の問題は、映画の世界ほど単純化はできない。どの国の政府も、その時点での「国益」を最優先する政策をとろうと考えている。国益、という言葉にカギかっこを付けたのは、政府の政策が本当にその時点での国益として最優先すべきものだったのかどうかは、歴史の検証を待たなければ分からないからである。
 集団的自衛権問題もそうだ。田原氏が朝日新聞と毎日新聞、東京新聞を名指しで「リアリティがない」としたのは、あくまで従来の政府解釈が正しいことを前提にしている。従来の政府解釈とは「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国(※事実上アメリカのこと)が攻撃された場合、自国が攻撃を受けたと見なして実力を行使する権利」というものである。
 私は、その政府解釈が間違っているとこれまでも一貫して主張してきた。従来の政府解釈に基づく限り、やはり政府がこれまで一貫して答弁してきたように「国際法上(※国連憲章51条を指す)権利はあるが、憲法の制約上行使できない」のは当り前である。問題は三つある。
 まずメディアが「集団的自衛権」についての政府の従来見解が国際社会において共通した認識であるかどうか、の検証作業を怠ってきたこと。
 もう一つは、仮に政府見解が国際共通認識だったとして、ではその「権利」の発動が憲法9条に抵触するのかしないのか。
 最後に、憲法9条の解釈変更によって行使が可能になる権利はどこまでか。
あるいは従来の政府見解を変更せずに、「憲法解釈の変更」だけで行使が可能になるような性質の問題なのか。
 集団的自衛権行使問題については、これだけ複雑な要素を含んでいるのである。田原氏のように単純に「賛成派」と「反対派」に分類できるような性質の問題ではないのである。仮に従来の政府見解に立ったとしても「集団的自衛権の(限定的)行使容認」について賛成なのか反対なのか、それとも「憲法解釈の変更」について賛成なのか反対なのか、そうした理解すら田原氏の脳裏にはないようだ。
 田原氏は朝日新聞などを「リアリティに欠ける」と決めつけた以上、対抗軸にあるメディアの読売新聞と産経新聞の主張を「リアリティがある」と肯定していると考えられるが、いったい読売新聞や産経新聞のどういう主張を根拠に支持しているのか、彼自身の明確なスタンスが不明だ。たとえば読売新聞は14日の社説でこう主張した。
「過去の見解の表現に固執し、自衛隊の活動を制約するのは本末転倒である。集団的自衛権の行使容認は、日米同盟や国際協調を強化し、抑止力を高めることが目的であることを忘れてはなるまい。
 邦人が乗っている米軍艦船は守るが、乗っていない船は守らない。機雷除去や米国向け弾道ミサイルの迎撃はしない。そんな対応では真の国際協調とは言えず、米国の不信を招きかねない」
 この主張は公明党を説得しようと躍起になっている高村氏が示している行使容認の事例から外れているが、田原氏はどう考えるのか。私自身は、アメリカだけを対象にしたこの社説の主張にはやはり疑問を持たざるを得ない。邦人が米国以外の国の艦船や航空機で戦地から脱出しようとした場合は、その船や航空機は守らなくてもいいのか。湾岸戦争のとき、イラクに駐在していた日本の民間人141人がイラク軍によって不当に拘束された。幸い日本人の命に別状はなかったが、もしどこかの国の艦船か航空機が自国民と一緒に日本人も救出してくれようとした場合、その国がアメリカでなかったら日本政府は指をくわえて眺めてていいのか。
 仮にアメリカだけを対象にするとしても、日本人が乗っている米艦船の防衛は「個別的自衛権」の解釈変更で可能になるが、「米国向け弾道ミサイルの迎撃」ができるとなれば、日米安全保障条約を変更しなければならない。日米安保条約は周知のように「片務的」条約である。米国に向かう弾道ミサイルを日本が迎撃するとなると、日米安保条約は「双務的」になる。私は基地協定を含む様々な米軍基地問題の根幹には安保条約の片務性が横たわっていると考えており、安保条約を双務的なものに変える必要性をつねづね訴えてきた。が、そのためには現行憲法の解釈変更では不可能だ。日米双方が共同で軍事行動を行う場合は、安保条約5条に明記されているように「日本の領土が侵害を受けた場合」に限定されている。つまり、日本領土にある米軍基地が攻撃されたときは自衛
隊は米軍と共同して基地防衛の任に当たらなければならないが、日本の領土外で米艦船やアメリカを攻撃する弾道ミサイルを迎撃するとなると、現在の安保条約の解釈限界を超えてしまう。
 このように集団的自衛権問題は「賛成」か「反対」かといった単純な二者択一的問題ではないのである。これからの日本という国のあり方にかかわってくる問題なのだ。
 実は現行憲法制定時の総理であり、日本が独立を回復した時点でも総理だった吉田茂氏が、占領下において制定した憲法を独立後もそのまま維持したことについて自著『世界と日本』でこう回顧している。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職中のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟な状態にあると言ってよい」
 私自身は、一日も早く日本が主権国家としての誇りと、国際社会に占めている現在の地位にふさわしい憲法に改定したうえで、吉田茂元総理が「未熟な状態」とまで言い切った日本という国のあり方について、国民的議論を巻き起こして考えるべき時期だと思っている。妙な言い方だが、中国の海洋進出と、中国戦闘機のたび重なる自衛隊機への異常接近などは、護憲思想で日本の安全を本当に守ることができるのかということを日本人が本気で考えるチャンスになったとさえ思っている。

 なお集団的自衛権についてウィキペディアにおける二つの解説を引用する。これを参考にしていただきたい。
 最初に北大西洋条約機構(NATO)についての解説である。
「加盟国(※NATOのこと)は集団的安全保障体制構築に加え、加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」
 次に集団的自衛権についての解説である。この解説は少なくとも6月12日以降に書き換えられたもので、「正確さに疑問が呈されている」という注釈がついてはいるが、書き換えられたということは新解釈の方が論理的妥当性がある、とウィキペディア編集部門が判断したのだろう。そうでなければ、従来の政府解釈であり、かつメディアが鵜呑みにしてきた見解を180度ひっくり返すような新解説に入れ替えたりするわけがないからである。ちなみにこの新解説は、私が一貫して主張してきた解釈とほぼ同じである。
「集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利であると日本国内の
一部の法学者や政治家らが主張している権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するということにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反となる」
 集団的自衛権についての、この新解釈に基づかない限り、NATOについての解説「加盟国のいずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている」の説明がつかない。また元内閣法制局長の坂田雅裕氏はこう言っている。極めて重要な発言だ(5月20日)。
「集団的自衛権の行使は、我が国が攻められていないのに、日本から離れた場所で行われている戦争に参加することですから、行使をした途端に、それまで局外者であったはずのわが国が、交戦当事国になってしまうのです。その結果、敵国が日本の領土を攻撃することも許されるようになります」

 最後に田原氏の「リアリティはないが、存在意義はある」とした主張について一言。朝日新聞や毎日新聞は、「必要悪」と田原氏は言いたいのだろうが、朝日新聞も毎日新聞も護憲の立場から安倍総理の強硬姿勢を批判しているわけではない。憲法解釈の変更によって、他国(事実上はアメリカだけ)を防衛するという、いわゆる「集団的自衛権」行使について批判しているだけだ。少なくとも今のところは…。
 実は私の場合、「リアリティはないが、存在意義はあった」と評価していたのは「原発反対運動」である。「原発抜きに日本という国は成り立たない」という意味では反原発運動はリアリティに欠けていたが、しかし反原発運動の大きさによって日本の原発の安全性は維持されてきた。が、反原発運動が下火になるにつれて原発に携わる人たちの危機感が喪失していった結果、人的ミスによる巨大な事故を引き起こすことになった。それは結果論で言っているのではなく、私は1989年8月に上梓した『核融合革命』ではっきり書いている。チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故の検証によって、私は反原発運動の重要性を逆の意味で認識した。原発に限らず、人間は自国の防衛についても判断ミスを犯すことを忘れてはいけない。
 

残業代ゼロ制度(成果主義賃金)を定着させるには、「同一労働同一賃金」を前提にしないと無理だ。

2014-06-13 06:03:23 | Weblog
 年収1000万円以上の従業員に対する成果主義賃金制度の導入が決まった。が、その運用が、能力がありバリバリ働く人のための賃金制度なのか、賃金の抑制と長時間労働に対する歯止めを外したい企業のための賃金制度なのかによって、結果は大きく異なる。その視点を明らかにしないままに安倍内閣は「力によって現状変更の試み」を強行した、と言われても仕方ないであろう。
 私は、5月21日から3回連続でこの問題についてのブログを書いた。

「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか。

 この新しい賃金制度は、労働基準法の改定なしには導入できないはずだ、という論理的根拠を明らかにした。現行の労働基準法によれば、1日の労働時間は原則8時間、週40時間以内と定められている。その労働時間を超えたときは残業代が発生する。時間外労働に対する割増賃金(残業代)の割増率は25%以上だったが、長時間労働を防ぐため2010年に改定され月60時間を超える割増率は50%以上になった(中小企業は適用猶予)。なお休日労働の割増率は35%以上である。ただし上級管理職(いちおう部長以上とされているが、課長以上の非組合員も上級管理職に位置づけている会社が大半のようだ)には割増賃金の支払い義務がないとされており、一部の専門職にもあらかじめ残業代込の定額給与にすることが許されている。
 問題は年収1000万円という基準を設定したことである。朝日新聞は12日付朝刊でこういうケースを例に書いた。

 大手金融機関で働く30代の男性は、いまの年収が1千万円弱。想定される新制度の対象にもうすぐ届く。「残業という概念がなくなれば、会社が労働時間の管理をしなくなり、過労死が増える」と心配する。(中略)
 国税庁の統計では、年収1千万円を超える給与所得者は、管理職を含めて全体の3.8%。金融業界に勤める人は高年収者が多く、新制度の対象になる人が比較的多いとみられる。
 
