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Tシャツ屋
1分でTシャツを作る店
シーサーの置物を売る店
客の姿はちらほら
守礼堂と言う土産屋
ステーキハウス
国際通りは日祝日は歩行者天国となるが
路線バスだけは通行が許されている
ラッピングバスが行く
通りの向こうは
松尾の交差点かと思う
国際通りとは、那覇市の県庁北口交差点(パレットくもじ前交差点)から安里三叉路にかけての約1.6kmの通りの名称である。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、『奇跡の1マイル』とも呼ばれた。沖縄県で最も賑やかな通りであり那覇最大の繁華街である。
ところが、この国際通りの目抜き通りの両側には観光客目当ての俗っぽい土産物屋やステーキハウスなどの飲食店が軒を並べており、お世辞にもお洒落とは言い難い。原宿の竹下通りや軽井沢銀座辺りのノリなストリートと思えばいい。だから一度来ればそれで充分的な雰囲気のスポットで、所詮は沖縄の田舎ストリートである。
国際通りの入り口にあるシーサー像
沖縄地料理「あんがま」
南国市場
アグー豚専門店
沖縄工芸雑貨「シーサー」
テレビ等でお馴染みのお菓子御殿
鶴子銀山で豊かな鉱脈を掘り当て、数万両を稼いだと伝えられる、山師「秋田権右衛門」が建てたお寺が吉祥寺であり、現在ではその跡地しか残されていない。「沢根のお菓子屋「しまや」さんの左隣の道を北上すると、やがて左手に秋田権右衛門家の墓が見え、次いで右手に西野金北山(きんぽくさん)神社があり、その向こうの左手に吉祥寺跡がある。西野の金北山神社は、社伝によれば、724年の創建といわれる。かつては鶴子銀山にほど近い屏風沢にあったが、山師秋田権右衛門によって現在の西野に移された。例祭では鬼太鼓や能が奉納されるそうだ。
以下は歴史書を紐解いたところ分かった記述である。
「秋田権右衛門は五十里山を中心に活躍した山師で出生地は秋田。秋田城主の佐竹氏に仕えていたが、1624年に秋田から佐渡に渡った。旧姓は秋元だが、鎮目市左衛門の頃に秋田と改めた。山主の古口権兵衛に仕え、権兵衛の死後に名跡を次いだ。相川から西野村に移住して、屏風沢・仕出喜沢・松ヶ沢・百枚平一帯で稼いだ。正保年間(1644~47)に城下川端にあった多聞寺を西野村に移して、吉祥寺と改称し、更に河内山屏風沢にあった小社を金北山神社として吉祥寺境内に移した。仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当て、1652~58年まで数万両を稼いだと伝えられる。2代目も弥十郎間歩・黒瀬間歩・鳥越間歩・小滝間歩を稼ぎ、銀山巧者として名声を高めた。」
要するに、鶴子銀山で一山当てた大金持ちなのだが、意外に知られておらず、佐渡検定の本にも紹介されていないし、佐渡市の文化財のHPでも紹介されていない。
秋田権右衛門の墓
金北山神社
吉祥寺前にあった並び地蔵
一体一体
表情が違う!
http://www.digibook.net/d/acd5c977a05f027d64a7bfb23021f70c/?viewerMode=fullWindow
国際通りの入り口
県庁の議会棟を右手に見ながら
国際通り方向へ進むと、右からホテル「ロコアナハ」、みずほ銀行、沖縄銀行本店の順に見えて来る
国際通りの入り口の左手にみずほ銀行があり
御成橋通り方向の左手にパレットくもじがある
みずほ銀行と土産物屋のおきなわ屋
国際通りの入り口の右手に
おきな屋やとホテル「ロコアナハ」がある
何が愛のシーサー公園かと言うと
こういうチャラチャラしたシーサーが
銀製の細長い壺状のフードの中に入っていて
それがぐるぐる回る仕掛けになっているのだ
阿保臭いと言ってしまえばそれまでだが、夜はライトアップされ、それなりにカップルのデートスポット的な場所になっていた
公園の入り口には
赤いシーサーがでんと構えており
その隣は交番だから夜の治安と風紀の取り締まり対策はばっちりであろう
首里駅から壷川駅に戻った筆者は、沖縄ハーバービューホテルへは戻らずに、国際通りの南側にあり、那覇市の中心部を東西に貫く開南せせらぎ通りの方へ出てみた。ホテルから下る道と、この通りが交差する地点には「エル・パティオ」なるイタリアンレストランがあった。ここを右折し、暫く進むと国際通りへと抜ける一方通行の道路が左手に見えて来る。この通りが通称「コミュニテイ通り」であり、この通りの左手に那覇市役所がある。右手には沖縄県警と沖縄県庁の行政棟と議会棟が南北に並んで建っている。要するに沖縄の行政、議会、警察権力の中枢がこの一画に集中しているのである。さしずめ沖縄の霞が関とでも言ったところである。
