A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

レヴュー「鈴木理策:WHITE」

2009-07-06 20:36:45 | お知らせ
東京・ギャラリー小柳にて2009年5月28日―7月11日まで開催されている<鈴木理策:WHITE>展のレヴューをアートウェブマガジン「カロンズネット」にて書かせて頂きました。お時間ございましたら、お読みください。

 レヴュー→http://www.kalons.net/j/review/articles_808.html

なお現在、銀座地区では見応えがある展覧会が相次いでおります。
まだ、未見の方は画廊めぐりなどされてはどうでせう。

・ヘルシンキ・スクール写真展 風景とその内側
 2009年6月27日―8月9日
 資生堂ギャラリー
・高橋敬子 ―黒い紫―
 2009年6月29日―7月11日(土)
 ギャラリーなつか
 一見するとドローイングのように見えますが、下地を施した綿キャンバスにアクリルで描かれています。色と色の重なり、滲みやぼかしが流動的な揺らぎを作り出し、清浄な空間を作り出しています。
・名和晃平 L_B_S
 2009年6月19日―9月23日
 メゾンエルメス8階フォーラム
 SF映画的な造形感がクールでスタイリッシュな印象を与える名和晃平氏の作品ですが、作品というより「研究」成果と言えるほどアートサイエンティックです。とくに、お風呂が沸いているような、たこ焼きがプツプツできているような(?)作品は必見ですが、どうか触らないように・・。 
・袴田京太朗
 2009年6月29日―7月11日
 コバヤシ画廊
・祐成政徳展
 2009年6月29日―7月11日(土)
 ギャラリー現



未読日記288 「変形アレゴリー」

2009-07-06 20:20:46 | 書物
タイトル:日野田崇 変形アレゴリー
写真:福永一夫、加藤成文、北村光隆、ヤン・アルメレン
翻訳:スタンリー・N.アンダーソン、吉田真弓
デザイン:原田美佳子(ea)
印刷:株式会社グラフィック
発行:imura art gallery
発行日:2009年
内容:
京都・imura art galleryにて開催された<日野田崇展「変形アレゴリー」>(2009年5月16日―6月13日)の展覧会カタログ。

図版20点
「“2.5次元ドローイング”の怪」不動美里(金沢21世紀美術館学芸課長)
「The Mystery of 2.5-Dimensional Drawing」Misato Fudo(Chief Curator, 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa)
「繊細な磁器 日野田崇とフィギュリン:ヨーロッパ的見地から」パイビ・アールヌクビスト(キュレーター、ライター、陶芸家)
「Porcelain is Fragile : Takashi Hinoda and the figurine in a European perspective」Paivi Ernkvist(Curator, writer and ceramist)
作家略歴

頂いた日:2009年6月11日
頂いた場所:imura art gallery
ギャラリーの方より頂いたもの。ありがとうございます。
日野田崇はアニメや漫画から抜け出してきたかのような3次元キャラクターを制作しているように見える。だが、実物を見ると色合いが思ったより落ち着いた色彩なのと、その複雑で繊細な工芸テクニックによって思った以上にアニメ的イメージの軽さがない。むしろ、その繊細で壊れそうな造形が、割れ物としての「存在」として在るようで考えを新たにした。日野田氏の作品は写真によって、逆に損をしてしまう作品なのかもしれない。
また、イムラアートギャラリーが道路に面しているため、外光が入る展示室なのもより展示効果を高めていた。かつて見たINAX GALLERY 2よりずっとよく見えた。大阪市立東洋陶磁美術館では自然光によって陶磁器を見せる展示室があったが、その時の展示を思い出す。陶磁器が外光によって、ここまで見え方が変わるのかと思ったものだった。日野田氏の作品も外光によって、その存在が明るく照らされていた。

Recording Words 011

2009-07-05 17:54:13 | ことば
 自分自身に「私はなぜ働いているのか」と問うことがあります。すると、いろいろ考えた挙げ句、他者からのアテンションを求めているから、という答えが返ってきます。お金は必要ですし、地位や名誉はいらないと言ったら嘘ですが、やはり、他者からのアテンションが欲しいのです。それによって、社会の中にいる自分を再確認できるし、自分はこれでいいのだという安心感が得られる。そして、自信にもつながっているような気がします。
(姜尚中『悩む力』集英社新書、p.128)

「Attention」とは辞書によれば「1.注意、配慮、注目、世話 2.親切、心尽くし」という意味である。ここでは、自分が働いたことに対する応答、反応という意味でも解することができるだろう。会話はキャッチボールという例えがあるが、球を投げたら返すということだ。だが、現実は違う。自分が何かをしても、怒られるか止められるかされるならまだ反応がある方で、実際は無視されることがほとんどだ。現代は自分のことを最優先に考える人が中心だろうから、「自分を再確認」や「安心感」などそうそう得られるものではない。マイナス思考の私は、これからの時代、他者からのアテンションなどもうないと思ってしまうが、姜氏の言葉を模範として私は他者へのアテンションを怠らないようにしたいものである。