 実は、このケースはちょっと考えにくい。国税庁の民間給与実態統計調査(2013年度)によれば、男性の平均年収は一応503万円ということになっているが、それは年収1億円以上の人も含めての単純平均であり、年収400万円未満のサラリーマン層が全体のほぼ半数を占めている。高学歴化が進んでいる今日では大卒30代といえば、いくら高収入者が多いとみられている金融業界のサラリーマンでも、年収1000万円というのはちょっと考えにくい。
 さらに朝日新聞はおかしな「事実」も書いている。この人は今春の異動を機に「裁量労働制」(※成果主義賃金制のこと)という働き方に替わり、残業代はあらかじめ定額の賃金に含まれた結果、4月の給与明細を見て驚いたという。「毎日、午前8時から午後10時過ぎまで働き、週末も出勤した。労働時間は前の職場よりも70時間も延びた。月300時間を超えたのに、手取りはほぼ横ばい。休日手当が数千円ついただけだった」という。
 もしこのケースが事実なら、この人は信じがたいほどの高給取りだったということになる。今年の4月の平日(金融機関の営業日)は、21日間。労基法で定められた労働時間は月間168時間(約170時間)である。労働時間が前の職場より70時間延びて300時間を超えた、ということは前の職場での労働時間は約230時間ということになる。残業代の対象になる時間外労働は前の職場で月約60時間だったということになる。ギリギリ労基法の懲罰的残業時間制限内で収まっていた。残業が60時間以内だったら割増賃金率は25%だが、60時間を超えると一気に割増率は50%に引き上げられるからだ。懲罰的残業時間の制限内の労働で、30代で1000万円の年収というのは、常識的に考えて、まともな企業では考えにくい。考えにくいというより「ありえない」話だ。
 あるいは、こういうケースも考えられないことはない。その金融機関では従業員に対して一律に常識外の高給を与えていた場合だ。能力が高くて仕事の能率も高い従業員も、その反対に能力がそれほど高くなく仕事の能率も悪い従業員にもほぼ一律に高額の給料を支払っていたとする。そういう場合は「裁量労働制」に移行すると、能力が低く仕事もはかどらない従業員が高い給料を維持するためには、仕事の量(つまり労働時間)で給料に見合う結果を出さなければならない。「裁量労働制」は「同一労働同一賃金」を前提にした制度であり、能力が低かったり、仕事の能率が悪かったりする従業員が人並みの給料をもらいたかったら長時間働いて人並みの成果を上げなければならないのは当然だ。
 朝日新聞が例に出した大手金融機関で年収1000万円弱貰っていた従業員は、たぶん後者のケースだろう。日本の企業は会社が人員整理を余儀なくされるほど経営が悪化しない限り、特定の従業員だけの給料を大幅にカットすることはできないから、無能な従業員は「裁量労働制」に移行させて、今までのような高給を貰いたかったら骨身を削って働け、という見せしめ的な長時間労働を強いたのかもしれない。それでも、何も仕事をさせてもらえない「窓際族」よりましだと思う。朝日新聞の記事がでっち上げではないとしての話だが…。

 一時外食産業などで、裁量権が事実上ないのに「店長」という肩書が管理職に相当するとして残業代を支払わない企業が続出して「店長の反乱」が生じたことがある。この問題は訴訟になり、企業側が敗訴したが、ある意味では年収1000万円の壁は裁量権の有無の基準としては合理的かもしれない。国税庁の調査によれば、年収1000万円を超える給与所得者は全体の3.8%にすぎないということから考えても、たとえば従業員1000人の企業で約40人くらいはある程度裁量権を与えられていると考えてもいいと思う。実際従業員1000人の企業だったら、役員も含め上級管理職はそのくらい、いまでもいるのではないか。その人たちはすでに残業代ゼロの成果主義賃金で働いている。
 ただ年功序列型賃金体系を温存したままで成果主義賃金制度を導入するのは、多少問題を感じる。また、前のブログで述べたように、この新しい制度は「同一労働同一賃金」を前提にしないと実際の適用は難しい。若いころは安い給料で能無し(とまで書くと言いすぎか?)の中高年層の生活を支えてきた、いまの中高年の給与所得者にはつらい制度だが、どこかで踏み切らないと少子高齢化問題や労働力不足問題の解決は難しい。
 

法人税率引き下げ――またもや「見かけ上の課税率」でメディアや国民をだまそうというのか。

2014-06-12 07:17:10 | Weblog
 昨日は安倍内閣の成長戦略の一つである「混合診療解禁」について条件付きで支持する主張を述べたが、同じ成長戦略の一つである「法人減税」について考えてみたい。
 最初からバラしてしまうと、政府の税についての説明は全く信用できない。平気でウソをつくからだ。
 私が知っていることだけ書く。消費税は、竹下内閣が導入し(3%)、橋下内閣のとき増税した(5%)。そのとき、自民党政府の説明は「日本の高額所得者に対する課税率は、他の先進国に比べて高すぎる。先進国並みに引き下げたい」ということだった。
 高額所得層の課税率を引き下げれば、当たり前の話だが税収が減る。その減税分を補うために消費税が導入された。
 この高額所得者への優遇税制と消費税導入がセットで行われたことは、安倍総理もメディアも否定できないはずだ。
 が、実はこのときの政府説明がウソだった。デタラメだったことをばらしたのは、ほかならぬ安倍総理自身である。
 今年4月の消費税増税と引きかえのように、安倍内閣は高額給与所得者に対して2段階の増税を決めた。1段階目は年収1200万円以上の給与所得者、2段階目は年収1000万円以上の給与所得者に対して、「給与所得控除」を減額するというのである。その理由について安倍総理は「先進各国に比べて日本の高額給与所得者に対する給与所得控除が優遇されすぎている。したがって給与所得控除を他の先進国並みに引き下げる」と説明した。
 私は、他の先進国の課税システムがどうなっているのか知る由もないが(ウィキペディアでも調べられなかった)、日本の給与所得者の場合、年収から様々な名目の控除が行われ、最終的に課税対象所得額が決定され、その所得額に応じた5段階の所得税率が決められていた(所得税法改定により現在は6段階)。
 日本の場合、給与所得者に限らず収入のある人すべてが一律で控除される基礎控除をはじめ、配偶者控除、扶養家族控除、社会保険控除、生命保険や火災保険の一部控除、配当控除などである。マイホームを購入した場合の控除や医療費が一定額を超えた場合の控除もある。私は税の専門家ではないので、ほかにも控除される支出があるかもしれない。でも、そこまで詳細に調べる必要はないと思っている。政府説明の欺瞞性を暴くヒントを提供するだけで、私の役割は終えたと思っている。 
 問題は給与所得控除である。ほかの控除が定額や支出実費であるのに対して、給与所得控除は年収が増えるにつれて増額される仕組みになっている。だからすでに日本の累進課税システムは、高額給与所得者が特に不利にならないよう、「給与所得控除」によってバランスをとっていた、と言えなくはなかったので
ある。
 が、竹下内閣も橋下内閣も、「見かけ上の課税率」だけを他の先進国と比較して、日本の高額所得者に対する課税は過酷すぎるという短絡的な結論を出し、消費税導入・増税と引きかえに高額所得者に対する「見かけ上の課税率」を引き下げた。当時、社会党や共産党は「金持ち優遇税制だ」と批判したが、「見かけ上の課税率」の欺瞞性には全く気付かなかった。もし当時の社会党や共産党、あるいはメディアも他の先進諸国の所得税制度を調べていたら、竹下内閣、橋下内閣による税制改革はとん挫していた可能性は低くなかったと思う。言っておくが、私は消費税導入に反対しているわけではない。ペテン、といっても過言ではないやり方に、やり場のない怒りを覚えているだけだ。 
 皮肉なことに、竹下内閣、橋下内閣による高額所得者への軽減税制の欺瞞性を明らかにしたのが、同じ自民党総裁で現総理の安倍晋三氏だった。「日本の高額給与所得者に対する給与所得控除は他の先進国に比べて優遇されすぎている」ことを明らかにしてしまったのである。

 「健忘症」というのは読売新聞の論説委員のことだろうか。竹下内閣、橋下内閣によるペテンと言ってもいい税制改革に諸手を挙げて支持した読売新聞の論説委員は、安倍内閣による給与所得控除の見直しに社説で反対した。購買力が大きい高額給与所得層の税負担を重くすると、景気に悪い影響を及ぼす、というのが主張の内容である。「健忘症」にかかれば、確かにメディアは都合がいいだろう。過去の主張をすっかり忘れて、正反対の主張をしても、心が痛まないのだから。
 いずれにせよ、安倍総理は竹下内閣、橋下内閣と同様、今度は法人税率について「見かけ上の課税率」が高すぎると言いだした。メディアは、二度と同じ過ちを繰り返すべきではない。他の先進諸国の法人税制度を徹底的に検証して、そのうえで日本の経済成長と国民の生活、財政の健全化への指針を明らかにすべきだ。政府の手のひらの上に乗って、「見かけ上の課税率」をうんぬんするような愚は、今回はやめていただきたい。
 言っておくが、私は別に法人税率の引き下げに反対しているわけではない。安倍内閣の説明に不信感を抱いているだけだ。メディアの責任と義務を、そういう意味で問うているだけである。
 
 ついでのことに、EU先進諸国の消費税(付加価値税)は軒並み高い。食料品などの生活必需品は軽減税率が適用されているようだが、日本も来年10月には消費税を10%に増税することになっており(確定ではない)、その際軽減税率問題も検討することになっている。
 が、食料品などに軽減税率を導入したら、他の商品の消費税を2%程度増税しても差引税収はどうなるのか、政党もメディアも検証作業をした形跡はない。食料品に軽減税率を導入するとしたら、食料品以外にはかなり高率の消費税を課さないと、たぶん釣り合いが取れないのではないかと思う。
 それにしてもEU先進諸国が法人税を低く(ドイツは30%近いようだが)、付加価値税を高率にして、国家財政も破綻せず、国民生活も安定し、かつ社会福祉制度は充実しているのはなぜか。日本ほどではないが、少子高齢化は先進国共通の現象で、EU先進国はそうした深刻な事態(ひょっとしたらEU先進国にとってはまだ深刻化していないのかもしれないが)をどう克服しようとしているのか。日本の政治家やメディアは、アメリカにばかり関心を持つのではなく、EU先進国が財政の健全化を維持しながら国民生活と社会福祉も安定させているとしたら、日本が学ぶべきはEUかもしれない。
 