更に議会棟の真向いには沖縄唯一の百貨店である、パレットくもじと沖縄リウボウがあり、その見た目のハイソさゆえに、国際通りの両側に軒を連ねる俗っぽい土産物屋群とは一線を画しているように思えた。だが、沖縄三越が撤退した現在では、そんな百貨店ですら、東京の駅ビル辺りにあるような、多くのテナントが入居する商業施設とは比ぶべくもない品ぞろえでしかなく、沖縄の人々がわざわざ飛行機に乗って東京の百貨店に来たがる理由がよく分かった。
コミュニテイ通りへの入り口
沖縄県警
那覇市役所
パレットくもじとリウボウ百貨店
那覇市役所前の花壇
沖縄県警横の花壇
ハンバーグ弁当
沖縄都市モノレール線「ゆいレール」は、沖縄本島の玄関口である那覇空港から赤嶺経由で漫湖を渡って旭橋に抜け、旭橋からは久茂地川沿いに那覇市の繁華街である久茂地・牧志地区を抜けて国際通りを跨ぎ、国道330号を北上して古島からは環状2号線を上り首里に至る全長約13kmの跨座式のモノレール線である。この約13kmの区間をワンマン運転の2両編成の車両が約30分かけて走っている。
終点の首里駅にはプラットホームは二つあるが、片方だけしか使用されていない。
モノレールのレール
モノレールは二両編成
首里駅の向こうに琉球大学病院がある
首里駅
首里駅構内で見つけた観光パネル
「円覚寺」は琉球王朝黄金時代を築いた尚真(しょうしん)王が3年の歳月をかけて1494年に建立した。円覚寺は、王家の菩提寺として、またかつて琉球一の規模を誇った臨済宗総本山としての役割を担い、首里城周辺に数多くあった仏教の寺院や御殿を代表する存在でもあった。寺は鎌倉の円覚寺を模して作られ、禅宗の七堂伽藍の形式を採用。琉球建築の粋を集めた仏殿には貴重な装飾が施され、総門・山門・仏殿・伽藍などが旧国宝に指定されていたが、その全ては第二次世界大戦で焼失。しかし1968年に始まった復元作業によって、総門・石垣・右脇門・放水池(池に架かる放水橋[国指定重要文化財]は往時のもの)がよみがえり、現在に至っている。
復元された円覚寺の山門
説明看板
円覚寺山門前にあった
沖縄県立芸術大学
佐渡には清水寺(せいすいじ)と名の付くお寺は二つある。一つは新穂にあり、今一つは外海府の石名集落にある。前者は山の斜面に張り出した舞台で有名であり、佐渡市の文化財に指定されている。後者は天然記念物の大銀杏で有名である。石名の清水寺のもう一つの名物は、その寺名の由来となった滾々と湧き出る清水である。これは長寿の水、知恵の水とも言われ、嘘か誠かはるばる九州から取水に来る人もいるやに説明看板には書いてあった。清水は冷たく一口飲んでみたら透き通った味がした。折しも初夏の昼下がり時である、この清水をがぶがぶと飲んで喉の渇きを癒しながら、長寿と頭脳明晰を祈願しておいた。境内には、梨の木地蔵のように、多くの小さなお地蔵さんが大木の根元に飾られており、筆者は大銀杏の葉の下の木陰でしばし涼を取った。本堂内には薬師如来像、地蔵菩薩像、梵字版などが納められているそうだ。
大銀杏
清水
お寺の本堂
境内のお地蔵さん
その2
お寺前に咲いていたチューリップ
http://www.digibook.net/d/3105e3d3905f2079fc43b726bc29b618/?viewerMode=fullWindow
久慶門は首里城外郭の北側に位置する。別名、「喜び誇る」を意味する「ほこり御門」とも言われている。国王や外国の使臣など男性が使用する正門の「歓会門(かんかいもん)」に対し、久慶門は主に女性が利用する通用門の役割を担っていた。作られたのは1477〜1526年の尚真(しょうしん)王の時代で1983年に復元された。門の造りは中央が石造アーチ門、その上には木造の櫓(やぐら)、両脇には城内の水源として重要だった湧泉や龍樋(りゅうひ)がある。雨が地下に浸透し、再び湧水として出てくる場所でもあった。順路の関係から現在は城郭内観覧順路の出口専用になっているが、往時は多くの人々の出入りで賑わっていたと思われる。
久慶門から北殿を見たところ
二つの石垣が見える
上半分が復元された石垣で、下半分が遺構としての本来の石垣
こんな感じで見える
久慶門へと至る石畳の道
ここを右へ曲がると
久慶門に至る
国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門で、琉球語の古称では「みもの御門(うじょう)」「うなか御門(うじょう)」と言う。外郭の城壁がなかったころ、大御門とされた瑞泉門に対し、淑順門は副門とされていた。門の造りは櫓門形式(やぐらもんけいしき)・入母屋造(いりもやづくり)・本瓦葺(ほんがわらぶき)となっている。淑順門西地区では、上半部は第二次世界大戦によって破壊されていたが、発掘調査により、戦前のころまであったと思われる城壁が確認されている。建物の創建年は不明とされるが、2010年に復元された。
北殿内部
大きな沖縄飾り
左手へ行くと久慶門に至る
淑順門の説明看板
淑順門から見た首里城城壁
ライトアップ用のライト
沖縄県立芸術大学キャンパス
ここもキャンパスかと思う
この塔は何だろうか?
