Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

本日7/2(金)18時の回は、今村修さん(演劇評論家)とのアフタートークがあります

2021-07-02 | Weblog

本日7/2(金)18時の回は、今村修さん(演劇評論家)とのアフタートークがあります。

〈別役実メモリアル〉「別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました」、Aプログラム上演終了後です。

本公演の通し上演券、セット上演券、Aプログラム券、Bプログラム券のいずれかのチケットをお持ちの方、ご予約の方はご入場いただけます。

 

〈 今村修さんプロフィール 〉

1955年生まれ。元朝日新聞記者。1993~2010年、東京本社学芸部、大阪本社生活文化部などで、演劇取材、劇評を担当。「劇団☆新感線30年 サムライたちの軌跡」(AERAMOOK 2010)に「新感線☆物語」を執筆。

 

今村さんとは、今村さんの記者時代から考えると、けっこう長いおつきあいとなっています。これまで、幾度も励まされ、率直なご意見をいただいてきました。

そして、今村家の愛息・マクベくんのことを大好きな私が、毎年マクベくんのカレンダーをいただいたりしながら、一緒にその暮らしを見守ってきたような気持ちが、あります。今年六月七日にマクベ君が亡くなったのは、たいへん残念でした。あらためて、マクベさんのご冥福をお祈りします。

 

 

…………………………………………………………………………

 

〈別役実メモリアル〉「別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました」、上演中です。

6月25日(金)~7月11日(日)

下北沢ザ・スズナリ

『舞え舞えかたつむり』『眠っちゃいけない子守歌』『いかけしごむ』『この道はいつか来た道』、一挙、四本立て。

〈全4作品通し上演〉の日は四日しかありません。売り切れ必至ですので、〈全4作品通し上演〉をご希望のお客様は、早めにご予約ください。

他の日も、二時間程度の長いインターバルを挟んで、全四作品を御覧になれる日がほとんどです。観劇の合間には下北沢の街を散策していただき、一日で四作品を見ていただくことが出来ます。

四日間だけ、半数の二本だけを上演する日があります。スケジュールの問題で観劇のご都合が着かないときには、是非この日と別な回を組み合わせてみてください。

〈別役実メモリアル〉「別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました」は、四作品全てで一つの作品であると考えています。便宜上、二本ずつ分けて「Aプログラム」「Bプログラム」という表記もしていますが、くれぐれも、四作品全部を御覧いただきたく思います。

ご観劇料も、この規模の上演ではあまりない低価格でご用意しております。

 

http://rinkogun.com/Betsuyaku_Tanpen.html

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瓜生先生、ありがとうございました

2021-07-02 | Weblog

瓜生正美さんが亡くなったことを聞いて数日過ぎ、ようやく発表されたようなので、記します。

瓜生先生の様々な功績、歴史上のことは多くの方が語られるでしょう。

私は、三十歳になった頃に、流山児さんや岡安さんに誘われ日本演出者協会に入りました。生意気盛りで、協会の改革のための提言をいっぱいしました。一番わかりやすいのは、それまで劇団協議会に間借り(?)していた演出者協会を、自立独立した事務所を持つように、と、提言したことです。それを嬉しそうに聞いて、俺もその方がいいと思っていた、と、言ってくださった。新しい提案や、協会の改革については、本当にいつも応援してくださった。

1993年の暮れ、北京で行われた第一回中国小劇場演劇フェスティバルに、オブザーバー・参観団として演出者協会のメンバーが参加した。この協会は日中・日韓の交流が困難とされていたそれ以前の時代にも、継続して国境を越えた人的繋がりを保つ先輩たちが多かったのである。その中国行きが、実は私の初めての海外渡航でありました。翌1994年から、ウィーン芸術週間を皮切りに、あっという間に燐光群の海外ツアーが常態化するのだが、それまで私は三十を過ぎるまで、日本を出たことがなかったのである。

で、その中国旅行は、皆、個室でなく、相部屋であった。最年長の瓜生先生は七十歳、三十過ぎの私が最年少だった。で、一行は、最年長と最年少を持て余し、この両者を相部屋にしたのである。数日間、私と瓜生さんは楽しく交流を深めることになったし、私たちの部屋がメインの「飲み部屋」にもなったのであった。

当時瓜生先生は七十歳とは思えぬ健康と気魄で、毎朝二百回素振りをしているというのだった。

北京ではツアー事務局長のはずの流山児氏と西川信廣氏と私が「若い」グループに入れられ(両氏もまだ四十代半ばだったのだから)、確かに三人でつるんで遊んでいたが、いろいろまわりの顰蹙を買わずにすんだのは、瓜生先生の比護あってである。

帰国後もそうした関係性は維持され、与太話は尽きないが、演出者協会の新旧世代の混じった良さを身をもって体現していたのが、上の世代では瓜生先生だったのだ。

豪快な人であった。弟の瓜生良介さん(発見の会)から、兄である瓜生先生のことはいささかネガティヴに聞いていたのだが、新劇とアングラに別れた兄弟のドラマはさておき、私はもう、瓜生先生自身の実在のリアリズムに圧倒され、話の面白さに引きこまれるばかりだった。九州男児で、兵士として生きのこった過去、戦後は左翼に傾倒してからの様々なこと、離れて聞いていた過去についての伝聞の中ではもやもやしていたあれこれを、ああ、そういうことだったのか、と、理解できて、膝を打つことが多かった。

九州は博多で一緒に演劇大学の講師で行ったときだったか、朝飯を食っている食堂で、瓜生先生が一杯引っかけていた。「もう飲んでるんですか」と言うと、真顔の笑顔で「君は迎え酒を試したことがないのか」と、注ごうとされたので、慌てて辞退したこともあった。

瓜生先生に演出者協会の理事長になっていただいたとき、条件として出されたのが、「流山児くんと坂手くんが副理事長をすることだ」ということで、流山児氏と私は助さん・角さんコンビを仰せつかることになった。

流山児★事務所が、私がかつて巻上公一・大友良英両氏と組んで作った音楽劇『ピクニック・コンダクタ』を、『戦場のピクニック・コンダクタ』として、若松武史さん、美加里さんら主演でアジア楽劇としてリメイクしたとき、瓜生先生も俳優として出演された、そして、昔とった杵柄、といって、劇中、先頭をきって匍匐前進をされたのである。勿論、私のテキストには匍匐前進の指定はないのだが⋯⋯。

そして、ついに私は、瓜生先生の劇団・青年劇場に、書き下ろしをすることになる⋯⋯。

いや、話をするときりがない。本当に大切な大先輩だった。よくしていただいたことしか思い出せない。

 

この写真は、2017年の演出者協会の忘年会のときではないかと思う。

世代差を越えて、煽られ、励まされた。

瓜生先生、ありがとうございました。

いただいた厚情に恥じぬよう、残りの人生を生きたいと思います。この御時世、うまくいかないことばかりだとは思いますが⋯⋯。

こんな時刻ですが、あらためて、献杯させていただきます。

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