混合医療解禁は日本の医療技術を飛躍的に高めるチャンスになる。私は条件付きで賛成する。

2014-06-11 06:47:30 | Weblog
 混合診療の規制を、大幅に緩和する方針を政府が打ち出した。
 これまでは健康保険では医療行為ができなかった高度な先端医療は「自由診療」が原則だった。「自由診療」とは、健康保険では治療行為が行えない高度治療を患者が希望した場合、その病気の治療についてのすべてが患者の自費負担になるという制度である。
 それに対し、健康保険で行える治療は保険で治療が受けられ、保険適用外の治療については自費負担で、というように高度治療を受ける患者の負担が減り、また受ける治療の選択肢も広がるという制度が混合治療である。
 結論から言うと、大いに結構な制度である。
 この混合診療制度の導入は民主・野田政権の時代に浮上したものである。が、医師会が「国民皆保険制度の崩壊につながる」と真っ向から反対し、厚労省も同じ趣旨で混合医療の導入には足踏みしてきた。
 もともと、健康保険制度の崩壊が社会的問題になるはるか以前から(つまり厚生省時代から)、最先端の医療器具や医薬品の認可が日本では遅すぎると海外から(とくにアメリカから)批判されていた。なぜ遅かったのか。
 別に厚生省の役人が怠慢だったからではない。日本の「国民皆保険制度」というのは、厚生省が「安全で効果がある」と認めた場合、原則として、その医療器具や医薬品を使用した医療行為はすべて健康保険の対象になることになっているからだ。だから高額な医療行為につながる最新の医療器具や医薬品の承認には、も厚生省慎重にならざるを得ないという事情もあった。
 いまの若い人は知らないだろうが、かつては現役世代の健康保険の自己負担率は二つに分かれていた。国民健康保険の加入者は3割負担、国民健康保険以外の健康保険の加入者は1割(ただし、その扶養家族は3割)負担という時代が長く続いていた。国民健康保険以外というのは、会社員や公務員など給与所得者が加入する保険である。が、医療費の高騰に伴って会社員や公務員の負担率も2割になり、いまでは国民健康保険と同じ3割になっている。負担率が軽減されるのは70歳以上の高齢者になって以降で、今まではいっきに1割負担に軽減されていたが、今年4月からその1年前に70歳になった前期高齢者は74歳まで2割負担になった。法律では前期高齢者の負担率は2割になっていたのだが、経過的措置として1割負担に軽減されていたのだが、保険財源が維持できないということで法律通り2割負担になったという経緯がある。また高齢者でも現役並みの給与所得者は3割負担になった。
 アメリカはオバマ大統領による医療保険制度改革によって、いちおう混合診療制度に移行したが、それまでは自由診療制度だった。なんでも個人の権利と責任を重視するのが原則であるアメリカでは、「自分の安全は自分で守る」という建前で銃規制もままならない。同様に、「病気になるのも、病気を治すのも」自己責任という考え方が医療の世界にも定着してきた。
 そのため、アメリカ国民は自分の経済力に応じて民間の医療保険(日本の生保や損保と同様、アメリカの医療保険会社はいくつもあり、また保険のプランもたくさんある)に加入する必要があった。富裕層は高額な医療費がかかる高度な医療を受けられる保険会社と契約できるが、貧困層は医療保険にも加入できず、病気になったら医者にも診てもらえないという状態が長く続いた。
 どちらかというと富裕層を選挙基盤とする共和党に対し、貧困層を選挙基盤としてきた民主党は混合医療制度の導入に積極的だった。実際には共和党と民主党の違いはそんなに単純化できるものではないが、歴代の民主党政権にとって貧困層の医療救済制度の導入は大きな政治的課題だった。前政権のクリントン大統領時代も、ヒラリー・クリントンが必死に医療制度改革に取り組んだが果たせず、オバマ大統領がようやく第1期目のとき実現した。が、その医療制度改革が、いま民主党では足かせになってしまった。医療制度改革に伴う財政負担が予想より大きく、民主党への国民の支持率が低下したためである。
 日本では、国民皆保険制を維持するため、医療費が高額化する高度医療の承認はなかなか認められず、一方健保財政の悪化を健康保険加入者の負担を高めることによって補ってきた。この保険負担率を上げることに対しては医師会は一切反対したことはない。自分たちの商売には響かないからである。
 が、混合医療制度が本格的に導入されることになると、患者による医療機関の選別が始まる。これは、「みんなで一緒に儲けましょう(その逆も同じ)」という日本的平等主義に反するからだ。実際には、すでに患者の医療機関選別は始まっており、「いい病院」や「いい医者」を紹介するテレビ番組や雑誌の特集、単行本などはいま掃いて捨てるほどある。
 医療の世界を目指す学生たちも、自分の親が開業医で、跡を継ぐというケースを除くと、将来の自分の人生設計を基準に専門分野を選ぶ。一時、歯科医は「儲かるし、国家試験も楽だ」といった時代があり、いまは歯科乱立になってしまった。乱立しても、お客さん(患者)が減らなければ問題ないのだが、最大の顧客層だった幼児が減少し、高齢者も歯磨きの進歩などで歯医者にかからなくなった。今は、親が歯科医の子供でも歯科医になりたがらないという。
 はっきり言って医療もビジネスである。だから医者がビジネスを目的とした医療行為を行うことを私は否定しない。その代わり医療は、ビジネス社会に求められるモラルの最高水準を満たす必要がある。患者は食品や衣服を買うのとは違って、医療の方法を自分で選ぶことができない。つまり医療過誤が生じた場合の自己責任は、患者側には一切問われないのである。これはアメリカでも同じで、だからアメリカの医療機関は患者から訴えられた場合に備えて莫大な保険をかけている。
 今月、東京女子医大病院で、2歳の男児に人工呼吸中に投与してはならないプロポフォールを麻酔科医が過剰に投与し、男児が急死した事件があった。その医療過誤をあえて公表したのは同大の医学部長だった。本来医療過誤を隠すべき立場にある医療部門の最高責任者だ。その行為をメディアは「勇気ある行為」とほめたたえたが、私は非難するわけではないが、医学部長が医療過誤を公表したのは権力闘争の表れとみている。それほど純粋な医者だったら、権威ある医大で医療部門のトップになれるわけがないからだ。 
 ただ、この内部告発の意味は大きい。力によって内部の不祥事を闇に葬ろうとした場合、権力を失いかねないということを医療の世界に明らかにしたことだ。東京女子医大の理事長は、引責辞任を免れない。もし免れるとしたら、何らかの方法で医学部長を懐柔するしかない。が、医学界にこれだけ大きなショックを与えた事件を、うやむやにしたら、医学部長は理事長ともども社会的信頼を永遠に失うことになる。そのくらいのことは医学部長も心得ているとは思うが…。
 いずれにしても、混合医療の解禁は医療を患者の手に取り戻す大きな機会にはなるだろう。と同時に、日本の医療機器産業、医薬品産業にとっては大きなチャンスでもある。医療分野は日本にとって今後成長が期待される産業でもある。だが、医療産業界は国民皆保険制の壁に阻まれ、健康保険の対象として認可が取れる可能性が大きい分野にしか研究開発に力を注いでこなかった。だが、混合医療の解禁によって新しい市場が生まれるということになると、この分野での研究開発が活発になると考えられる。またアメリカ型の医療保険ビジネスも日本で定着するかもしれない。
 ただ、自由診療が原則だったアメリカは、医療過誤や医薬品などの不正研究に対しては非常に厳しい。医薬品大手のノバルティスファーマ社と大学医学部がつるんだ不正な臨床研究は、アメリカだったら間違いなくノベルティファーマ社は潰されているし、大学の研究者も医学界から永久追放されている。混合医療の解禁については、厚労省は医療界や医療関係産業界に対してもそのくらいの厳しい姿勢で臨む必要がある。
 


なぜ「集団的自衛権」の誤解釈が定着したのか?…岸元総理は日米安保の意味を正しく理解していたのに…。

2014-06-10 09:27:52 | Weblog
 今日から与党で集団的自衛権についての本格的議論が始まることになった。自民は何が何でも来週中に閣議決定に持ち込みたいようだ。アメリカが「別に年内にこだわっていないよ」と言っているのに、年内の日米ガイドラインの見直しに、自民は間に合わせたいようだ。
 私には不思議でならない。私のブログはメディアや政界の人たちからかなり読まれているのに、なぜ「集団的自衛権」についての解釈を間違えたまま議論を続けているのか。ブログだけではなく、メディアや政党に電話をして説明すると、ほぼ全員が私の主張に納得してくれるのに、それがメディアや政党の主張に反映されない。局外者の私に「誤解」を指摘され、「はい、そうでした」と主張を改めるのが沽券にかかわるとでも思っているのだろうか。

