私は卒論の題材は世阿弥であるし、「複式夢幻能」の構造を現代劇に取り入れてきた、という自負はある。
しかし。
今回の新作はさらに駒を進めている。
強いて言えば、「複々々式夢幻能」としての、『藤原さんのドライブ』なのだ。
今回、「複式夢幻能」形式で言えば、旅してこの地に辿り着いた「ワキ」であり、それが近代劇以降では「シテ=主役」として成立するという二重の役柄を演じるのが、円城寺あやである。能では「後ジテ」は、亡霊なのだが、「亡霊かもしれない自分自身」を演じるという自意識が冒頭からラストまで一貫しているのがこの役である。野田秀樹氏主宰の夢の遊眠社時代から、「少年」という一種の「亡霊」でしかない中心軸を生きてきた円城寺あやが、より現在の大人としての自分自身に立ち向かう、未知の領域。演劇のスリリングさが、ここになくて、いったい、どこにあるのか。
そして、設定としては円城寺あやにしか見えない「前シテ」として登場し、その後、亡霊であるかもしれないことなど放棄して、「皆が望むなら私は居るのだ」と公言し実際そのように存在する「後ジテ」を演じる「藤原さん」の、猪熊恒和。私と彼が三十八年かけて築いてきたことが、この役に集約されている。私は、劇団であり、猪熊との関係であり、という、私たちの「芯」がなければ、演劇など続けてきていない。そんな話は、猪熊と、したりはしない。わかっているし、当たり前だからである。私たちは、そのように、ある。
批評家やジャーナリズムの皆さんに、もっと親切にいるべきなのかもしれないが、私たちは、舞台で、やっていることで、理解してほしい。
そしてこの劇は、「夢幻能」であることを越えて、「現在の劇」としか見えないように作られている。そこが、「形式を取り入れる」という形で作劇している方々とは、違うのだ。
そんなわけで、複々々式夢幻能としての『藤原さんのドライブ』である。百聞は一見にしかず。円城寺あやと猪熊恒和と一緒に芝居をしている現在の私の決死の境地は、わかる人にだけわかるであろう。
誤解を招いてもいいと思って言う。私たちは、私たちに必要なことを、演劇という形を通して行っているだけだ。何かのために、ではない。演劇は、そのものとして、ここにある。
私たちは、演劇人なのだ。
写真、円城寺あや、猪熊恒和。
撮影・姫田蘭。
http://rinkogun.com/Fujiwara_Drive.html
東京公演
【高 円 寺】 11月4日(金)〜13日(日) 座高円寺
http://rinkogun.com/Fujiwara_Drive.html
伊丹公演
【伊 丹】 11月18日(金)〜20日(日) AI・HALL
http://rinkogun.com/Fjiwara_itami_nagoya.html
長門公演
【長 門】 11月23日(水・祝) ルネッサながと
https://www.renaissa-nagato.jp/events/rinkougun
名古屋公演
【名 古 屋】 11月26日(土)・27日(日)愛知県芸術劇場
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岡山公演
【岡 山】 11月29日(火)岡山市市民文化ホール
http://rinkogun.com/Fjiwara_Okayama.html
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