人は誰しも旅行する時は快適な旅を求めたがる。新幹線ならグランクラス、飛行機ならプレミアムクラスかファーストクラス、船なら特等で移動し、現地では高級ホテルのスイートルームや高級温泉旅館の露天風呂付き離れに宿泊し、地元産の美味しい料理を食べる。そしてゆっくりと観光した後、スムーズに快適に移動して帰宅する。これが理想である。だが、大抵の人々は、予算上の制約から、新幹線なら普通席の指定席、飛行機はエコノミーの旅割りや早割りチケットで、船なら二等を選び、じゃらんか楽天トラベルで探した安宿に宿泊し、お仕着せの団体料理を食べさせられる。そして総花的にあっちもこっちもとあくせくと観光しまくり、あたふたとしながらせわしなく帰宅するのが常であろう。いくら激安とは言え、そんな旅をして本当に楽しいのだろうか?「安物買いの銭失い」とはよく言ったもので、安上がりツアー旅行とは所詮その程度でしかない。高くても快適な旅を求めるか、少々窮屈でも安い旅で我慢できるかは、個人個人の価値観によるので、どちらがいいとは一概には言えない。だが、けちけち旅に徹するのは、暇はあるが金のない学生のやる事であり、社会人たるものは、それなりのコストをかけた旅をすべきであろう。
さて筆者は、桜の満開から3日を過ぎた2016年の4月3日、傘を必要としない程の霧雨の中、ホテルニューオータニへと向かい、午前11時10分頃に充電駐車場にi8を停めた。そしてロビー階のカフェレストラン「サツキ」を訪ねてみた。店内の客はまばらだったが、5分ほど待たされた後、奥のテーブル席へと案内された。
筆者は、「雲丹、ずわい蟹、オマール海老のパスタ(4514円)」を注文した。すると最初にセットになったパンとサラダが運ばれて来た。その日は猛烈に腹が減っていたのでそれらを瞬く間に食べ終えてしまった。パスタのソースは濃厚なアメリケーヌソースであり、それも瞬時に食べ干して終了。お席でお代を支払った後、雨が上がったニューオータニの駐車場へ戻るためホテルの外に出た。
これを注文した
サツキ
店内の様子
テーブルセッテイング
パンとサラダ
サラダ
パン
ずわい蟹
オマール海老
芝海老
雲丹
パスタ全景を縦アングルで撮影した
首里城正殿の正式名称は「百浦添(ももうらそえ)御殿(うどぅん)」と言う。「たくさんの浦々を支配する御殿」という意味である。中国の宮殿建築の様式を採用しながらも、正面にある装飾板の「唐(から)破風(はふ)」という部分は日本建築の様式で、日中の建築様式をミックスさせている。また、正面階段のハの字状に広がった形式や、龍そのものを柱にしてしまう龍柱は、琉球にしかないもので、これらが合わさって琉球独特の建築物となっている。3階建ての、沖縄県内で最大の木造建築である。
1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自らが政治や儀式を執り行う場だった。中央の華麗な部分は「御差床(うさすか)」と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座で、1段高く作られている。柱は朱漆に金龍と五色の雲の装飾である。左右には国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらうさすか)」がある。向って右側に王子、左側に王孫が座った。裏側には2階に通じる「おちょくい」という国王専用の階段があり、国王はこの階段を降りて御差床(うさすか)に着いた。
2階は「大庫理(うふぐーい)」と呼ばれ、王妃や身分の高い女官が使用した空間である。2階にも「御差床」があり、国王の玉座として国王と親族・女官らが儀式や祝宴を行った。漆塗りの御差床は、禅宗の須弥壇(しゅみだん)と似て、沈金(ちんきん、漆で金箔を接着させる技法)で唐草模様が描かれている。壇にはさらにブドウとリスの彫刻が施されている。ブドウとリスは南蛮渡来のデザインでおめでたい意味があり、琉球漆器にも見られる。2階御差床のある部屋は「御書楼」とも呼ばれ、それはこの部屋に歴代中国皇帝が書いた書が額に仕立てられて飾られていたためである。全部で9つあり、そのうち3つが復元された。康煕・雍正・乾隆帝の書で、ここにはレプリカの王印、王冠も置かれている。2階部分の裏には「おせんみこちゃ」という部屋がある。国王みずから女官とともに毎朝東方に向かって拝んでいたところである。神棚として神霊を祀っていて、女官は抹香を焚いて「火の神」などを拝礼していた。身分の高い神女の任命儀式なども、国王、王妃臨席のもとにここで行われた。
3階は主に通風のための空間で、実際には利用されていない。
北殿
写真撮影に興ずるおじさん
番所