 集団的自衛権についての政府の見解はこうだ。「自国が攻撃を受けていなくても、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」ということだ。
 国連憲章51条における集団的自衛権の原語(英語)はこうだ。
 right(権利) of collective(集団の) self‐defense(自己防衛)
 この邦訳がなぜ「他国の防衛の権利」になってしまうのか。そんな権利は日本国憲法9条の解釈をまつまでもなく、国連憲章も認めていない。むしろ、軍事大国(列強)が、他国間の紛争に乗じ「自国の権益が侵される」と勝手に主張して軍事介入し、権益の拡大を図ってきた過去の反省に踏まえて、そういう勝手な行動を防ぐ目的でつくられたのが国連憲章である。
 アメリカをはじめ諸外国の政府がどういう解釈をしているのかわからないが、日本の政府がおかしな見解を示したためか、ウィキペディアも完全に矛盾した説明をしている。まず集団的自衛権については「他の国家が武力攻撃を受けた場合に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利」というのがウィキペディアの説明だ。この説明の根拠とされているのが筒井若水氏の『国際法辞典』(有斐閣、2002年刊)と山本草二氏の『国際法(新版)』(有斐閣、2003年刊)である。いずれも政府が集団的自衛権についての見解が発表された後の刊行物である。筒井氏も山本氏も国際法の権威のようだが、政府の説明をなぜうのみにしてしまったのか。国際法の専門家まで政府の説明をうのみにしてしまうから、誤解がいつの間にかメディアにも政界にも定着してしまったとしか考えられない。
 そのことは置いておいても、ウィキペディアはこうも書いている。「個別的自衛権(自国を防衛する権利)は国連憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については国連憲章成立以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない」と。(筒井氏前著)
 これは事実と違う。集団的自衛権が他国を防衛する権利だとしても、国連憲章成立以前に国際法上認められていた権利がある。「永世中立国」がそれで、国際会議で「永世中立」を宣言した国があり、それを承認した国は「永世中立宣言をした国が他国から侵害された場合、共同で防衛する義務」があった。が、実際には非武装中立国が第三国に侵害されたときに、中立国の防衛義務を果たした国はなかった。そのため永世中立を守るには、スイスのように国民皆武装で「自分の国は自分で守る」しかないという歴史的教訓に基づいて、国連憲章51条が制定されたという経緯を理解しておく必要がある。
 そのうえで国連憲章の大原則を改めて確認しておこう。
 まず憲章1条1項で、国連の目的が「国際の平和及び安全を維持すること」にあるとし、2条3項では「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と国際紛争解決の大原則(武力行使によらない平和的解決)を加盟国に義務付けている。
 にもかかわらず国際紛争が生じ、加盟国間の平和的手段による解決が困難になった場合を想定して第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」という章を設けた。その冒頭の39条で、国連安保理に対し41条及び42条による措置をとることを認めている。
 41条は「非軍事的措置」についての安保理が行使できる権能について記載しており、具体的には「経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部または一部の中断並びに外交関係の遮断を含む」あらゆる非軍事的制裁を行う権能を安保理に与えた。
 さらに42条の「軍事的措置」については「国際の平和及び安全の維持または回復に必要な空軍、海軍、または陸軍の行動をとることができる」としている。つまり、平和を乱した国に対して41条の発動によるあらゆる非軍事的制裁を科しても平和を回復できなかった場合には、やむを得ず安保理が軍事的制裁を行ってもいいよ、と強大な権能を与えたのである。
 しかし安保理15か国中、米英仏露中の常任理事国5か国には拒否権が付与されているため実際に安保理が41条及び42条によって付与された「あらゆる権能」を行使出来ないことも想定され、51条に国連加盟国に対して「自衛権」を認めることにしたという経緯がある。
 そのため51条で「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安保理が(41条及び42条による)国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」としたのである。
 つまり「個別的」であろうと「集団的」であろうと、自国に対する武力攻撃が行われた場合、安保理が必要な措置をとるまでの間、平和的手段によらず自衛のための軍事力を行使することを容認したのが51条であり、その「集団的自衛」権の行使の内容に、自国が攻撃されていないのに他国を防衛するための軍事行動を行う権利など、憲章を逆さに読んでも解釈できる余地はない。
 政府見解によれば、集団的自衛権は「他国を防衛する権利」だそうだが、それなら個別的自衛権とは何か。当然自国の軍隊(実力?)である自衛隊ということになるが、それでは日米安保条約によって日本が基地を提供し、その基地に駐留している米軍はどう位置付ければいいのか。基地の大半が沖縄に集中し
ているという実態は不問に付すとしても、名目上は日本に駐留している米軍は日本を防衛するためということになっているはずだ。つまり、有事の際に米軍は日本を防衛する義務をもっていることになっており、個別的自衛力である自衛隊だけでは日本を守ることができない場合(自衛隊は憲法の制約によって「専守防衛」の範囲でしか実力を行使できないことになっている)、米軍に日本防衛を要請できる権利を保持している。それが、安保法制懇が大好きな言葉の「文理解釈」であろう。それ以外の文理解釈はどう屁理屈をこねても不可能だ。
 また、これは朝日新聞8日付朝刊の長文解説記事『やさしい言葉で一緒に考える 集団的自衛権』を読んで初めて分かったことだが、安倍総理の祖父・岸総理が参院予算委員会(60年)で、「他国に基地を貸して、そして自国のそれと共同して自国を守るというようなことは、当然集団的自衛権として解釈されている点で、(※集団的自衛権は)日本として持っている」と答弁していたようだ。私は終始一貫して、日本は日米安全保障条約によって、日本有事の際には条約上の権利によっていつでもアメリカの軍事的支援を要請できるのだから、すでに集団的自衛権は保持しているし、いつでも行使できる状態にあると主張してきた。
 実際オバマ大統領が今春、日本を訪れた際、「尖閣諸島は安保条約5条の適用範囲にある」と明言したことで、もし中国が尖閣諸島を不法に軍事的支配下に置こうとした場合、米軍は自衛隊と共同で尖閣諸島を防衛してくれることが確約されたとしてきた。なお安保条約5条は「各締約国(=日米)は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」である。
 これが日本の保持している集団的自衛権でなかったとしたら、ではアメリカが日米安保条約に基づいて日本に対して負っている防衛義務は、どういう性質のものなのか。まさか「日本の個別的自衛権」などと安倍総理も主張はしないだろう。もし、そう主張するとしたら、日本防衛のために発動される米軍の軍事行動は、自衛隊の指揮系統下にあることになる。そんなことをアメリカが認めるわけがない。
 だが、岸首相の答弁の直後に内閣法制局長官が「それは個別的自衛権で説明できる」と事実上修正したらしい。そして81年には政府の公式見解として「集団的自衛権は持ってはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」とされた。その結果、集団的自衛権についての政府見解の論理的整合性が失われ、「有事の際、同盟国のアメリカに軍事的支援を要請できる権利」から「他国を守る権利」というおかしな解釈に変更されてしまったのである。
 実はその前年の59年12月に「個別的自衛権」を認めた最高裁の砂川判決が出ていた。この砂川判決で、最高裁は個別的自衛権を認めたうえで、「(憲法9条が)禁止する戦力とは日本国が主権国として指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力に当たらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法および前文の趣旨に反しない」という判断を下していた。が、駐留米軍の存在については「高度な政治性を持つ条約」に基づいており、「違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」とした。はっきり言えば、冷戦下において日本が自衛隊の戦力だけで日本の安全を守ることは不可能と理解していながら、駐留米軍に対する法的解釈を避けたのである。そういう背景があって、内閣法制局が総理の国会答弁を否定するという、異例中の異例とも言える事態が生じたのではないだろうか。なお、これは私の論理的解釈であり、朝日新聞は砂川判決との関連については一切触れていない。

 しかし、それにしてもおかしいのはメディアも政治家も、この政府見解に疑問をまったく抱かず今日まで来たということだ。疑問を持てば、諸外国、とりわけアメリカやEU諸国、ロシア、中国、韓国など日本と関係が深い国連加盟国が「集団的自衛権」についてどういう解釈をしているか、各国政府に取材すれば、すぐに分かるはずだ。少なくとも日本政府の見解が国際的に共通した認識であれば、NATOやワルシャワ条約機構など必要としなかったはずだ。また日米安保条約も不必要ということになる。
 実際、政府で行われている自公両党による会議は、もはや「集団的自衛権」の行使云々とは大きくかけ離れてしまっているのが実態だ。たとえば自民が公明を説得して閣議決定に持ち込むために、どんどん「行使の範囲」を狭めている。後方支援に至っては、戦闘地域外でかつ武器・弾薬類を除く、とまで譲歩している。それでいて文言はあくまで「集団的自衛権」にこだわり続けている。なぜ「戦闘地域外での武器・弾薬類を除いた後方支援」が「他国を守る権利」に該当するのか、そうした疑問を呈しもしないメディアや政治家には、ただ呆れるしかない。
 ただ私は、日本が国際社会に占めている現在の地位や責任から考えても、アジアを含む環太平洋の平和と安全に対して相応の貢献はすべきだと考えている。はっきり言えば、東南アジア・太平洋諸国間の集団的安全保障体制を構築するための方向性を、日本は明確に打ち出すべきだと考えている。ただし、そのためには憲法を改正する必要がある。それが日本の安全をより確実なものにし、またこの地域での戦争を永遠になくす唯一の方法だと思うからだ。
 憲法9条を改正すれば、日本がまた戦争を始めると考える人たちがいる。そういう危惧を護憲主義者たちに抱かせてしまったのは、クーデターによらずして軍事独裁政権の成立がなぜ日本では可能になったのかの、真の検証をメディアが避けているからだ。メディアがメディア本来の在り方を取り戻せば、国民はメディアの報道を信用するようになる。
 

オバマ大統領がウクライナ問題で、つんぼ桟敷に追いやられた。安倍総理はどうする?

