筆者は、昨年の9月下旬に佐渡を訪問した際、何気なく佐渡テレビのチャンネルを捻ってみた。すると、青少年の健全育成に関する懇談会の模様が放映されていた。出席者の一人である、佐渡高校野球部監督の某教諭が「佐渡島民が一体となれるような教育をしていきたい」とその胸の内を語っていた。佐渡高校野球部が甲子園初出場を果たした時は、それこそ全島民一丸一体となって応援した。筆者は、「教諭がその時の思いが忘れられず、あのような発言に繋がった」のだと解釈したが、教育者の発言としては少々不用意であると、同じ教育者として、そう感じたので筆を執った次第である。
筆者は「佐渡島民が一体となる」とは、「全員が同じ思いをもてるような」と言う意味であり、そのような教育とは、「全島民が仲良くして同じ思いを共有できる」ようになるための教育だと解釈した。だが、甲子園出場や朱鷺の雛誕生などの他愛もない事象に対しては、誰もが、「頑張れよ、勝ってくれ、無事に育ってくれ」と同じ思いを抱くのが通例であり、別にそれらは、教育されるべき事でも何でもない。教諭のこの発言をもっと踏み込んで考えれば、「佐渡島民が一体となれるような教育」とは、生徒に対し、「同じ思いを持て」、「同じ考え方をしろ」と教育する事だと解釈する(たとえそれが誤解であるにせよ)人だっているだろうと言う話なのだ。あえて曲解と言われるのを覚悟で言うが、「同じ考え方をするように」教育したら、生徒の個性を損ないかねない。それは戦時中の大政翼賛会を思い起こさせ、「欲しがりません勝つまでは」と一様に頭に刷り込まれる教育が幅を利かせた戦時教育と何ら変わらないのではないかと思う人だっているだろうからだ。
佐渡高校が甲子園出場を果たした時に、佐渡市が応援予算として数千万円を増額したが、島民の中には、「たかが甲子園、それも予選で勝ち上がったのではなく、21世紀枠での出場に、島民の貴重な血税を投入する意味はあるのか?」と捻くれた考え方をする人間だっていてしかるべきと言う話なのだ。考え方、感じ方、感受性、それぞれが微妙に異なる生徒一人一人の個性を伸ばす教育こそが重要であり、画一的な考え方をする人間を育てる教育方法は間違っていると言いたい。教諭がどういう意図で「佐渡島民が一体となれるような教育をしていきたい」と語ったのか分からぬが、筆者のような受け止め方をした人もいたと思うので、あえて指摘させて頂いた次第である。