A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記345 「第1回所沢ビエンナーレ美術展」

2009-12-03 22:09:38 | 書物
タイトル:第1回所沢ビエンナーレ美術展:引込線 カタログ
編集:椎名節
編集協力:坂上しのぶ、保谷香織
撮影:山本糾(表紙、会場・出品作品)、横内賢太郎(p.261, p.267)
デザイン:大石一義
制作:大石デザイン事務所
印刷:公和印刷株式会社
発行:所沢ビエンナーレ実行委員会
発行日:2009年10月29日
定価:2500円
内容:
西武鉄道旧所沢車両工場にて開催された<第1回所沢ビエンナーレ美術展:引込線>(2009年8月28日―9月23日)の展覧会カタログ。

ごあいさつ
目次
出品リスト
「“もの派”とは何であったか。また、なぜ“もの”なのか」青木正弘
「面の顕現・奇蹟のために―ペノーネ展から」天野一夫
「翻訳不可能性と存在の複数性―アン・トルイットの柱をめぐって」石川卓磨
「彫刻の重さ」石崎尚
「「物語り」としての日本美術史」井上幸治
「ある批評家の死」宇野邦一
飯田竜太
石川卓磨
石原友明
伊藤誠
遠藤利克
大友洋司
沖啓介
利部志穂
北澤一伯
木村幸惠
窪田美樹
音楽パフォーマンス
「オルタナティブとしての美術館」神山亮子
「表現と過程―アーティスト・イン・レジデンスを通じて」近藤由紀
「『もの派』の外縁 柏原えつとむ論」坂上しのぶ
「分割される自己―ロザリンド・クラウスにおける彫刻とヴィデオの諸問題」沢山遼
「70年代名古屋:作家たちの交差点 自主企画<やろまいか '76>―日常空間への志向―」高橋綾子
「美術はまたはじまる―2010年美術の旅」Tattaka a.k.a.高橋辰夫
「アブソリュート・ビギナーズ」建畠晢
「長澤英俊/“反転”によるイデアの使徒―物象を相対化する「関係」の彫刻―」谷新
「ICANOFは<バタイユ=交戦>状態にある」豊島重之
小山穂太郎
佐藤万絵子
下道基行
志水児王
白井美穂
高見澤文雄
竹内孝和
建畠朔弥
田中泯
手塚愛子
冨井大裕
戸谷成雄
豊嶋康子
中山正樹
橋爪彩
「人型再生の芽―<偶像破壊>の二十世紀を読み直す」中村英樹
「アート・スカトローグ採集ノート(最近の美術にみるうんこやおしっこやその他排泄物との付き合い方)」成相肇
「「1945年問題」と絵画の変遷―モダニズムとポストモダニズムの対立を超えて」西村智弘
「生きにくい時代のなかにいて」原田光
「かかわりのトポス―物象・統合・形式―」平井亮一
「「一つであるもの」/「一つであること」と「多数であるもの」/「多数であること」」早見尭
長谷川繁
増山士郎
水谷一
溝口達也
村岡三郎
森淳一
山下香里
山路鉱子
山本糾
横内賢太郎
「視覚の三段跳―山本糾の写真の上で」真武真喜子
「さまざまな箱―デュシャンをまくらに」松本透
「三木富雄論 第一章:「なぜ耳なのかと問う前に」」峯村敏明
「失われたユートピア」本江邦夫
「トゥオンブリ:闇のドローイング―「描くことについて」補遺」山本さつき
「SPACE TOTSUKA ’70がもたらしたもの―高山登の活動に則して」和田浩一
「長澤英俊《306枚の鉄板》によせて―応答としての彫刻」渡部葉子
シンポジウム
ワークショップ
展示ガイドツアー
(本書目次より)

予約購入日:2009年9月15日
到着日:2009年11月9日
購入場所:西武鉄道旧所沢車両工場
購入理由:
会期終了後にカタログが完成するため、会場で予約購入。10月が過ぎた頃、そういえばまだカタログがまだ届いていないと思っていたら、その翌日に配達されてきた。
本カタログは展覧会図録と同時に批評誌としての内容を併せ持っている。400ページという分厚さといい、その珍しい形態は評価したい。また、その豪華執筆陣による論考は、前回カタログも充実していたが、本誌も読みごたえがある。今どき、これほどのアンソロジーが編まれることはないのではないか。なお、西村智弘氏の名前が目次では「西村智宏」となっており、間違っている。

偶然にして、「もの派」と「長澤英俊」についての論考がそれぞれ2本づつあるが、読み較べてみるのもおもしろいだろう。
峯村敏明氏は昨年のプレ展カタログに続いて、三木富雄論を寄稿されている。このままいけば所沢ビエンナーレのカタログ誌上で三木富雄論が連載されるという、前代未聞の論考となる。連載が完結したら、単行本化するのだろうか。でも、図版が欲しいので誰か本として出版してほしい。

ところで、所沢ビエンナーレの出品作家は所沢市在住の美術家が中心となっていると「ごあいさつ」に書かれているが、執筆者の方はそうではない(はずだ)。どういう理由で選ばれているのかわからないが、おそらく出品作家の人たちと交友がある人たちなのだろう。すると、この所沢ビ系の出品作家たちと知己を得ていない限り、いつまでたってもビエンナーレに縁がない人たちがいるということになる。別にそれはそれでいいのだが、毎回同じ人が書いてもどうなんだろうと思う。