2014-06-09 07:28:55 | Weblog
 米オバマ大統領が、ピンチに陥っているように見える。今年秋(11月4日)の中間選挙を控えてオバマ大統領への支持率が急速に低下していることが明らかになった。中間選挙での民主党が劣勢に立たされているからだ。
 すでに2010年の中間選挙では、下院での多数派を共和党に奪われている。かろうじて上院は民主党が多数を占めているが、そのためねじれ現象による「決められない政治」が問題になっている。日本における民主党政権後半と同じような状態になっているのだ。
 アメリカの議会は上院と下院の二つに分かれている。日本の衆議院と参議院のような優位性はどちらにも与えられていない。また上院も下院も日本の参議院と同じで解散制度はない。上院の議員任期は6年で各州2人ずつが選出され(計100人)、3分の1が2年ごとに改選される。つまり上院は2年ごとに33,33,34人が改選される。一方下院は各州の人口に比例して割り当てられ、総数は435人。その全員が中間選挙で改選される。上下両院とも中間選挙は大統領選の中間(偶数年)の11月に行われることになっている。ということは上院議員の3分の1は大統領選挙と同時に改選されることを意味する。
 アメリカでは伝統的に大統領が所属する政党が中間選挙では不利になっている。大統領の施政に対する厳しい批判が集中するためと考えられている。近年で例外だったのは9.11テロ事件翌年の2002年の中間選挙で、第1次ブッシュ大統領が所属する共和党が上下両院で議席数を伸ばしたケースがあげられるくらいだ。その勢いで2004年の大統領選挙もブッシュが再選されたが、その反動で2006年の中間選挙では上下両院で民主党が多数を占め、大統領でありながらブッシュは政治の主導権を握れなかった。
 中間選挙が伝統的にそういう性質を持っているため、大統領の2期目には上下両院がねじれ現象を生じることが少なくなく、「決められない政治」の原因とも言われている。現在上院は民主党がまだ多数を占めているが、下院は共和党が多数を占めており、今年の中間選挙でも民主党の不利が世論調査の結果でもあらわれている。実際オバマ大統領の不人気はアメリカでは相当なもののようで、民主党の立候補者はだれもオバマ大統領に応援演説を依頼しないという。オバマ大統領も演説会で「私の娘も学校の行事に、私ではなくヒラリー・クリントンを招いたくらいだ」と話し、会場の大爆笑を呼んだほどだ。韓国の朴大統領は涙で国民の支持をかろうじてつなぎとめたが、オバマ大統領はジョークで支持率の下落に歯止めをかけようとしているのだろうか。
 オバマ大統領は、外交でもアメリカの威信を大きく傷つけてしまった。日本のメディアは、まだ気づいていないようだが…。
 すでにアメリカの国際的影響力は相当低下していた。オバマ大統領がアメリ
カの威信を回復、国際政治に対する影響力を発揮する絶好の材料と考えて飛びついたのがウクライナ紛争への介入だった。が、そもそもウクライナ紛争は、アメリカにとっては国益を左右するような問題ではない。日本にとっても、はっきり言ってどうでもいいことだ。が、EU諸国にとってはウクライナの情勢は看過できない重要事だった。
 それは日本が抱えている韓国や北朝鮮、中国との軋轢は、EU諸国にとってはどうでもいい話で、今回のG7でも安倍総理は必死に拉致問題を訴え、いちおう参加国も日本に同調する姿勢を示したが、そんなのは儀礼的なものにすぎない。もっとはっきり言えば、北朝鮮の核に敏感なのはアメリカ、韓国、日本、中国くらいのもので、EUは「われ関せず」である。政治力学というものを日本のメディアはまったく理解していない。安倍総理が拉致問題をG7で一生懸命訴えている姿は感動的だが、EUは「そうかい、そうかい」と子供の頭をなでる程度のスタンスだし、肝心の北朝鮮もEUが拉致問題や核問題に介入してくるとは毛ほども考えていない。
 オバマ大統領は、ウクライナ紛争でEUがロシアと対決する姿勢をとりだしたことに乗じて、アメリカの威信を取り戻そうとした。EU以上に強固な姿勢でロシアに対する制裁を始めたのも、この機会にアメリカの威信を回復して中間選挙での不利な状況を一変させたかったのだろう。が、オバマ大統領が勝手に2階に飛び上がって、ふと気づいたら降りる梯子がなかった。ひょっとしたら梯子は最初はあったのに、EUが外してしまったのかもしれない。いずれにせよ、オバマ大統領の面目は丸つぶれになった。そのことに日本のメディアは気づいていない。
 そのことがはっきりしたのは、ノルマンディー作戦70年を記念する式典である。EUの主要国がアメリカを2階に上げたまま、勝手にロシアとの融和の道を探りだしたのだ。ドイツのメルケル首相が取り持つ形でウクライナの新大統領選で当選したポロシェンコ氏とプーチン大統領が会談、二人は握手も交わした。さらにフランス大統領府関係者は、ウクライナ東部の停戦に向けたロシアとウクライナ次期政権の対話が近日中に始まるとの見方を欧州メディアに示したという。
 プーチン大統領が式典に参加するためパリに到着したのは現地時間5日の夕方。G7終了直後だったという。プーチン大統領は英キャメロン首相、仏オランド大統領と相次いで会談、翌日には独メルケル首相とも会談している。EU側は、おそらくクリミア自治共和国のロシア編入を承認する代わりに、ウクライナ東部の「親ロシア派」への軍事支援の停止(支援はしていないかもしれないが)と、ウクライナへの政治介入をやめるよう求めたと思われる。
 7日のNHKはニュース7でポロシェンコ大統領の就任式を伝えると同時に新大統領が「できるだけ早くEU加盟の前提となる経済協定に署名したい」と述べたこと、また東部の「親ロシア派」との暫定政権側との武力衝突については「戦争や復讐はしたくない。平和を望む」と強調、近く現地を訪れ武装集団以外の代表と話し合い、融和を図っていきたいとの意向を示したと伝えた。さらにクリミアについては「クリミアはこれまでもこれからもウクライナの領土だ。ロシアには返還を求めていく」と述べたという。
 これに対してプーチン大統領は「ウクライナ東部の流血の事態を速やかに停止したいとするポロシェンコ大統領の考えを支持しないわけにはいかない」としたうえで「交渉の当事者はロシアとウクライナではなく、ウクライナ中央政府と東部の代表であるべきだ」とロシアの介入を否定、さらにウクライナのEU加盟については「自国の経済と市場を守るための措置をとる必要がある」と、新政権をけん制した。
 EUの主要3国の首脳がプーチン大統領とウクライナ問題について話し合い、プーチン大統領がポロシェンコ新大統領とウクライナ問題の平和的解決について、まだ温度差は残しながらも融和の方向で合意したとみられること(ポロシェンコ大統領の就任式にロシアのウクライナ大使が出席したことは、プーチン大統領が新政権を正式に承認したことを意味する)から、もはやアメリカの出る幕はなくなったといってもいい。
 実際式典の際オバマ大統領はプーチン大統領と15分も会談した。ホワイトハウスの高官によればオバマ大統領はプーチン大統領に対し「事態を鎮静化するためロシアが新政権を認め、東部の武装集団への支援をやめなければいけない。そうでなければロシアは孤立を深めるだけだ」と言ったらしい。もともとオバマ大統領がウクライナ問題に口を出すようになったのは、クリミア自治共和国が住民投票を行おうとした時点であり、クリミアの分離独立とロシアへの編入は認められないというEUの側に立つことを明らかにするためだった。
 が、肝心のEUがロシアとの決定的な対立を避け、現実的な解決に方向を転じたこと自体、オバマ大統領の顔を完全につぶしたといっていい行為だ。だからEU首脳もオバマ大統領も、プーチン大統領に対して、クリミアをウクライナに返還しろといった要求は事実上取り下げてしまった。ポロシェンコ大統領の「ロシアにクリミアの変換を要求する」という発言も、プーチン大統領の「ウクライナがEUに加盟したら何らかの措置をとる」といった発言も、国内向けの一種のプロパガンダといってよいだろう。
 安倍総理はオバマ大統領の恫喝に屈して一定のロシア制裁に踏み切ったが、もはや制裁を続けるのは茶番劇でしかない。早々にロシアへの制裁をやめることをプーチン大統領に伝え、北方領土問題やロシアの北方資源開発と日本への
輸送方法についての技術協力の話し合いを開始することだ。
 だいたい、アメリカの同盟国はアジアでは日本だけでなく韓国やフィリピンなどもある。なぜ日本だけにロシアへの制裁に協力するよう要求してきたのか、よく考えれば日米関係がどういう関係かが分かるというものだ。オバマ大統領にとっては、日本ほどアメリカの言いなりになってくれる国はないからである。現にフィリピンなどは一時駐留米軍基地を撤廃したくらいだ。今は中国の海洋進出に備えて再び米軍の駐留を要請する形になってはいるが、主権国家としての自尊心を持った国の防衛姿勢はそうでなければならない。
 日米安保条約はあるが、有事の際米軍が日本防衛のために出動するためにはアメリカ議会の承認を得ることが条件として条約に記載されている。原発の安全確率と同じで、米軍の日本防衛出動も確率の範囲でしかない。現にオバマ大統領が「尖閣諸島は安保条約の適用範囲だ」とリップサービスしてくれても、「では、尖閣諸島防衛のため米軍を駐留してくれ」と頼んでも絶対OKしない。
 中国の海洋進出にしても、アメリカの国際的地位や軍事的影響力の相対的低下を見越しての行為だ。ベトナムは現在、アメリカの同盟国ではないにしても、米海軍が中国の勝手なふるまいを実力で阻止する態度に出れば、ベトナムをアメリカの勢力圏に入れることができるはずなのだが、その絶好の機会すら指をくわえて眺めているだけだ。そういう状況の中で、日本が環太平洋の平和と安全に果たすべき役割は何か。それは、いわゆる「集団的自衛権行使」を憲法解釈によって限定容認することではないはずだ。集団的自衛権問題については、これまでも何度も書いてきたが、明日もう一度整理して書く。