未読日記287 「Kind of Green」

2009-07-02 22:28:06 | 書物
タイトル:吉川民仁 Kind of Green ポストカードセット
制作:鎌倉画廊
制作年:2009年
内容:
鎌倉画廊にて2009年5月9日―6月27日に開催された<吉川民仁 Kind of Green>展に際し制作されたポストカードセット。8枚組。ケース入り。ケース内に作家略歴あり。

頂いた日:2009年6月7日
頂いた場所:鎌倉画廊
作家の方より頂いたもの。どうもありがとうございます。
現代美術ないし現代作家の作品がポストカードになることは珍しく、とてもいいアイデアだと評価したい。また、セットというのがうれしい。単品でもいいのだが、セットだとカタログ感があり、コレクション欲が満足させられる。どんな作家でもポストカードを作れるかというとそうでもないが、カタログまでは買わないがポストカードだったら欲しいとか(失礼!)、カタログ(作品?)は高くて手が出せないがポストカードなら買えるという時、ささやかな消費欲を満足させてくれる。まして、吉川民仁氏の作品でなら、ポストカードでも軽くなり過ぎず、紙や作品の体温まで伝わるようである。

未読日記286 「アジアのキュビスム」

2009-07-01 13:13:15 | 書物
タイトル:アジアのキュビスム 境界なき対話
編集担当:東京国立近代美術館:三輪健仁、鈴木勝雄、松本透
     国際交流基金:古市保子
編集補助:西野華子(国立新美術館)、帆足亜紀、石神森
編集協力:工作舎:米澤敬、田中健一朗
英文和訳:木下哲夫、山本仁志、西野華子、佐藤実、帆足亜紀、難波祐子、堀川理沙、崔敬華、飯田志保子、山本淳夫
和文英訳:小川紀久子
韓国語和訳:町田春子
翻訳補助:稲見和己(インドネシア語)、加藤剛(中国語)、森絵里咲(ヴェトナム語)、佐藤幸治(ヒンディー語)、吉岡憲彦(タイ語)
デザイン:松田行正+天野昌樹(マツダオフィス
編集:東京国立近代美術館、国際交流基金
印刷:文唱堂印刷株式会社
発行:東京国立近代美術館国際交流基金
発行日:2005年
内容:
ごあいさつ
謝辞
序論「アジアのキュビスム」建暫晢
Part 1
第1章「テーブルの上の実験」林道郎
第2章「キュビスムと近代性」アフマド・マシャディ
テーマ1「キュビスムと戦争」崔銀珠
第3章「身体」松本透
テーマ2「母と子」金仁恵
第4章「キュビスムと国土」後小路雅弘
テーマ3「宗教と神話」ジョイス・ファン
コラム1「「物語る」ための「フィールド」」三輪健仁
コラム2「国際都市 東京・上海・シャンティニケタン」建暫晢
コラム3「留学のかたち」林道郎
コラム4「外国人教師」後小路雅弘
コラム5「ピカソ―1940年代から50年代のアジア諸国における受容」金仁恵
Part 2
「キュビスム受容史(各国編)」
中国:李超
インド:ガヤトリ・デヴィ・シンハ
インドネシア:リスキー・A.ザエラニ
日本:大谷省吾
韓国:金英那
フィリピン:パトリック・D.フローレンス
シンガポール/マレーシア:アフマド・マシャディ
スリランカ:ジャガト・ウィーラシンハ
タイ:スティ・クナーウィッチャヤーノン
Part 3 「資料編」
作家略歴
用語解説
参考文献
出品リスト

添付資料:「アジアのキュビスム年譜」

頂いた日:2009年6月4日
頂いた場所:なびす画廊
画廊の方より頂いたもの。心よりありがとうございます。
 2005年8月9日(火)~10月2日(日)まで東京国立近代美術館において開催された<アジアのキュビスム 境界なき対話>展の展覧会カタログ。
 ほとんど人が入らなかった展覧会だったと記憶しているが、内容が悪いわけではない。これほどの規模でアジアのキュビスムが検証されたのは初めてであり、カタログの資料文献としての充実さは出色である。それは各国の執筆者、翻訳者のクレジットを見れば関わった人の多さに驚き、その労力には頭が下がるばかりである。
 4年前の展覧会ではあるが、私が感じたのは結局、それぞれの国に「近代」があるということだった。とかく「モダニズム」の言説は欧米の美術史、歴史、哲学が中心となり、アジアはヨーロッパに対し後進国であるという比較対象でしかなかった。だが、それぞれの国は外来文化に対し、固有の仕方で近代化を遂げる。「キュビスム」の正しい受容の仕方などはなく、その国固有の美術の問題と絡み合いながら、キュビスムの問題が読解/誤解されていく。そのズレは悪いわけではない。欧米中心主義から見たら間違った受容のされ方だろうが、文化の正しい受容など、あり得ないのだ。むしろ積極的に誤解することで、より問題系が広く検証されていくことだろう。そんなことを当時は考えていた。結局、若かったかもしれない。