下川茂から羽茂大崎へと向かう県道の途中に「滝音」と言うバス停がある、ここを左折してしばらく行くと、地蔵院に至るし、その向こうが千手院である。
古記によれば地蔵院は後鳥羽天皇の御代、文治5年(1189年)に、善観法師が開基したとの記録が残されている。現在の連綿住職は42世で、その間約800年の星霜を経ている。なおその間、一時衰微の時期があったが、天文元年(1532年)に、宥秀が中興し、今日に至っているため、宥秀を中興開山としている。寺宝に狩野流と伝えられる波切不動尊の掛け軸がある。
地蔵院の石段の両脇には、それぞれ約2.7mの社寺号標石が建てられており、左側標石の上には観音様が、右側標石の上にはお地蔵様が乗っていた。そして右側標石のさらに右脇に、四国八十八ヶ所の霊場標石が建っていた。階段脇には江戸時代前頃に彫られたと見られる庚申信仰の「見ザル」「言わザル」「聞かザル」の三猿石仏がある。その階段を63段上がったところに彫り物が美しい山門があった。特に山門裏側に「瓜」の彫り物があり、瓜門(うりもん)と呼び親しまれているそうだ。なぜ、三猿石仏がここに祀られているかについて、次のような言い伝えがある。「昔はこの場所に青面金剛が祀られていたが、たたりや不幸が相次ぎ、占いの結果あまり適した場所ではないと判断され、その後、高塚山中腹の人里離れた場所に祀られることとなった。青面金剛は庚申(かのえさる)とも呼ばれ、ニ鳥、三猿がつきもの(何故つきものなのかは知らない)。庚申の日の縁日の夜、胎蔵界の二羽の鳥が金剛界の三猿を起こし、その三猿が三子というものを起こす(何故そうなるのかは知らないが。。)。この三子が起きて、中傷などの悪い事をした人を天帝に告げるため、この晩は善男善女が寄り集まり、鐘の音を朝まで響かせていた」。つまり、青面金剛は三猿に繋がるので、青面金剛無き跡に、この三猿を祀ったと言いたいらしいのだ。
山門をくぐると左手すぐのところに十王堂があり、閻魔大王が祀られていた。十王堂と名前がついたお堂は珍しく、佐渡でもあまり見かけないそうだ。右手すぐのところには、神仏混合の名残で、お稲荷さんが祀られていた。十王堂の奥には鐘楼があるが、残念なことに第二次世界大戦の際に鐘を持ち出され、今は楼閣だけしか残っていない。
本堂内には江戸時代初期頃の作、ご本尊の地蔵菩薩(木像)が祀られていた。地蔵院の山号の宝珠山は、お地蔵様が持っているマニ宝珠からきたものと言われている。桃の形に似たマニ宝珠は水と炎という、相反するエネルギーを併せ持つ最高の宝珠とされ、室内空間の「気の浄化」に効果があり、霊視できる(現実にはそんな事は不可能だろうが)人によれば、周囲から黒い煙が吸い込まれ、突起部分から白くなって排出される様子が伺えるそうだ。
以上、地蔵院のHPに掲載された「開基由緒と境内案内」に関する、分かりにくく理解し難い説明文を要約引用しながら、理解力の低い読者層にも分かり易いような文体に直し、このお寺の現況を観察説明してみたが、あまり面白い物ではなかろうか。。。http://www.digibook.net/d/26958d7f81980e757bcfbfa6e639b71c/?viewerMode=fullWindow