年金制度の崩壊を防ぐ方法は一つしかない。第3号被保険者を廃止して第1号被保険者に移行すれば解決する。

2014-06-06 09:20:15 | Weblog
 年金制度の再構築が重要な政治的課題に浮上した。本来なら、とっくに手を付けていなければならない問題だった。
 もちろん厚労省も手をこまねいていたわけではなかった。が、現在はとりあえず維持できている「現役世代の手取り収入の50%以上」としてきた年金支給水準が早晩維持できなくなることは目に見えている。
 年金財政は5年に一度、100年先まで見通して点検することになっている。前回の2009年検証は、根本的に破たんした。そのときの年金制度の設計図では、積立金の運用利回りを名目4.1%、賃金上昇率は名目2.5%とした。「楽観的すぎる」という批判が集中したが、たまたまアベノミクスによって運用益はクリアしたが、賃金は今年のベースアップを入れても予測に届かず、12年度の保険料収入は見込みより3兆円余り下回った。そもそも5年先の見通しすら危ういのに、100年先を見通した年金財政の検討を行うというのはばかげた話だ。
 パーキンソンの法則というのがある。イギリスの歴史・政治学者のシリル・ノースコート・パーキンソンが1958年に提唱した法則で、当時イギリス帝国が縮小傾向に入っていたにもかかわらず植民地省の職員数は増加に歯止めがかからない状況の観察から導き出した法則とされている。その状況分析から、パーキンソンは二つの法則を提唱した。
 第1法則:仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。
 第2法則:支出の額は、収入の額に達するまで膨張する。
 私はこの二つの法則に「第3の法則」を加えたい。ただし、「第3の法則」は日本特有のものかもしれない。世界中に共通する普遍的法則であることの検証はしていないからだ。ただ、おそらく世界共通の法則だろうと思う。
 第3法則:支出額を維持するため、財政が破たんするまで国は借金(赤字国債の発行)を続ける。
 メディアが調べようとしないのか、国や自治体が「特定秘密」として公表を拒んでいるのかわからないが、公務員(国家公務員および各自治体の地方公務員)の総数と税金を納めている現役世代の総数(国民及び各自治体の住民)の年度別比率が分かれば、第3法則は証明できる。少なくとも、EUの金融危機の原因となったギリシャの国家財政の破たんは、第3法則が現実化したケースといえよう。パーキンソンの時代には、国の税収が減少するということは、多分考えられなかったのだろうと思う。この法則に基づいて年金問題を考えてみたい。
 少子高齢化現象は、はっきり言えば税金を納めている現役世代の減少を意味する。だから年金制度も崩壊の危機に瀕しているのだ。
 少なくとも現役世代の減少に比例して公務員数を減少すれば、年金問題はかなり改善されるはずだ。そもそも公務員の仕事はかなりの部分がIT化されていて、現役世代が減少しなくても合理化できるはずだ。現に競争社会で存続をかけて闘っている民間企業は、IT化の推進によって合理化努力を続けている。日本産業界の収益改善の原因は、単に金融緩和による円安効果だけではない。
 財政の基本は、はるか大昔から「入(い)るを量(はか)りて出(い)だすを為(な)す」である。わかりやすく言えば、国家財政は税収に見合った歳出に納めるのが予算でなければならない。家計にしてもそうだが、給料などの収入に見合った支出に納めなければ、ほかの収入手段を求めざるをえなくなり、サラ金からの借金に頼ったり賭け事などに手を出したりすることになる。そういう形で急場をとりあえず凌ぐと、麻薬のようなもので、そういう状態が常態化し、いずれは生活破たんに追い込まれる。
 かつてバブル時代にも銀行はカードローンを発行していた。ただしサラ金の受け皿として現在の銀行が行っているカードローンとは違う。不動産を担保に貸出限度額を設定、その範囲内での借入れ・返済自由という制度で、高騰を続けていた不動産評価額に見合って貸出枠もどんどん広がっていった。金利も「確実な担保」があったため、住宅ローン+0.5%程度の低金利だったと思う。当然バブルの崩壊によって不動産の評価額が急落すると「返せ、返せ」と迫った。その督促は、サラ金まがいの状態だったようだ。
 サラ金が後に「グレーゾーン」といわれる高金利を設定したのにはそれなりの理由がある。無担保でリスクの高い相手に貸し出すのだから、貸し倒れリスクを金利に反映しないと経営が成り立たない。「グレーゾーン金利」が社会問題になりだしたのは、バブル崩壊以降貸し倒れが続出し、暴力団まで使って返済を要求するようになったのがきっかけである。根っこには、バブル景気の崩壊で貸倒率が想定していたより高くなり、経営が成り立たなくなったことにある。
 いま銀行(あるいは銀行の傘下に入って生き残ったサラ金)のカードローンの金利は3%台から上限の18%までと幅広く設定されている。「無担保低金利」を表面上はうたっているが、審査は相当に厳しく3%台の低金利で借りることができる人は事実上ほとんどいないのではないか。
 国が税収以上の予算を組むようになったのは高度経済成長期に入った1965年度である。この年の補正予算で赤字国債の発行を認める1年限りの特例公債法が制定され、戦後初めて赤字国債が発行された。その後10年間は赤字国債は発行されなかったが、75年度から89年度まで特例法による赤字国債を発行し、90年度から93年度までいったん発行額ゼロになったが、94年度以降再び発行されている。
 実は財政法4条で、赤字国債の発行は禁止されている。同条は「国の歳出は、公債または借入金以外の歳入をもって、その財源としなければならない」と規定している。ただし、同条の但し書きで公共事業などのための建設国債の発行は認めている。
 個人でいえば、資産となる住宅ローンは、借り手が無理のない範囲で組んでも、何らかの特別な事情が生じない限り破たんすることはない、という前提で銀行も低金利の貸し出しを行っている。また「特別な事情」として借り手(基本的には世帯主)の死亡による返済免除のために、ローン金利の中に団体生命保険料が組み込まれている。通常、売り手側(デベロッパー)が住宅ローンを組む金融機関を紹介する場合は、債務保証会社との契約が条件になる。が、国が発行する赤字国債の債務不履行を保証してくれる会社などない。極めて無責任な借金といってよい。
 国民の金融資産が国の借金より多いことで日本の財政破たんはない、などと考えている頭の悪い人がいるようだが、とんでもない錯覚である。国と国民の関係を親子の関係で考えてみれば、すぐ分かる。子供が裕福な親の資産を当てにして借金しても、親が何とかしてくれることはあっても、その逆はありえない。子供は親の介護をする義務はあるが、親の借金の肩代わりをするようなことはまず考えられない。
 同様に、国の借金を国民が肩代わりするようなことは絶対にない。国が財政破たんしそうになったら国民は自分の個人金融資産を海外に逃避させる。金融資産以外の資産(不動産などの固定資産)もすぐに売り払い、金融資産に変えて海外に逃避させる。貴金属類は銀行の貸金庫から引き上げて自分で管理する方法を考える。
 ギリシャの例がそのことを物語っている。ギリシャの国家財政が破綻に瀕したとき、富裕層は自分の個人金融資産をさっさと海外に逃避させた。国を救おうなどと考える富裕層は一人もいなかった。ギリシャの場合はEUが厳しい条件を付けながらも救済に乗り出したが、それはギリシャが財政破たんするとEUへの飛び火が避けられないからであった。実際、EUがギリシャの救済に乗り出したため、ユーロの価値が下落して一時EUの金融危機が国際問題になった。経済不況下にあったにもかかわらず、円高が続いたのは、ユーロから逃げ出した国際投機マネー(ヘッジファンド)が比較的リスクが少ないとみられていた円買いに回ったからである(言っておくが「円高」は国際基軸通貨であるドルとの交換比率で表示されるが、このときは「ユーロ売り円買い」によって相対的にドルに対する円の交換比率も上がったことによる)。その結果、さらに日本産業界がダメージを受けたのが、いわゆる「円高不況」である。安倍総理は、なぜ日本が円高不況に苦しんだのかがまったく分かっていない。
 ちょっと横道にそれたが、年金問題の解決も同様に論理的視点で考える必要
がある。もともとは厚生年金は従業員5人以上の企業が加入を義務付けられていた制度である。今は従業員数に限らず加入が義務付けられている。国民年金は自営業者や農林水産業従事者を対象にした制度として発足した。少なくとも収入のある人たちが加入の前提だった。が、1991年4月から無収入の学生でも、満20歳になった時点で加入が義務付けられるようになった。そうしないと、将来年金制度が崩壊しかねないと考えたからである。国民年金の加入者を第1号被保険者という。
 そのことはいい。私もそうだったが、子供が学生だった間は親が20歳になった子供の年金を支払ってきた。問題は、第3号被保険者に手を付けなかったことである。第3号被保険者とは、厚生年金や共済年金に加入している人(第2号被保険者)の配偶者(20歳以上60歳未満)で、年収が130万円未満の人である。第3号被保険者の保険料は、配偶者が加入している厚生年金や共済年金が一括して負担しているためと説明されている。これが「130万円の壁」とされている問題である。つまり収入が130万円以上になると第3号被保険者の資格を失い、第1号または第2号の被保険者に移行しなくてはならなくなるからだ。
 が、おかしいのは、では第3号被保険者の配偶者を勤務先に届け出た時点で第2号被保険者の保険料は配偶者の分まで負担するようになっているかというと、そうではない。保険料負担は独身時代と変わらないのである。厚生年金や共済年金が破綻するのは、無収入の学生にも第1号被保険者に強制加入させた時点で想定できたはずだ。
 いま厚労省は「130万円の壁」を崩そうとしている。壁をもっと低くしようと考えているようだ。そうなると企業が加入している厚生年金への加入義務の年収基準が下げられるため、経営者側は猛反発している。厚生年金の保険料は企業と従業員が半分ずつ負担しているからだ。つまり企業にとってはパートを長期間連続して雇用できなくなることを意味する。またパートの配偶者も年収の壁が低くなることで、働き方を変えなければならなくなる可能性も指摘されている。
 こうした制度矛盾は、いたるところで生じており、いわゆる縦割り行政によると言われている。年金制度での第3号被保険者制度と所得税法における配偶者控除がちぐはぐなのもその一つである。
 税制と年金制度の整合化を図ることが重要だが、とりあえず年金制度の改革については第3号被保険者を廃止すれば問題はかなり解決できる。つまり結婚して配偶者が仕事をやめた時点で無収入の学生と同様の第1号被保険者にすれば、自動的に国民年金に加入することになり130万円の壁も消滅する。パートは非正規社員であり、言うなら個人事業者である。いくら稼ごうと、収入に関係なく国民年金に加入するようにすれば、すべての年金制度の破たんを防ぐこ
とができる。それ以外に年金問題の解決方法はない。
 また第3号被保険者を廃止すれば、所得税法の配偶者控除との非整合性も解消するし、通勤費についての扱いの非整合性(通勤費は所得税法では年収から控除されているが、第3号被保険者の年収制限には含まれている)も解消する。5月21日から3回連続で投稿したブログ『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか』でも書いたが、今年の春、大企業で復活したベースアップは労働基準法に違反している。厚労省のキャリア官僚はそのことに気づいていないのか、分かっていても黙っているのか。ベースアップの労基法違反について何人かの経営者に聞いてみたが、みんな分かっていた。厚労省のキャリア官僚が分かっていないはずはない。ただ、民間企業の給与体系に特殊に存在する基本給という名目の基準外賃金は、たぶん公務員の給与体系には存在しないのだろう。だから「自分さえよければいい」で、民間企業の労基法違反に目をつぶっているとしか考えられない。
 

小保方晴子のSTAP細胞研究は科学史上、空前の虚偽だったことがほぼ確実になった。

2014-06-05 06:47:01 | Weblog
 これは、もう犯罪と言うしかないのではないか。4日、理研の研究ユニットリーダーの小保方晴子が、科学誌『ネイチャー』に掲載した二本目の主論文の撤回にも同意したという。今回のブログでは小保方だけでなく、最初に論文の疑惑を告発した若山氏(山梨大教授)を除くすべての共犯者に対しては敬称を付けない。
 『ネイチャー』に掲載された論文は二本あった。二本あったことさえ、小保方が副論文の撤回に同意するまで明らかにされていなかった。理研の組織ぐるみの犯罪行為と言っていい。
 論文はSTAP細胞の作製方法などを示した主論文と、STAP細胞から作られた幹細胞の性質(STAP細胞の万能性についての記述)などを書いた副論文の二本構成になっていた。もともと小保方は4月9日に、入院中の病院から医師同行という条件であえて記者会見を開き、「論文を撤回すると、国際的にはSTAP現象は完全に間違いだと発表したことになる」と主張、さらに「STAP細胞はあります」「自分は200回以上STAP細胞の作製に成功している」「STAP細胞を作成するにはコツとレシピが必要だが、それは特許の関係で公表できない」「しかし検証実験への協力は惜しまない」と言い切った。
 また論文作成を指導した理研の副センター長で責任共著者の笹井芳樹は4月16日記者会見を開き、「自分は論文投稿直前の2か月間しかタッチしていないし、データの確認もしていない」と責任を回避しながら、「STAP細胞の存在を前提にしないと説明できない現象がある」と完全に自己矛盾した弁明を行った。
 その後、5月下旬、小保方は副論文については撤回に同意し、小保方の恩師でもあり論文の共著者でもあるハーバード大教授のチャールズ・バカンティも副論文の撤回には同意した。それまで頑として論文撤回に抵抗していた二人が、なぜ突然、撤回に同意したのかの説明もなされていない。説明はされていないが、私は5月22日に投稿した『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか。②』の冒頭でこう書いた。

 昨日の続きの本題に入る前に、書いておくべきことが生じた。昨日のNHKニュース7でSTAP細胞について新たな疑惑が判明したとの報道があった。(中略)そこまで論文の不正が行われていたとすると、いかに世界的権威のあるバカンティ教授の後ろ盾があったとしても、STAP細胞の存在についての疑惑がぬぐえない段階になった。(中略)私はSTAP論文の疑惑が表面化した時点で「突然変異だった可能性はある」と書いた。その時点では『ネイチャー』に投稿するほどの論文に名を連ねた研究者たちの顔ぶれから考えても、共著者のだれも「STAP細胞の作製過程を見ていなかった」などということは考え
られなかったからだ。さらにバカンティ教授が作製方法をWebで公開したこと
からも、再現困難なことは認めつつもSTAP細胞が存在する可能性は高いとみていた。(中略)事ここに至って、小保方氏に対する疑惑が私の中で急浮上したのは、NHKのニュースによって、これまで小保方氏が主張してきた「単純なミスで、悪意のある不正ではない」という主張が根底から覆ったと考えざるをえなくなったからである。小保方氏が、あくまで「STAP細胞は存在する」と主張するなら、「コツとレシピ」を公開するか、理研に対して「検証研究チームに私を参加させてくれ。研究チーム全員の目の前でSTAP細胞を作製して疑いを晴らす」と申し入れるしかない。また理研も「検証研究チームの目の前でSTAP細胞を作ってみろ」と、小保方氏に命じるべきだ。そうすれば、単純な論文の作成ミスだったのか、STAP細胞の存在そのものが絵空事だったのか、はっきりする。それ以外にSTAP騒動に決着をつける方法はない。

 実は私が理研の検証研究チームから、なぜ肝心の小保方を外すのか、という追求は、理研が検証研究を行うと発表した時点から一貫して行っていた。「肝心の小保方氏を外した研究など、最初から結果ありきとみられる」とまで書いた。もちろん上記のブログを投稿した時点(5月22日)では、論文に対する疑問が続発する以前のことである。その後、5月下旬に初めて論文が二つあり、その一つの撤回に小保方とバカンティが同意したというニュースが流れたときも、まったく意味が分からなかった。二つの論文の意味(主論文と副論文)が分かったのは昨日(4日)のニュースが流れたことによってである。
 実は2日の夜、ネットで配信された毎日新聞の署名入りの記事があった。とりあえず印刷しておいたので、いま目の前にあるが、どういうわけか約1時間後にはこのニュースが影も形もなくなっていた。そのニュースのタイトルは『<理研改革委>小保方氏も検証参加を 再調査、改めて要請』だった。配信時間は6月2日21時50分。記事の書き出しはこうだ。
「STAP細胞の論文問題で、外部有識者による改革委員会(岸輝夫委員長)は2日、理化学研究所の調査委員会が不正認定した2件以外の疑義について、再調査するよう理研に改めて要請した。理研が進めるSTAP細胞の有無を調べる検証実験に、小保方晴子・研究ユニットリーダーが関与すべきだとの見解を再発防止策に盛り込む方針も決めた」
 この速報の段階では毎日新聞もSTAP論文には二本あることしか記載していない。新聞記者は何を考えているのだろうか。念のためその件(くだり)を転載しておこう。
「STAP論文は2本あり、このうち1本で調査委は不正があったと認定。も
う1本についても画像やグラフに疑義が指摘されているが…」
 なおこの報道は事実であったことが、昨日のテレビ朝日の報道ステーションで確認された。毎日新聞のネット配信の時間から考えて、他の報道機関が確認に動いたとしても翌3日であろう。
 そして4日になり、小保方が主論文の撤回にも応じ、同意の文書にも署名し
たことを理研が発表した。またバカンティも撤回の意向を示しているという。
 このヒチコック映画さながらのどんでん返しは、いったい何を意味するのだろうか。純粋に論理的に考えれば結論は一つしかない。
 理研改革委による、STAP細胞の有無を調べる検証実験に小保方を参加させるべきだという要請を受け、理研が小保方に「検証実験への参加」を打診したのではないか。その打診を受けて、小保方もとうとう嘘をつきとおすことは不可能になったと諦めたのではないか。
 小保方が記者会見で強気だったのは、理研が検証実験から小保方を外すという決定をしていたため、言いたい放題デタラメを話してもバレないと思い込んでいたからではないか。
 刑事コロンボの推理ではないが、このどんでん返しの理由はそれしか考えられない。そうなると、小保方も笹井もバカンティも、若山氏を除くすべての論文共著者は世界中の科学者を手玉に取った科学史上まれにみる大犯罪の共犯者ということになる。
 言っておくが、理研は私的研究機関ではない。小保方の研究は税金を注ぎ込んで行われてきた。理研の調査活動も検証実験もすべて税金で賄われている。メディアは小保方の主論文撤回によって「STAP細胞研究が白紙に戻った」としているが、そんな生易しいことではない。
 私はいまでも「突然変異的にSTAP現象が生じた可能性」は否定していない。突然変異というのは、現時点では原因不明の変異という意味であり、ダーウィンの『種の起源』以来生物の進化の研究は今日では遺伝子レベルまで進んでいる。たとえ突然変異的に見える現象でも、その変異の原因を遺伝子レベルで解明できれば、突然変異の条件を人工的に作り出すことは可能になる。
 私も小保方が、初めから詐欺的研究をするつもりだったとは考えていない。が、偶発的に生じたSTAP現象を何とか正当化しようとして行った行為ではないかと思ってはいる。が、自分の功名心のために多くの人を騙し、税金をむさぼり使ってきた行為は、明確な意図のもとに行われたと解釈できる。彼らは国家権力(具体的には警察)によって徹底的に被疑者として取り調べられるべきであろう。そうでもしなければ、この問題の真実は永遠に明るみにでない。
 なお今朝の毎日新聞によれば、小保方の代理人の三木秀夫弁護士との電話で小保方は「論文撤回は本意ではなかった」と述べ、さらに「STAP細胞の検証研究に参加するには論文撤回に応じた方がいいと考えた」と言っているようだが、それが「真実の声」なら、なぜ論文撤回の前に三木弁護士に相談しなかったのか。それまで三木弁護士に頼りきりでいながら、最後の段階で三木氏を2階に上げてはしごを外すようなことをしておいて、誰がこの弁解を「真実の声」と受け止めるだろうか。子供でもそんなバカなことは考えない。

少子化対策と女性の活用という「二律背反」政策を、安倍内閣はどうやって実現するか。

2014-06-04 06:36:08 | Weblog
 政府が、将来の急激な人口減対策を講じるため、安倍総理を本部長とする総合戦略本部を設置する方針を固めたという。一方政府が推進する女性の活躍促進のための新たな成長戦略がまとまった。 
 日本の将来を考えると、非常に大切なことだ。
 私はしばしば安倍総理の方針に批判的なブログを投稿してきたが、そのエネルギッシュな活動には感動すら覚えていることも事実である。とくに海外を飛び回り、日本産業界の営業本部長として日本の技術力を売り込んでくれていることには感謝の念を惜しまない。
 1970年代以降、少子化は先進国に共通した現象でもある。一方医療技術の発達によって平均寿命が延び、21世紀に入って先進国は高齢化社会に入っていった。平均寿命が延びたため、人口は目立った減少を示していないが、いずれ人口減が社会問題として浮上するのは避けられない。
 アメリカだけが人口増を辛うじて維持しているようだが、公表されていないので詳細は不明だが、白人系人種以外の人口増によってプラスを維持しているのではないかと思われる。一般的に先進国では女性の社会進出の機会が増え、とくに若い女性の価値観が大きく変化しつつあることが少子化につながり、人口減少の時代に入ったのではないかと思う。男性が働いて家庭を支え、女性は家庭を守り子どもを育てる、といった伝統的な「男女の役割分担」の構造に対する女性の「反乱」といってもいいかもしれない。
 女性の社会進出の機会が増えて自立心が高まることは、長い目で見れば決して悪いことではない。ただ先進国の中でも、日本の人口減は突出している。あまりにも急激な変化に社会のいろいろな仕組みがついていけず、さまざまな分野でひずみが生じていることは見逃せない。
 日本では一人の女性が一生に産む子供の数に相当する合計特殊出生率は、2012年は1.41で、人口維持に必要な2.07を大幅に下回っている。このまま人口減少が進むと50年後には現在の人口の1億2730人より3割減の8670万人に落ち込むという。民間の有識者会議「日本創成会議・人口減少検討分科会」(座長・増田寛也元総務相)によれば、2040年には全国の1800市区町村の半分が消滅する可能性があるという。どんな社会になるか、想像もできない事態だ。
 日本の人口が減少局面に入ったのは2005年以降。が、それから約10年、政府はほとんど何の手も打ってこなかった。今、ようやく安倍内閣が少子化対策と女性の社会的活躍の機会増加という、考えようによっては二律背反の課題に正面から取り組もうとしている。この大きなテーマは別々の組織で対策を講じても矛盾を拡大するだけという危険性もはらんでいる。政府の有識者会議そのものを一本化して、少子化対策と女性の活用を両立できるシステムをこうじないと、政策に整合性が失われてしまう可能性がある。
 さらに、大都市と地方の格差の進行という問題もある。
 2040年には全国1800市区町村の半分が消滅するとの予測を発表した日本創成会議によれば、三大都市圏への人口の純流入数は2013年に約9万人に達したという。創成会議が注目したのは、出産に適した年齢層の20代、30代の女性の人口の減少である。2040人には896の市区町村でこの年代の女性が5割以上減り、このうち523の市区町村は人口が1万人未満になると予測する。仮に全国の女性の出産率が増加に転じても、これらの自治体の人口増には結びつかず、「消滅する恐れがある」としている。
 一方首都圏はどうかというと、地方からの人口流入が続くにもかかわらず、東京都23区では女性の人口は10.2~50.8%も減るという。住居費や生活費がかさむためと考えられる。都内の出生率は全国で最も低く、子育ての環境が厳しいからのようだ。創成会議は、2012年には1.41だった合計特殊出生率を、25年までに1.8に高めるための対策を講じることを政府に求めている。具体策として会議は、保育所付きのマンション整備によって子育て世代を応援するほか、企業ごとに社員の出生率を公表させて女性の就業と子育ての両立を提案している。それでも人口減が止まるわけではない。減少傾向にややブレーキをかける程度の効果しか期待できない。
 私は、安倍政権が発足した直後の2012年12月30日に投稿したブログ『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』でこう書いた。

 まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共事業による経済効果の2点である。(※これに「成長戦略」が加わってアベノミクスの三本の矢になる)
 金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。ではたとえば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかと言うと、そんなことはありえない。優良企業が銀行から金を借りなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業といっても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることができるからだ。(中略)
 とにかく市場に金が出回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子どもや孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然
内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も
一気に解消する。そうすればさらに内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間を解消できる。(中略)
 その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その考え方を変えなければならない。相続税の負担は相続人が支払うのは当然だが(相続者はすでに死亡しているから課税できない)、贈与税に関しては贈与人が贈与税を支払うだけでなく被相続人は収入として確定申告を義務付けることである。(中略)いずれにせよ、相続税を軽く贈与税を重くしてきたのはそれなりの時代背景があったと思うが、時代背景が変われば課税の在り方についての発想も転換する必要がある。税金に限らず専門家は従来の考え方からなかなか抜け出せないという致命的な欠陥をもっている。私たちはつねに従来の考え方(つまり常識)に疑問を持つ習性を身に付けるように心がけたいものだ。そうでないと日本はこの困難な状況を脱することができない。

 この主張の一部はすでに政策化されている。定年は65歳に延長されたし、相続税も非課税限度額が引き下げられた。孫への教育援助という限定つきだが孫一人に付き祖父母が1500万円までは非課税で贈与できるようにはなった。が、それがどれだけ経済の活性化にプラスになったかというと疑問がある。活性化されたのは学習塾の経営だけではないのか。それでは贈与による若者層の収入が増えて内需が拡大し、企業も定年65歳制にスムーズに移行できたわけではない。定年65歳制への移行によって若年労働力が企業側に買いたたかれる結果を生んだだけだ。
 ただ、このときの私の「贈与税を低く、相続税を高く」という提案は、経済活性化という視点だけだった。いま改めて考えると、少子化対策(つまり子育てと仕事の両立)や女性労働力の活用にもつながる手段ではないかと思う。安倍内閣は今月中に策定する新たな成長戦略に、女性労働力の活用を重点目標として盛り込むという。
 具体的には、公務員への女性職員の採用・登用に国が率先して取り組むこと、そのため全省庁の次官級による「女性活躍・仕事と家庭の調和推進協議会」を設置する。企業に対しても有価証券報告書に女性役員の比率の記載を義務付ける一方、女性登用に積極的な企業に対しては公共事業などの受注機会を増やすという。育児休暇中の代替要員の確保や復職の環境整備を行う企業への支援も充実する。さらに「小1の壁」(※幼児を保育園に預けていた就業していた母親が、子供が小学校に入学すると共稼ぎができなくなる状態のこと)とされる共
稼ぎ家庭の小学生を放課後に預かる「放課後子ども総合プラン」も策定、自治
体に制度化を求める。保育園に子供を預けることができずに働けない母親のため、育児経験のある主婦らを対象に保育士をサポートする出来る資格を創設する。――安倍内閣は、2020年にはあらゆる分野で指導的地位の3割以上を女性が占める社会を目指すとしている。
 そうした計画には私も大賛成だが、そうした社会の要請に女性が応えてもらわなければならない。責任ある地位に就くということは、自分の頭で考え、判断し、決断し、行動するという能力を女性自身が身に付けてもらうしかない。ただ肩書だけ与えても、上司の判断は無批判的に受け入れるといった姿勢を変える覚悟がないと、責任ある仕事はできない。それは社会の責任でもあるのだが、そうした自立精神の育成を学校教育や家庭教育で育てようとしてこなかったせいでもある。私が知っている限り、女性の多くは残念ながら論理的思考力に乏しいと言わざるを得ない。
 ある全国紙の読者窓口のスタッフのことだが、最近女性の登用が目立つ。ある時、電話して対応が何となく気になったので「貴女、どういう分野の記者だったの?」と聞いたら「私は記者出身ではありません」と言う。これは女性の登用というより、読者をバカにした配置としか思えない。また、あるとき「男性のスタッフとは話もできるのだが、女性は聞くだけだね」と皮肉を言ったら「配属されたとき、そう言われましたので」と率直な返事が返ってきた。人間録音機に高い給与を払える大新聞社の優雅な経営もうらやましいが、そういう仕事を押し付けられて「バカにするな」と反発しない女性社員にも問題がある。またそういう仕事のさせ方をしてきた企業で、女性社員が自立心を育てることは難しい。そういうことも含めて、「女性を活用する社会」より「女性の能力を育てられる社会」に変革していく仕組みづくりが大切なのではないかと思う。
 

毎日新聞が「現行憲法」に疑問を呈した。メディア界に激震が走る大事件だ。その意義と問題点を問う。

2014-06-03 07:04:36 | Weblog
 驚いた。何が驚いたと言って、これほど驚いたことはない。
 毎日新聞といえば、全国紙5紙の中で最も左寄りで、護憲派新聞と私は理解していた。おそらく大多数の人たちもそう思っていただろう。たまたま昨日、ネットで毎日新聞の記事を読んでいて、その記事の関連記事としてちょっと気になったタイトルの記事があったのでクリックして読んでみた。世の中がひっくり返るような内容だった。これが読売新聞や産経新聞の記事だったら、やっと憲法制定過程の論理的検証にたどり着いたかと思うにすぎなかったのだが、護憲派新聞と思っていた毎日新聞が、現行憲法を真っ向から否定するような検証記事を書いたのだ。その記事全文を私はプリンターで印刷したが、なんとA4判10枚ぎっしりという大論文である。
 記事は5月1日付朝刊。「日本の論点」シリーズでタイトルは『憲法を改正すべきか:【基礎知識】日本はなぜ憲法を改正できなかったのか』である。「憲法を改正すべきか」だけだったら護憲主義の論陣を張るのだろうと思うのだが、「日本はなぜ憲法を改正できなかったのか」に引っ掛かった。今回はあまり私の主張を交えず、毎日新聞の記事の部分的無断転載(あるいは要約)を中心にしたい、と今は思っているが…? 記事はこうだ。なお私の主張や解説は※をつけて書く。※の文章が長くなる可能性はある。

 なぜ日本国憲法は、改正されないのか。
 現憲法は、明治憲法73条の改正手続きに従って改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されている。(※石原慎太郎氏の「占領軍に押し付けられた憲法」論ではない)
 占領軍(連合国総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフに、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な社会制度を廃止すること、という三つの原則を貫くよう指示した。(※いわゆる「マッカーサーノート」を指していると思うが、要約がやや乱暴である。そのため憲法9条の政府原案を巡っての帝国議会での議論や「芦田修正」の過程の検証が誤解を生みかねない内容になっている)
 (マッカーサーの)意図が最も明確に表れているのが、憲法9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。
 ※これは事実と違う解釈がある。マッカーサーノートには確かに「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と明記されているが、実際に日本国憲法草案の作成に直接かかわったGHQ民政局のホイットニー局長がマッカーサーの指示に猛反対した。「自衛権をも取り上げるということは日本が将来独立を回復した場合に禍根を残すことになる」と主張して、マッカーサーの指示によって作成された憲法草案から上記一文を削除させた。が、過去の戦争が自衛を口実に行われたことが多いということにかんがみ、日本政府に自衛権の保持を明記しない戦争放棄の条文を作成させたというのが事実である。そのため帝国議会では不明な自衛権を巡って論争があった。現行憲法制定の過程については5月17,19日に投稿した『安倍法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。③、⑤』で詳述しているので読み直していただければ幸いである。
 また毎日新聞は同じ敗戦国のドイツが59回も憲法(厳密には基本法)を改正したり、アメリカやフランス、イタリアなどの憲法改正がたびたびおこなわれた事実を書いている。そして「なぜ日本は主権回復と同時に憲法を改正しなかったか」と言う見出しでこう検証している。この視点は私の「現行憲法無効論」とほぼ同じである。実際問題としては、現在現行憲法は有効に機能しており、私の「無効論」は、そういう論理的視点で憲法改正問題に取り組まないと、今日の日本が国際社会とりわけ環太平洋の平和と安全のために、現在の国際的地位にふさわしい義務と責任を果たせないという思いから、あえて採用した言葉である。揚げ足取りに使われると困るので…。

 1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し(※この単独講和という意味は、連合国vs枢軸国という図式から外れて日本が単独で講和したことを指す)、自由主義陣営に属することになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は主権を回復。このとき同時に結んだのが、米軍の駐留継続を認める日米安保条約である。自主憲法制定に機会があったとすれば、このときだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受け付けなかった。戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。
 ※この下線部分の歴史認識が私の「現行憲法無効論」の論理的原点でもある。確かに吉田内閣の経済政策である傾斜生産方式=鉄鋼産業と石炭産業を日本の基幹産業と位置付け、すべての経済政策をこの二大産業再建に集中したこと=により、日本産業界が朝鮮戦争特需にありつけ経済復興への足掛かりを築いたことは間違いないが、そのために主権国家としての憲法制定にソッポを向いたことが、今日の集団的自衛権問題を巡る大混乱を招いた遠因になったことも否めない事実である。

 (アメリカは)日本に講和条約締結を進める一方、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。再軍備について吉田は自著『世界と日本』の中で、次のように省みている。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい」
 このとき吉田が危惧したのは、のちに続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、独立国としての自立心を喪失することだった。
 ※この吉田首相の回顧録(?)を私は読んでいないが、吉田首相が、日本が主権国家として独立を回復した時点で再軍備を拒んだ理由は私が想像していた通りだったようだが、それならなぜ憲法改正の要件(憲法96条)だけでも将来改正できるように緩和だけでもしておかなかったのか、悔やまれてならない。憲法改正の発議には国会両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要である。どのみち、国会が憲法改正を発議しても、国民の過半数の賛成がなければ憲法は改正できないのだから。そのとき国民の過半数が「一国平和主義」を選択して、国際社会から孤立することになったとしても、それは国民自身が選んだ道である。まずは憲法を国民の手に取り戻すこと――それがすべてに最優先されるべきである。国民の選択に委ねずして内閣の判断で憲法の解釈が自由にできるということになると、日本は立憲主義の国とは言えない。
 毎日新聞は日本で憲法改正が困難になった要因の一つとしてこうも検証している。

 もう一つ、憲法改正に立ちはだかる大きな壁に、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊儀氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選び取った、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省と相まって、アカデミズムのメインストリームを形成していたのである。
 しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことには間違いなく、(最近は)憲法改正はすでにタブーではなくなっていた。
 世論調査でも、憲法改正に賛成する声が反対を上回るようになった。読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から賛成派が過半数を超えるようになった(2008年だけは反対派が僅差で上回り、直近の2014年の調査では賛成42%、反対41%とほぼ並ぶ結果となった。読売新聞2014年3月14日付)。(※世論の動向を、ライバルである読売新聞の世論調査によって裏付けるといったことも、異例中の異例である)          
 各新聞社をはじめ学者、民間団体からも独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察が行われ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明らかにされた。(※ここまで言い切ると、もはや毎日新聞は改憲派に転向したと判断してもいいだろう)
 
 毎日新聞が掲載した大論文。現行憲法制定過程の解釈に多少問題があるにせよ、現行憲法が抱えている問題点をここまで指摘した主張には素直に敬意を表したい。もちろんこの大論文が最後に述べたように、「憲法改正への道のりは、いぜん遠い」ことは間違いない。
 ただ、なぜ「遠い」のか。むしろ、なぜ「遠くなった」のか。その視点が欠落していたのは残念である。
 はっきり言えば、「憲法改正まで待っていられない」という安倍総理の憲法解釈変更の試みが、解釈変更によって何でもできるという警戒感を国民に与えていることは疑いを容れない。なぜ安倍総理は、吉田総理がサンフランシスコ講和条約締結によって独立を回復した時点で、主権国家としての憲法の制定に踏み切らなかったのかを、国民に対して謝罪とともにきちんと説明しないのか。
 最後に毎日新聞が紹介した護憲論の柱である東大・宮沢教授の「8月革命説」について一言。確かに日本政府がポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った、と言えなくはない。が、現行憲法は国民主権のもとで制定されたとは言い難い。現行憲法は、確かに最終的な手続きとして帝国議会で承認されたが、帝国議会での承認の前に枢密院で可決され天皇が裁可した時点で事実上成立していた。帝国議会での承認は戦中と同様儀式的なものにすぎない。
 また議会での可決で成立するのは、現国会においても一般の法律だけである。立法府の権限は憲法改正までは及ばない。現行憲法が帝国議会での承認を経て発議され、国民投票によって承認されたのであれば、宮沢氏が主張するように「国民自ら選びとった」とする説もあながち否定できないが、肝心の国民投票という手続きを経ていない。こういう屁理屈が「護憲論」の柱になっていたとは、私は露知らなかった。東大教授のレベルに低さもさることながら、こういう屁理屈に屈してきた憲法学者たちは論理的思考力がサルにも劣る、とはちょっと言い過ぎか…。